来訪者15
カシアスを出た時にはまだ青かった空は、既に西の方から紫に変わりつつあった。
だが馬車は速い。徒歩であれば二日はかかっただろう道のりでも、今日の夜には屋敷まで帰り着くだろう。
「……」
帰りの馬車の中、私はただ押し黙って窓の外を眺めていた。
カラカラと音を立てて、オレンジ色に染まった世界が後ろに流れていく。
それが妙に気怠いような、悲しいような、複雑な気分に拍車をかけている。
「……」
ぎりっ、と奥歯がこすれる音で噛みしめていたことに気付く。
――私は、負けたのだ。
レティシアが?違う、私がだ。
今日、私は姉に負けたのだ。負けてはならないと思っていた姉に。
今にして思う。
物心ついてからの私の人生は、常に姉に勝ることを目指し続けてきた。
お父様もお母様も、私と顔を合わせる事はほとんどなかった。
精々食事の時と、或いはどこか別の貴族の所に招待された時ぐらいのもの。
寂しいと思ったことはなかった。生まれた時からそうなのだから。それが普通だったのだから。
それに、レティシアがいつも一緒にいてくれたのだから。
レティシアは優しかった。
レティシアはいつでも良くしてくれた。
レティシアは良き姉の様でもあり、親の様でもあり、先生の様でもあった。
「……」
でも、それでも一つだけ我慢ならない事があった。
同じように育った姉。たった3歳違うだけの姉には両親がいたのだ。
私は、姉のスペアだ。
姉が役目を果たさなかった時の為に用意されただけの装置だ。
いつの頃からそう思うようになった。
そしてそう思うようになった頃、私は姉が羨ましくて仕方がなくなった。
同じようにレティシアに育てられたのに、姉にだけは両親がいた。姉にだけは家族がいた。姉にだけは、両親は娘として接していた。
私だって欲しかった。
私だって娘になりたかった。
私だって家族になりたかった。
でも、そうはならなかった。
だから、奪う事にした。
私は姉に勝る事で、姉より自分が相応しいと証明する事で、彼女から両親を奪う事にした。
そしてある日、それが間違いでなかったことが証明された。
貴族の子女に求められる嗜みの一つである詩の吟詠。特に難解とされるファトゥール伯が恋人に送ったとされるそれを私が諳んじた時。それが私の姉に先んじた最初の経験だった。
その時初めて、私は両親から認められた。
そしてそれからというもの、私は姉の手を出したものは全てなぞるように手をつけた。
一部のものは姉には勝てないと分かっていた。だが一部では、私の方が優れているものもあった。
そしてそれ以外の大半は拮抗していた。
そしてそうした分野のほとんどは、努力による逆転は望むべくもなかった。
何しろ下地にあるものは同じだ。同じ親から生まれた血を分けた姉妹。そうそう簡単に差がつくものでもない。
その上向こうにはわずか3年とはいえ、年の功がある。中々どうして上手くいくものではない。
故に、私の方針は変わった。勝利する事から蹴落とす事へ。
姉より優れていれば私は褒められる。
姉より優れていれば私は認められる。
姉より優れていれば私は家族を手に入れられる。
姉より優れていれば、私はこの家に居場所を見つける事が出来る。
だから蹴落とす。
だから出し抜く。
だから失敗を望む。
落ちろ、落ちろ、落ちてしまえ。
お前なんか、要らない。
「……」
その頃から、レティシアは子供の頃のような笑顔を見せてくれなくなった。
顔は笑っている。態度も変わらず穏やかだった。
けど、どこかが、すごく細かくてわからないどこかが違っていた。
「……アリスお嬢様」
不意な呼びかけで、私はびくりと対面の席に顔を向ける。
「……本日は申し訳ございませんでした」
レティシアは改まって頭を下げる。
きっと、私が今日の彼女の敗北が故に不機嫌だと思ったのだろう。
「……気にしないで」
そう言った時の私の声は、自分でも分かる程はっきりととげがあった。
だが、だからどうするということもない――いや、出来ない。
どんな顔をするべきか、どんな態度を示すべきか、どんな声でどんな言葉を発するべきか、それら全てが分からなかった。
「……」
再び黙る。
馬車全体が水没したように静かで、ただ車輪と蹄の音だけが遠くから聞こえてきていた。
「発言の許可を頂けますか?」
小さく咳払いしてそう呟いたレティシアの方をちらりと見て、すぐにまた黒いシルエットとなった遠くの山に目をやる。
憂鬱がはっきりと表れ、もし誰にも見られていなかったら溜息の一つも漏らしていただろう。レティシアがこうやって尋ねる時は、決まって大切な話だ。そしてそれは大体の場合耳に痛い。
「……」
沈黙は肯定――いつの頃からか私達の間に出来た、こういう時の習慣。
「ハンナお嬢様と立ち会って感じた事がございます」
静かにレティシアは語り出す。
「ハンナお嬢様は、とてもご立派な淑女になっておられました。いえ、勿論ただ格闘の技量だけではございません。ご学友に恵まれ、慕われておられました」
「それで?」
一瞬の沈黙。
それに気付いて彼女の方に目を向ける――多分、それを狙った沈黙だったのだろう。
「アリスお嬢様は、ハンナお嬢様が羨ましかったのではありませんか?」
「なっ!?」
突然何を言い出すのだろう。
羨ましい?私が?姉を?
「アリスお嬢様。私たちは今日、ハンナお嬢様に破れました――」
「一々言われなくても分かっているわよ!」
そうだ。
あんなもの何も羨ましくない。
そもそも、あそこでのあれの人気など、所詮施しによるものではないか。
なら私だって同じように施しをすればいいだけだ。適当に苦しんでいる人間をみつけてきて財物を与えてやればいい。
人間なんて買えるのだから。
「私はあんなの欲しくないわ!あんなもの、はした金掴ませれば犬みたいについてくるわよ!」
怒鳴りつける。
レティシアに反応はない。
それがなんだか無性に悔しくて、私は更に声を張り上げる。
「いい?折角だから教えてあげる。私がお姉様に会いに行ったのは、お姉様を連れ帰るためよ!!私の手で、お父様やお母様にお姉様を引き渡すの!そうしてやれば、一体どっちがハインリッヒの家の者として相応しいか明らかに出来るでしょうからね!!」
「でも、出来なかった」
その一言が――何故なのかは自分でもわからないが――逆鱗に触れた。
「ええそうよ!その通り!!それはあなたが……ッ!!」
言いかけて、しかしすんでの所で留まる。
何故だかは分からない。
だが、続きを最後まで言ってしまったら、私は私でいられなくなってしまうような気がした。
それを口にするのは最後だ。本当に、本当に最後の一線だ。
あらゆる理も法も捨てて、一人きりになるための最後の一線――何故だかは分からないがそんな直感が言葉を止める。
それを言ってしまったら、私はきっとレティシアを永遠に失ってしまう。
「……もう!いいわよ!」
行き場のない苛立ちを吐き捨てて、もう一度馬車の外に目を向ける――逃げるように、という一瞬浮かんだ言葉を脳内から抹殺して。
「……一つ、方法がございます」
それから静かにそう言ったレティシア。私はじろりと彼女の方を見る。
「次はアリスお嬢様が自らハンナお嬢様と――」
「嫌よ」
何を言い出すかと思えば……。全ていい終わる前に私はそれを断った。
「あのような事、私には出来ません」
「出来ません、とは?」
「いいこと?私はハインリッヒ家の人間です。汗を流し、血にまみれて転がりまわるような真似は相応しくありません。誇りある家の者として、そのような真似は厳に慎むべきです」
再び沈黙が支配する。
「……ですが」
ひどく申し訳なさそうな声で、しかししっかりと聞こえるようにレティシアは続けた。
「……今日の立ち会い、私はとても楽しゅうございました。……きっと、ハンナお嬢様も」
「ッ!!」
ハンナも楽しかった。
その一言が私の中の何かに火をつけた。
「だったら……だったらお姉様のところに行きなさい!そんなに面白かったのなら、二人だけでずっと殴り合っていればいいわよ!!あんたなんか、あんたなんか……っ、あんたなんかもう要らない!!」
言ってしまった。
ラインを越えてしまった。
子供の頃の思い出は、二度と戻れない遠い世界のものになった。
だが、そんな事はどうでも良かった。
私の胸に去来した後悔は、そんなセンチメンタルな理由ではなかった。
「……なによ」
レティシアの目。
今まで見た事が無い程の、冷たく、感情の無い、汚物でも見るような目。
救いようのない馬鹿――そう言い放つようなそれが私をじっと見ていた。
「文句があるのなら言いなさ――」
「恐れながら、このままではアリスお嬢様はハンナお嬢様に手が届かなくなるかと」
はっきりと彼女はそう言って、睨みつける私を真正面から見据えた。
「なんですって……」
「ハンナお嬢様はお家の為に今日までお一人で戦ってこられました。立派に格闘術を身につけ、勇敢に試合場に上がられておられます。お家の為、家族の為、たった一人、孤立無援でもご学友との信頼をお築きになられ、そうして知り合われた方々のためにも出来る限りのご尽力をなさっておいでです。……如何ですか?」
如何ですか。批判でも説教でもない、しかし言い返せない言葉。
「……どうすれば勝てる」
絞り出したその声は、自分でも驚くほど追いつめられたものだった。
「お姉様にはどうしたら……」
「私が知っている方法は一つだけです」
そう言ってしっかりと私の目を覗き込む。
「まず、卒業までしっかりと勉学にお励みになられる事。それと、武を磨く事です。ただ単に戦う術を身に付けるというだけではなく、それを通じて心を鍛える事です。そうすればきっと、ハンナお嬢様に決して劣らぬ立派な淑女となられましょう」
結局、それか。
だが、他に何か思いつくでもない。
「……本当に、本当にお姉様に勝てる?」
「ええ。きっと――」
付け加えられた言葉は、向けられた表情は、ずっと昔のように思える優しさを再び思い出させてくれる響きをしていた。
「私はアリスお嬢様を信じております」
「……ッ!」
また沈黙。
今度は外の夕日に染まったように顔が真っ赤になっていく。
「……ぁ、ありが……とう……」
小さく漏らした言葉が外の音に混じる。
「……それと、ごめんなさい」
「いいえ。もう良いのです」
「それと……」
頬が、首が、耳が、かあっと熱を持ち始める。
「……今日の貴女……とっても、かっこよかったわ」
「……ありがとうございます」
それきり、私達はまた黙り込んだ。
けれどそれは決して悪い空気ではなかったと思う。少なくとも私にとっては。
私がまだ今の私になる前に見ていた優しい笑顔が、そこにあったから。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に