来訪者10
「……!」
これより先は空手にて。
逆に言えば、これまでは奴にとって空手ではなかったという事。
ただのはったりか、或いは事実だとして一体何が違うのか。そんな疑問が浮かびながらも、それについて引っかかるのは脳内の優先順位では下位に属する。
「……」
しかし、言葉が出なかったのはその発言の為ではなかった。
(なんだ、こいつ……?)
下腹部に差し込まれた冷たいものが全身に広がっていくような感覚。寒気を覚えるような、といえばいいのか。
或いはそれが殺気というものなのかもしれなかった。
構えは変わらない。左手を前に、こちらの顎につきつけるように置き、右手は鳩尾の高さに降ろす。上半身は最初と変わらない。
だが下半身だ。
奴は動きを止めた。それまでの小刻みに上下する独特のフットワークを捨て、どっしりと足をつけて、すり足のようにして少しずつ近づいてくる。
先程までの小刻みな動きは、相手に初動を悟らせないというメリットがあった――少なくとも、実際に向かい合っている私はそう感じていたし、恐らく奴もそれを狙って使っていたのだろう。
それを自ら捨てる?
何があった?
試合中、明らかにメリットがあるのに、或いは使わない事によるデメリットが明らかなのに特定の技術なり戦術なりをとらない場合には、二つの理由が考えられる。
まず使いたくても使えないという事。
これなら悩む必要はない。こちらの戦術が合っているのか、或いは技術的、体力的、精神的に有利に試合を進められているかなのだから。
相手の得意を封じ、自分の得意な形に持ち込める。理想的な試合運びだと考えるべきだろう。
だが問題はもう一つの場合だ。
つまり、従来の動きを捨てた理由が、こちらの把握していない戦術であるという場合=簡単に言えば切り札を切ってきた場合。
これが先程の例程楽観できないのは言うまでもない。
そして、現状どちらの可能性が高いのかも、また。
「……」
奴は少しずつ近づいてくる。
じりじりと、しかし確実に。
「ッ!」
だが、それを黙って見ている訳にはいかない。
同様にこちらからも前に出ていく。背負えるリングの広さが余裕に直結するのは今も昔も変わらない筈だ。
(だが何だ?この感覚……?)
近寄りがたいというのだろうか。
或いは――恐怖なのだろうか。
前に進めば進む程=奴との距離が近くなればなる程、プレッシャーというか先程感じた殺気は強くなってくる。
(落ち着け、ビビるな)
自分に喝を入れ、止まりそうな足を進める。
今までだって相手にプレッシャーを感じたことはあった。ミーアにしろ、リーファにしろ、或いは身体能力的にはそれらより勝っていたと思われる現代の選手たちにしろ。
それらの試合で似たような感覚は嫌という程味わっている筈だ。
だが、こいつから感じるのはそれらとは似て非なるプレッシャー、いや、殺気。
本気で相手を殺すつもりのそれ。
試合やらルールやら戦術やらのための威圧ではない、本当の意味での実戦のそれだった。
「ちぃっ」
跳ねるようにして右側に回り込むように動く。
近づけば近づく程に、一気に横に動いた時に相手の視界から外れる可能性は上がる。
「……ッ」
もう一歩。
奴が追ってきている――いや、追っているのか?
こっちを向いてはいる。それは間違いない。
動きについてきている。それも間違いない。
だが、目が私を捉えているのか、それは――体感的には――定かではない。
もっと別のものが、奴自身の背後からこの試合全体を見ているような気さえしてくる。
「ッ!!」
間合いは詰まりつつある。もう一歩――と見せかけてジャブ。
奴のリーチのギリギリ外であるため当然ながら空を切る。
もう一発同じようにジャブを打つ。
――いや、分かっている。打ったのではない。
(打たされている)
自分でも分かっている。ただ近寄らせない為に腕を振っているだけだと。
私は恐怖しているのだ、と。
「……ちっ」
思わず舌打ちが漏れる。
ビビるな、下がるな、前へ進め!そんな風に自分を叱咤する。
「シャッ」
小さく気合を入れ、意を決して踏み込む。
奴の間合いを通り抜けてこちらの間合いへ。
足が床を僅かに離れ、最短距離で目的地に接地する。
あともう一歩、後足を引きつければそれでいい。
そこから次の一歩を踏み込めば、それで私の一撃は最大の威力を持つことになる。
そのための一歩。その完了直前に、奴が動いた。
「ふっ!」
僅かな前進。僅かな息吹。
「!!?」
だが、それだけで私の身体は止まる。意識してではなく反射的に。ちょうど崖が目の前にあるように、ここで止まらなければいけないという直感で。
その直後、奴の順手正拳が胸に突き刺さった。
「……っは!?」
息が止まる。
合わせて全身が止まる。
身体を串刺しにするように、背中へと衝撃が突き抜けていく。
そしてその衝撃が脳の映像を固定する。正拳突きの瞬間のインパクトで全てが止まる。
その止まった私の頭に、お手本の様に綺麗な上段回し蹴りが叩き込まれた。
スローモーション。
現役時代、ダウンを取られる時はいつもそうだった。
飛んでくる蹴りがゆっくりに見えて、それ受けて倒れる時の視界の揺れさえもゆっくり見えていた――ちょうど、今感じているように。
(ああ、終わった……)
なんとなく、自分でわかる。
これは立てない奴だ。
世界がゆっくり回る。
空が青い。
そこに観客の顔が混ざっていく――どんな表情をしているのかまでは分からない。
ゆっくり、ゆっくり、それらが回っている。
そしてその中、倒れているこちらの視界でも真っ直ぐ立っている事は何故か分かる、しっかりと残心を示す奴の姿。
「……――!」
観客の中の誰かが何か叫んでいるような気がする――こんなに近くで叫んでいる筈なのに、何故かよく聞き取れない。
――まあ、いいや。
どうせ、ここで終わりだ。
誰か知っている相手だったら、後で聞き直せばいい。
時間はあるだろう。
試合は、これで終わりなのだから。
「――!!」
まだ何か聞こえる。
誰かが何か叫んでいる。
「ハ――」
え?何?
「――ハンナ――!!」
ハンナ?
ああ、そうだ。
私はハンナだった。
でも一体誰が今私を呼んでいるのだろう?
だが確認する事は出来ない。
私はもう起き上がれないのだから。
勝たなければいけなかった。
勝ち残って、武闘大会に優勝しなければならなかった。
だけど、無理なものは無理だ。
これで終わり。
この試合に負けて、試合が終わって、それで終わり。
――ああ、そうか。終わりか。
この試合終わるんだ。
「……おおっ!?」
「動いた!!?」
「起き上がれますの?」
――それは、嫌だなぁ。
不思議に四肢が動く。観客がどよめいている。向かい合ったレティシアが一瞬驚き、それから再び構え直す。
何故かはわからない、何が気に入ったのか分からない。
没落云々、優勝云々、決闘云々――それらではない。
何故か、そう何故か。分からないが私は、この試合を終えたくない。
(つづく)
投稿大変遅くなりまして申し訳ございません
続きは明日に
次回こそいつもの時間に