来訪者5
「あの石の価値、お姉様がご存じでないとは思えないのですけれど」
知っていて、これならいいだろうと差し出したという所までは知らないか。まあ、想像もつくまい。
「それで?お父上の伝言にいらしたのかしら?」
小さく溜息をついてからそう告げる。
「もしそうならお気遣いは無用ですわ。お手紙で教えて頂いておりますの」
返ってきたのは口元に手を当てた、やんごとなき姿での笑いだった。
「あら、そうでしたの?でしたらお姉様、お父様がどのようにお考えなのかもお分かりなのでしょう?」
「ええ。勿論ですわ。ですけど、あれは私の頂いたものにございますの。自身の物を自身の責任の中で始末するのは、おかしなことではないのではなくて?」
もう一度笑い。今度は先程よりもわざとらしく。
「ご自身の責任ですって!」
それが、さも重大な発言であるかのように。
「なにかおかしなことを申しましたかしら」
私の問いが更に面白いようで、ひとしきりホホホという、絵に描いたような貴族の笑いが返ってくる。
――なんか腹立つな。
「そんなにころころと笑えるなんて、貴女は幸せなのねアリス」
「いえいえ。失礼いたしました」
こほん、と咳払いを挟むと、元の表情に戻る。
本当に面白おかしくて笑っていればこんなに一瞬では戻るまい。
「お父様に従ってくださいなお姉様」
「お断りします」
間髪を入れずの否定=何一つ譲ることのない意思表示。
「お姉様……。アンドロポフ家との事は確かに残念でございました。ですが、それを引きずられていては、前に進めませんわ」
まるで聞き分けのない子供を諭すような口調でそう話を進める。まだ15歳、日本で言えば中3だ。どこでこういう態度を覚えてくるのか。
「お父様からのお手紙で、我が家の現状はよく御存じのはずです。はっきり申し上げて、これ以上お姉様に何かあれば、お父様もより厳しい将来をお考えになると思いますよ」
「厳しい……とは?」
あるのだろうか。家族そろって身売りして、春を鬻いで生きるより厳しい未来が。
アリスの口調はしかし、そんなもの自明だとばかりに応じた。
「もし今後もお姉様が従わない場合は、お父様は尼僧か、でなければ乳母として家から出てもらう事も考えると仰っておられましたわ」
拍子抜け。
尼僧。乳母。
そのどちらも、男の意識を持ったまま男と関係を持てと言われるよりはマシ――というより、拍子抜けするほどの選択肢だ。てっきり傭兵にでもなって体で稼げとか言われるのかと思っていた。
「……別に構いませんけど?」
答えながら、このピンとこない脅し文句の意味も分かってはいる。ハンナ嬢の記憶によれば、この世界で貴族出身の乳母とは、つまり落伍者と同義だ。
乳母は貴族の子弟の養育に必要な職業だが、その出身階級は騎士と平民が圧倒的多数を占める。
貴族出身者が他家の使用人になる。というのはつまり乳母の出身の家が、その雇用主の家より下という認識になる。
故に、乳母となった貴族は家族から絶縁されるのが普通だったし、絶縁されれば乳母になるぐらいしかなかったのだ。
だが絶縁と、その趣味の無い人間にとっての疑似同性愛と、どっちが苦痛だろうかと考えると、病気その他の危険性の差で後者に軍配が上がるだろう。
だが、勿論そんなことアリスには分からない。
本当に仕方のない奴――そんな感情が透けて見える溜息が、ティーカップから立ち上る湯気を揺らす。
「お姉様、どうかそんな強情をお張りにならないでください」
聞き分けのない姉を持つと苦労する――そんな思いを隠しもしない苦笑を漏らしながら。
「それに、お父様も今すぐにとは申しておりませんでした。ヴェリキー家からのお話は?」
ヴェリキー家からの話?初耳だ。
ヴェリキーという家名自体は聞いた事がある。アンドロポフ家に次ぐ海運業で財を成した家だ。
「あら、なにかございましたの?」
どうやら私が知らされていない事実があるらしい。
その事がよほど嬉しいのだろう。アリスは一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべ、それをすぐに消して話を始める――先程までと同様、聞き分けのない子供をあやすような口調で。
「先日、ヴェリキー家からお姉様を是非御曹司の奥様としてお迎えしたいとのお話がございました。そして無事成婚の暁には、是非ヴェリキー家の事業に我が家を迎えたいと」
私はヴェリキー家の人間を一人も知らない。勿論その御曹司なる人物も。
まあ、それはいい。政略結婚ならそれぐらい珍しくもないだろう。
問題は後半部分だ。私の、というかハンナ嬢の知る限り、ハインリッヒ家に海運業のノウハウなんて全くない。
「事業?」
「ええ。なんでも新たに東エルハイムへの航路を開拓なさるとの事で、そこに出資すれば十分な配当を約束するとの事ですわ。東エルハイム航路は今後成長が確実とされている航路だそうです。それが成れば、我がハインリッヒ家も安泰ですわ」
……なんとなく、何が言いたいのか分かってきた。
「それで、そのヴェリキー家が蒼天石を欲していると?」
「欲しているなんて言い方は余りに不躾ですわよお姉様」
否定しない辺り事実なのだろう。どういう理屈をつけたのかは知らないが。
「……で、お父様はそのお話に乗り気ですのね?」
無論、という頷きが返ってくる。
正直な感想:かつての陰謀屋が落ちたものだ。
その道の専門家が、全く面識のない素人に、確実に儲かるという話を突然持ちかけてきて、金を出してくれと言いだす――これが怪しくないと言うのならこの世に詐欺なんて存在しない。
大方私は蒼天石のおまけ。どこからか我が家に蒼天石があることを嗅ぎつけたヴェリキー家とやらが、それを手に入れるついでに――いや、どちらがついでなのかは分からないが――適当な儲け話を持ち掛けているのだろう。
後は色々もっともらしい理屈を並べて出資金を搾り取るだけ搾り取るつもりだろう。
もし仮にその話が本当だとしても、支払われる配当金が突っ込んだ金額に見合うものだという保障はない。専門家が素人に持ちかけた儲け話なのだ。ピンハネなんていくらでもできる。
――現代で父方の祖母が似たような話に引っかかって年金取られそうになった揚句、親戚総出で思いとどまらせた記憶が思い出される。
「ねえお姉様。いかがでしょう?決して悪い話ではないと思いませんこと?」
今日は聞いているだけで疲れてくる話によく当たる日だ。
「……ちなみに、お相手はどうして私を選んでくださったのかしら?」
「それが御曹司の一目惚れだそうですわ!何でもロイドン侯の園遊会で一目お会いした時から思いを募らせておいでで、この度のアンドロポフ家との一件が最後のチャンスだとお考えの様です」
ロイドン侯の園遊会――記憶が正しければ14歳の頃だ。
「お相手の御曹司はおいくつなのかしら?」
「今年で27になられるそうです」
14歳に一目ぼれする23歳=女子中学生に欲情する社会人。いや流石に……。
「どうかしらお姉様?」
お断りだ。事実にしてもそうでないにしても。
「お父様もお母様も、きっとお喜びになられますわ。そうなれば、蒼天石の件もご助力を惜しまないと――」
駄目だこの家族。
「お断りいたします」
「……本気で仰っておられるの?」
「石は既にソルドー子爵にお譲り致しましたので、そちらにご相談ください。もっとも、子爵もすでに手放していると思いますが。それと私にはどうにもそのお話を信用できませんのでお断りいたしますわ。貴女がもし、お父様からのご伝言にいらしたのでしたら、そうお伝えして頂戴」
その瞬間、奴が見せた目は、間違いなく敵意の籠ったものだった。
「……私はお言伝に参ったのではありません」
「あらそう。なら――」
「今回のお話、全てお父様とお母様がヴェリキー家の方とお話されているのを私が漏れ聞いたものにございます。もしお姉様が賢明なご判断をくだされば、お父様もお母様もきっとお喜びになられますわ」
――ああ、そういう事か。
アリス:妹。要らぬ知恵だけ回る馬鹿。
ハンナ嬢の記憶が告げる。昔から両親や大人に取り入る事に汲々とする子供だった。
その為割を食ったハンナ嬢は随分つまらない思いもしていたようだ。
大方、今回もそんなポイント稼ぎの一環だろう。自分の根回しで話がスムーズに進んだという形にすれば大量得点という訳だ。
大方私は信長の草履だ。それで、こいつは気に入られるためにそれを懐に入れに来たという次第だ。
「はぁ……」
思わず溜息が漏れる。
平民なら一瞬でわかる詐欺に気付かない両親。
その両親へのポイント稼ぎに一生懸命で、やはり何が起きているのか分かっていない妹。
そのくせ自分たちが素晴らしい存在であると信じて疑わないおめでたい思考回路。
揃いも揃ってどうしようもない。
「お父様やお母様に先だって教えてくれたのですね。なら私も貴女に教えて差し上げますわアリス。目を覚ましなさい。貴女は、いいえ、我が家は騙されているのですよ」
一瞬の沈黙。
そして歪んでいくアリスの顔。
(つづく)
今日はここまで
つづきは明日に。
明日こそ試合開始したい