二回戦10
「やば――」
思わず出た声。しかしそれが誰かに聞こえる筈もない。
世界が逆転する。床が空に、空が床に。
そしてそんな事を一々考える時間すらなく、凄まじい衝撃に頭を潰された。
「がっ……」
会場がどよめき、僅かだが悲鳴が混じる。
見事なブリッジでのジャーマンスープレックス。
これがプロレスでもフィニッシュになるだろう、たっぷり三秒以上その姿勢のまま固められてから解放される。
「ぁ……」
支えを失い、私の身体は大の字に倒れた。
今や世界はミキサーにかけた様にぐちゃぐちゃになっていて、それが急速に暗くなっていく。
物凄く眠い時と似ている。目が開いているのかいないのか、それすら分からない。
だが、四肢に力が入らない辺り、ただ眠るのとは違うという事だけが頭の片隅によぎり、やがてそれすらも消えていった。
私は勝たなきゃいけなかった。
何故?そうしないと没落を避けられないだろうから。
没落したらどうなる?最悪の場合体を売って日銭を稼ぐことになるだろう。男の意識を持ったまま男に抱かれることで生きていくようになるだろう。その趣味はない。
だが、それは確定か?いや、あくまで私の予想だ。
予想なら外れる事もある?まあ、そうだろう。
ここで勝つ以外に何とかする方法も?まあ、無きにしも非ずだ。女の仕事だって、何もいきなり娼婦という訳ではあるまい。何か――何でもいいから――仕事を見つける事だってできる。
いや、もしかしたらこれは私の希望的観測かもしれないが、それでも道が無い訳ではない。事実、世間の女が皆全て娼婦で生活している訳ではないのだから。
家に帰って乳母にでも家庭教師にでも出してもらうのもありだろう。幸い、レティシアといういい見本が近くにいたのだ。
応援していると言ってくれた彼女には申し訳ない。だが、どうしようもならない事はある。きっと分かってくれるはずだ。
なら、ここで負けても構わない?……その理由だけならそうなる。
――なんだ、なら負けてもいいや。
今まで続けてきた戦いもこれで終わりだ。
八百長の濡れ衣?知った事か。言いたい奴には言わせておけ。
お家の危機?知るか。勝手にしろ。私は少なくとも努力はしたのだ、頼まれてもいないのに、だ。向こうは最初から何も頼って来てはいないし、多分私に、つまり自分の娘に期待などしていないだろう。あんな的外れなクレームを寄越すぐらいなのだから。
(なんだ……。ならいいか)
薄れゆく意識の中で、私は理解した。
こんな勝負、端からする必要は無かったのだ。
全て私の空回り――つまり、そういう事だ。
終わらせよう。もうここで。
(……けどなぁ)
そうだ、それでいい筈だ。合理的な理由というものが存在しない。
だけど――。
(いいのかそれで)
どこかで声がする。
聞き覚えのある、というかついさっきまで聞いていた声。
「――ッ!!……」
「……!――」
何か言っている。だが良く聞こえない。
「――!……」
聞き覚えのある声。
――なんだって?
「……!!――!!」
こっちもだ。良く聞こえないが、良く知っている声が何か言っている。
声の調子からして近い筈だ。それもかなり。
だが姿は見えない。どうして?
というか、真っ暗だ。
何で?
だからそれは――。
「ッ!!」
腕の感覚が戻る。誰かに掴まれている。
そこまでの思考とその腕の感触が繋がり、反射的に手を握り締めた。
「おお!!」
周囲のざわめきの中、初めて閉じていたことに気付いた目を見開く。
覗き込む審判の顔――驚いている。
私の手首を掴み垂直にあげていた手――私がその手をしっかりと握っている。
「……」
無言で体を起こす。
ダメージが消えたなんて事はない。首も頭も痛む。
本当はもう続けたくなんてなかったし、そもそも続けることに意味がないと分かってしまった。
なのに、何故だろう。
「ミス・ハインリッヒ。戦えますか?」
「はい、続けます……」
反射的に立たなければならないと感じた。
立って戦わないといけないと――いや、そうではない。
「……やらせてください!」
やりたい。続けたい。
戦いたい。
「こっちを見て」
立ち上がり、審判の目を見返す。
またあの感覚だ。下腹部に熱を帯びる。音が聞こえてくるぐらい勢いよく四肢に血が巡っていく。
「よし、続けましょう!」
ゴングが鳴り響き、審判が離れていく。その動きに合わせて会場が一斉に沸き立つ。
「「ハンナ様!」」
その大興奮の中でも聞こえた二つの声――暗闇の中で聞こえたそれによく似ている。
そちらをちらりと振り返る。試合場を見上げているマルタとミーア。少し濡れている四つの目がこちらを見ている。
「さて……」
向き直って相手。
嬉しそうに見えるのは何故だろうか。
「お待たせいたしました」
バレッタがとれて、金色の髪が元の形に戻り、風に僅かにそよぐ。
「まだお立ちになるのですね」
「ええ」
自分でも分からないぐらいに体が軽い。
充分によく眠った次の休みの日の朝ぐらいに気力が充実している。
「続きを始めましょう」
※ ※ ※
「がああっ!!」
完全な形で放ったジャーマンスープレックス。
背後に回り、腕を巻きつけ、しっかり腰を落とし、下半身のばねを最大に生かして投げた。
自分で言うのもなんだが文句なしの出来。初めて覚えてから今日までで五本の指に入る様ないいスープレックスだった。
その一撃。しっかりと勢いの乗ったスープレックスで、この硬いマットに叩きつけたのだ。立ち上がれるはずがない。
(終わりか……)
ぐったりと大の字に伸びた相手を見下ろしながら、私はどこかで確信していた。
ワークではなくシュートの時特有の終了を告げる勘。いままで外れたことが無いそれが頭の中で既にゴングを鳴らしていた。
追撃の必要はない。その証拠にレフェリーは既に奴に駆け寄っている。
(私の目も狂ったのかな)
何となく、不完全燃焼だった。
本当にこれで終わりか?一回戦や昨日の試合で見せたあの姿は、あの表情は、遂に現れなかった。
或いはあれは、私の勘違いだったのか。
僅かに期待外れだったことへの寂しさを感じながら、倒れている相手に背を向ける。
(せっかく、楽しい相手に出会えたと思ったのだけど)
後は勝ち名乗りを受けるだけだ。期待外れではあったが、せめて最後までギャラリーを楽しませなければならない。
キャムフォード家は祖父の代から興行で大きくなった家だ。私も物心ついた頃には父からこの技とその精神を叩き込まれてきている。
今回の試合は個人的にはすこし物足りなかったが、シュート故に生じるものだと割り切ろう。その上で、折角見てくれるギャラリーを最後まで盛り上げよう。
「おお!!」
そのギャラリーの上げたざわめきが、私のその思考を中断させて、倒した筈の相手に振り返らせた。
「へぇ……」
思わず声を漏らす。
自然と口元が緩んでいく。
彼女は立った。
失神確認の最中、レフェリーの腕を掴んで蘇生し、そのまま立ち上がった。
「お待たせいたしました」
初めて、勘が外れた。
だがそんな事よりも、私は興奮と喜びに満ちていた。
「まだお立ちになるのですね」
私の漏らしたその問いかけを、彼女がどう取ったのかは分からない。
だが、悪いようには思っていないだろうという事はなんとなく分かった。
「ええ」
その証拠に私の背中は興奮と、同じぐらいに恐怖と、それ以上の喜びを感じている。
そしてその原因が、それをもたらしてくれているとこれ以上ない程しっかりと教えてくれている。
「続きを始めましょう」
ああ、全く――。
この人は、なんて嬉しそうに笑うのだろう。
(つづく)
投稿時間が安定せず申し訳ございません。
続きは明日に。
なお、明日は午前0時の予約投稿を予定しております。