一回戦10
「……ッ!!」
一瞬奴のその呼吸が可視化されたような気がした。
意識を集中させていた。
皮膚感覚を研ぎ澄ませていた。
左胸に僅かに触れた奴の右手=指先。
(来い!来い!来いッ!!)
覚悟は出来た。
さあ打って来い。打たれてやる。
だがやるからには有利にやらせてもらう。この一撃で倒せばお前の勝ち。それ以外の全てで私の勝ちだ。
指が離れる。
その感覚が伝わるよりも前に拳がめり込む。
「うぐっ!!」
重い。
これまでの連打とはまるで別人。
しっかりと、体の向こうまで貫くような重い拳――まったく、期待以上に期待通り。
単発で、重くて、しっかりと分かりやすい力の方向。こいつ相手にこれ以上の好条件は望めないだろう。
「ッ!?」
奴も気付く。だが遅い。
「……捕まえた」
めり込んだ拳。
突き刺さった腕。
つまりこういう事――私が反応する前に引き抜けなかった腕。
慌てて逃げようとする拳を掴む。考えは分かったようだが後の祭りというものだ。
手の甲に親指を当て、包むように拳を――正確には既に開いていたが――掴んで、そのまま肘から先を上に起こすようにして関節を極め、一気に捻る。
「はあっ!」
掛け声で動いたかのように、奴が体をよじり、それが視界の隅に映った時には、その体が床に仰向けに崩れ落ちていた。
倒れた奴の向こうに興奮気味のどよめきを上げるギャラリー。
その無数の目、無数の顔の中ではっと息をついて驚いた表情で固まっているミーアとマルタがスローモーションで目に映る。
小手返し。初めての実戦投入が師匠の前で、それも綺麗に決まった。
一瞬遅れた歓声をバックに、私は再び奴に跨る。
今度は逃がさない。
ここで終わりにしてやる。
※ ※ ※
――どういう事だ。
話が違うじゃないか。
戦いながら、それもこれまではおおむね優位に進めながら――少なくとも私にはそう思えるぐらいのペースをキープしながら――私は己の中に久々に浮かんでくる焦りと苛立ちを自覚した。
目の前の相手=ハンナ・ハインリッヒは大した実力もない、にわか仕込みの技で幸運にも勝ちを拾っただけ。大方予選で当たったミーア・カルドゥッチを買収していたか、或いは彼女が油断していたのだろう。
試合前、シャーロットは私にそう言っていた。
「大したことのない、生まれだけの女ですわ」
あざ笑うかのようにそう付け足して。
それを黙って聞いている私が自己紹介だろうかなどと冷笑していることなど知る由もなく。
だが、実際はとんでもない。
最初の攻防こそこちらが勝利したと言えるだろう。
その後、ついさっきまでは私が優位に運んでいたと言っていい。
だが、なんだ。
立ち上がってからのこいつは――?
こいつは知らない筈だ。こちらの突きも蹴りも。そして切り札の寸勁も。
だが、この短時間で完璧ではないにしろ――いや、私にはそう言う資格はないが――攻撃を捌き、上回り、寸勁に至っては二度も叩き込んで倒せなかった。
奴の拳が頬を捉えた時、ぐわんぐわんと揺れる世界の中で私は理解した。
シャーロットは私が思っていた以上のボンクラか、或いは私は騙されたのだ、と。
(まだだ……)
だがだからとて、私だって引き下がれない。
私は勝たなくてはならない。
こいつを制すれば手に入る大学の席。そして卒業後の研究員の地位。
フレイジャスに限らず、王立大学で研究に明け暮れるには、王家の印可をうけた選定委員最低一名の推薦が必要となる。
ベニントン家であれば、その選定委員に一人ぐらい顔が効く。
言わば仕官のための拳。貴族とは名ばかりの、やっている事は昔話の食い詰めた下級騎士や傭兵となんら変わらない。
はっきり言って大嫌いだ。
大嫌いな貴族社会。
大嫌いなお世辞と見栄の世界。
その道具になるのは、偏にその世界から足を洗えるからだった。
美しき植物の世界。
野放図の様に見えてち密に計算されたような調和のとれた世界。
見栄のためでも面子の為でもなく、ただそうあるためにそうある世界。
その世界の住人となるために必要だったから、こうして戦っている。
(まだだ)
そうだ。
その為だ。
私は、私は――。
(私は負けられない)
負ける訳にはいかない。
お前のような存在に。生まれと血だけの価値しかない連中に。誰の腹から生まれたのかだけしか興味のないような連中に。
そうだ。負けられない。
なのに――。
(……どうして?)
奴には、全てが通じなかった。
突きは捌かれた。
蹴りは返された。
寸勁は耐えられた。
これまで積み上げたもの。
植物たちと同じ、調和のとれた好きな世界だった拳法。
それが、こいつには凌がれてしまった。
だが、認める訳にはいかない。
私は勝たなければならない。
「……ッ!!」
最後の一発。手も足も上をいかれた今、最後の手段。
全てを賭けた寸勁を叩き込む。
――嘘っぱちだ。にわか仕込みな訳があるか。
この寸勁すら、出“させられた”と言うのか?
「ッ!?」
手の甲を掴まれ、一瞬腕に激痛が走った。痛みから逃れたいと本能が体をよじらせるが、それですら折り込み済みで操られていたかのように私の身体は床に突っ込んでいく。
自分で跳んだのでも、投げられたのでもない。
身体が崩れ落ちていったのだ。
もし感覚と現実の間にずれが一切ないのなら、私はこの瞬間突然床に引きずり込まれたのだろう。
どよめきとも悲鳴ともつかない声が辺りを包んでいる。
起き上がろうとするより速く、奴が再び私の上に乗る。
――ああ、そうか。そういう事か。
その時私は不意に納得した。
竜鱗草の裏側の毛がどうしてそこに生えているのかを初めて知った時や、タイリクハスサクラのめしべがどうしてあんな形をしているのかを初めて知った時のそれに近い、言われてみれば当たり前で妙に腑に落ちる、むしろどうしてこれまで分からなかったのかが思い出せないような自明の感覚。
それは奴の目だった。
マウントを取られた瞬間、ほんの一瞬覗き込んだそれは、先程のマウントを脱して連打を浴びせかけた後のそれと同じものだった。
(そうか、……同じか)
私とこいつは同じだ。
ただ分野が違うだけ、ベクトルが違うだけの、同じもの。
奴の目は、きっと私がしている目だった。
植物の研究に没頭している時の私や父と同じ。
(なら、仕方ない)
奴の身体が横に消える。
(残念だけど、まあいい)
掴まれていた右腕がぴんと伸びる。
――腕ひしぎ十字に入られた。
悔しいのに爽やかだった。
苦しいのに穏やかだった。
不思議と研究に向かう気持が一段と奮い立った。
(道は、自分で作ればいいわ)
私のいる場所はここじゃない。
戻ろう。私の戦場に。
左手の指先がトントンと床に触れ、審判がそれを認めた。
※ ※ ※
甲高いゴングが連続して響く。
審判が私の腕を解かせるが、それよりも自分で力を抜く方が早かった。
立ち上がった私の腕を取り、審判は高らかに勝ち名乗りを上げる。
「ウィナー、西棟、ハンナ・コーデリア・ハインリッヒ・ラ・ラルジュイル!」
現役時代と合わせても初めてのタップによる勝利だった。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
今日はここまで。
続きは明日に