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来訪者14

 その日の夕方。

 自室にて、マルタが淹れてくれたお茶を口に運びながら、窓の外に見える山脈に目をやっていた。

 あの後、アリスはレティシアに感謝を伝え、それから――まあ仕方ないとはいえ――何とも微妙な空気のまま帰っていった。


 校門まで見送ったその去り際、レティシアは私にそっと耳打ちして言った。

 「本日はありがとうございました。……それに、アリスお嬢様の件も重ねて御礼申し上げます」

 アリスの件。それだけで何の事かは通じている。


 「気になさらないで。貴女の口からは言えない事でしょう?」

 アリスは主人の家柄で、彼女はあくまでその使用人に他ならない。それがどれ程妥当でも口答えなど出来る筈もない。

 あの状況でアリスを怒鳴りつけられるのは私しかいなかっただろう。


 それを告げると、彼女はちらりとアリスがもう馬車に戻っている事=彼女には聞こえていない事を確かめてから普通の声に戻して続ける。

 「ええ。……それに、私にはどうしてもアリスお嬢様に申し訳なく……」

 「申し訳?」

 確かに、自分が主人の要望に応えられなかった事は使用人としての落ち度と取られるかもしれない。だが、彼女が続けた言葉はそんなものではなかった。


 「あの時、アリスお嬢様は私とハンナお嬢様の間に割って入られました。まるで私を守ろうとするかのように……。現在私はご主人様より、アリスお嬢様がお屋敷に戻られた際のお世話と護衛とを仰せつかっております。その私がお嬢様に身を案じられるなど……」

 「それはたまたまだと思いますけど」

 苦笑交じりにそう言いながらしかし、ハンナ嬢の古い記憶は――99.99%ないと思うが――100%あり得ないとは言い切れないという事を示唆していた。


 まだ幼い頃、私達姉妹の乳母代わりだったレティシア。アリスはその頃から、彼女に本当によく懐いていた。本当の姉である私や両親以上に。

 ちなみに当時からレティシアは全くと言っていいほど面影が変わっていない――まだ二十歳そこそこぐらいに見えるが結局この人幾つなのだろうという疑問は美しく懐かしい思い出という事で見なかった事にする。世の中には知らなくていい事もあるのだ。多分、これも。


 そんな私の脳裏など知る由もないレティシアは改めて頭を下げる。

 「どうか此度の件、アリスお嬢様をお許しください」

 「勿論、私は怒ってなどおりませんわよ」

 事実だ。

 あの時の啖呵だって、ただ奴を黙らせるためだけのもので、別に本腰入れて喧嘩しようというものではなかった。


 そのやり取りのうちに、ハンナ嬢の昔の記憶が色々蘇ってくる。


 「あれでも私の妹です。今回は妹の悪戯に付き合っただけのこと。貴女にも迷惑をかけてしまったわね」

 そう言った時のレティシアの顔を、私はきっと忘れないだろう。

 その穏やかで、優しげな笑顔を。ハンナ嬢の記憶の中にかすかに残っている子供の頃の記憶を復元させたそれを。

 「いえ。私の事はお気になさらないでください。……本当に、とてもご立派な淑女になられたのですね。いつかきっと、アリスお嬢様もお姉様に負けないような淑女になられるよう、私も努めてまいります」

 何となく、小さなアリスが彼女に懐いたのが分かる気がした。


 「きっと、アリスお嬢様も、ご主人様も奥様も、いつかハンナお嬢様の事を誇りに思われる日が来ると信じております」

 「……それは買い被りというものではないかしら?」

 優勝して讃えられることはあっても、それが立派な淑女という評価なのはやはり良く分からない。

 というか、殴り合いの強さを名誉にしたりもそうだが、この国の淑女の概念やっぱりどこかおかしい気がしてならない。

 だが、私のその言葉には、彼女は変わらず優しい笑みを浮かべているだけだった。


 「それでは、これにて失礼いたします。……ハンナお嬢様の御健闘、私もポール様も、心より応援しておりますよ」

 そう言って、彼女は馬車に戻っていった。

 二人を乗せた馬車が、陽が西に傾き始めた中を走り去っていくのを、私は校門で見送った。


 「――それにしても」

 そこまで記憶を辿り、それからマルタの方に改めて目をやる。

 眼鏡の奥には幸せそうにうっとりした目。その表情も何やら幸せそうだ。

 ――笑顔の愛らしい人だという事に今更気付いた。


 「そんなに生真面目に引き受けなくともよろしかったのですよ?本人が洗うと言っていたのですし」

 試合の後、レティシアが着ていた道着はマルタが洗う事になった。

 レティシア本人は恐縮して、洗って返しますと言い続けたものの、そこはマルタが競り勝ったようだった。

 学園の備品だから――といえばそうなのかもしれないが、別に外に洗濯に出すぐらいなんでもない代物であるし、そもそも誰も着ることなく埃をかぶっていた代物である。何しろレティシアは背が高い。彼女のサイズに合う空手家などこの学校にいるのかどうか。


 だがマルタはそんな事はどうでもいいとばかりに道着を受け取ると、私のコスチュームと合わせて嬉しそうに洗濯に向かっていったのだ。


 「いえ、いいのです。学園内での洗濯は私の仕事ですし」

 まあ、本人がそう言うのならいいのだろう。人の仕事の領分まで口出しすべきではないのかもしれない。


 「あっ、そう言えば」

 「はい?何でしょう?」

 レティシア絡みでふと思い出したことを聞いてみる。

 「レティシアを試合場に連れて来てくれた時、随分顔を赤くにしておりましたけど、急いでいらしたの?」

 別にだからどうだという事ではない。

 ただ、純粋に気になっただけだ。


 「あ、ああ……あの時ですね……」

 だが、聞かれた本人にとっては別にどうでもいいという風にはいかなかったようだ。

 再現のように再び顔が赤くなる。


 「?」

 「実はですね、レティシア様は私の前でお着替えなさったのですが……、その……とてもお美しい方でした……」

 「……はい?」

 何故だかは分からない。

 だが割とディープな所に踏み込みつつあるという事は直感で分かった。


 「お美しい体、涼やかなお顔、凛とした態度……僅かな時間ではありましたが、二人きりになれた体験はとても素晴らしいものです」

 「そ、そう……」

 もしかしたら、いや、もしかしなくても。

 この人は恐らくそういう趣味をお持ちの方だ。


 「ね、ねえ……、マルタ……?」

 「はい。なんでしょう?」

 確認する必要がある。

 いや、必要はないかもしれないが、知っておきたい。その……精神衛生上。

 「貴女って、もしかして……その……、あっ、いえ違うのよ!別にそれを非難するとかそういうつもりでは断じてないの!た、ただね?ただその、ちょっと確認したいことがあるというか……」

 とは言え流石にストレートには聞けない。

 現代の日本に育った経験から、その手の事は極めてデリケートに考えてしまう。

 この世界でどうようの感覚があるのかは分からない――少なくともハンナ嬢の記憶にもこの手の話題の引き出しはない――が、なんらかのハラスメントと捉えられる可能性がある以上迂闊な聞き方は出来ない。


 そしてそんなしどろもどろの果て、まるで時間切れを伝えるかのように入浴時間開始を告げる鐘が鳴り響く。

 「あっ、いけない。お風呂のお時間ですね!すぐにご用意いたします」

 「えっ、あ……」

 パタパタと仕事モードに切り替わるマルタ。

 それを追うようにぎこちなく立ち上がりながら、私は今後何とかして朝や入浴後の着替えも彼女を介さずに行う口実を考えることになった。

(つづく)

今日はここまで。

続きは明日に。


尚、次回はおまけみたいな話になります。

新章は日曜辺りにスタート予定です。

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