一回戦9
そしてその事が俺の焦りを産んだのかもしれない。
マウントをとった状態で、腰が浮き上がった。
その隙を逃さず奴が動く。念入りにこちらの打ちおろしたパンチを掴んで引き込みながら、お互いの股間にできた隙間から足を引き抜こうとする。
「ちぃっ!」
私がそれに気づいた時には既に奴が抜けていた――置き土産とばかりに数発打ち込みながら。
お互いに立って正対。仕留めきらなかったが、ちょうどよく冷静さを取り戻しつつある。
妙な感覚だ。身体は興奮していて、全身に血が巡っている感覚があるのに、頭だけが例外だった。
と言っても寝ぼけている訳ではない。それどころか、いい加減打たれた今の方が試合前より冴えてきている。
そしてもう一つ。下腹部の辺りに感じている熱いものが差し込まれたような感覚は、現役時代にも試合中に何度か味わったものだった。
(なんだか分からないが、とにかく好都合だな)
それが何なのか、何故そうなるのかは分からない。
ただジンクスのように、こうなっている時はいつもより動きがいいような気がしている。
なら、今回もそれにあやかる。
「ッ!」
再び構えて一気に接近しつつ小刻みにジャブ。リーチを活かして相手をけん制し続ける。
時折それでも踏み込もうとする出端を封じるように前蹴りを入れてみる。当たってはいないが、こちらも距離を離すという効果は十分だ。
そうやって前進を止め、再度ジャブを刻む。
十分に相手を追いつめたところで、今度は出端ではなくこちらから前蹴りを放つ。
先程と同様の打ち落としの蹴り。先程と同様に落ちる私の蹴り。
そして先程と同様の反撃=蹴り足を瞬時に軸足に切り替え、それまでの軸足で蹴ってくるカウンター。
だが、ここだけは先程とは違う。つまり、私がその蹴りを掬い上げて掴んだという点は。
「なっ!?」
奴の口から声が漏れ、その次の瞬間には私のローが奴の軸足を捉えていた。
こちらも元々は打撃屋だ。蹴りの軌道なんていくらでも読んだし、それ以上に読まれまくったのだ。当然、奴の動きだけ例外なんて事はあり得ない。
「くっ!」
躱しようがない一撃に奴の表情が歪むのが分かった。
ならもう一発。そう思った矢先に掴んでいた足の重量が急増する。
「っと」
瞬時に手を放す。次の瞬間、体の前でクロスした両腕に奴のもう片方の足がヒット。その姿にギャラリーが歓声を上げ、それにどよめきが混じる。
どちらの反応も納得だ。ドロップキックとは恐れ入る。
だが、当たらなければただの隙だ。
「はっ!」
僅かに下がりながら捌き、着地の瞬間に合わせるようにして左のミドルで胴を真一文字に払う。
「ぐうっ!!」
着地直後、もしかしたらまだ足の大部分が接地していなかった状態では躱しようもない。
その足をすぐに引き、間髪入れずにもう一発――というポーズに、奴は引っかかった。
片足を上げ、腕を胴まで降ろす。ほんの一瞬であるが誤った判断。殴り合うような間合いであれば致命的。
「シッ!」
足を下ろしながら踏込んで放った右ストレートは、しっかりと奴の頬を吹き飛ばした。
会場に再びどよめき。そのどよめきの方に後ずさるように下がった奴に、上体を左右に振りながら一気に畳みかける。
私が押している――実感できるぐらいには奴が後退している。
そしてそんな状態では大して恐ろしくない迎撃は、一度攻撃を止めてしっかり防ぐ。
奴だって人間だ。腕が二本に足が二本の同じ生き物だ。当然突きも蹴りも人間の出しうるものしか出してこない。
それを徹底的にブロックする。しっかりと受けきった瞬間には奴の攻撃は一瞬だが動きが鈍る。
となれば、そこを逃す手はない。
「シャッ!」
受けて、打つ。
受けて、打つ。
三発目は突きではなく手刀だが、これも捌いて殴り返す。
敵もさるものというべきか、手刀への反撃は躱され、四発目に両手を揃えての掌打を放ってくる。
敵もさるもの。だが、こちらだってそれは同じだ。
両手の掌打を左腕を寝かせてそこで受け、そのまま腰を落として弾き返す。
要は子供のチャンバラと同じだ。子供たちが互いの棒をバチバチ当てあうように、相手の攻撃を確実に防御してから反撃に転ずる形を取っていけば当てられる。
受けて、打つ。
受けて、打つ。
受けて、打つ。
基本通りを正確に。
その正しさを証明するように、徐々に奴を試合場の端まで追い詰めていくことに成功した。
「シャアッ!」
「くぅっ!」
左右織り交ぜてのラッシュ。
不意に拳が硬い何かに弾き返される。
「肘か!」
思わず声が出る。
やはり敵もさるものだ。こちらのパンチを肘で防御してくるとは。
拳が弾き返され、手に違和感が走る。肘は硬い。頭蓋骨に叩きつけてもダメージを与えられるぐらいには。
その肘を拳で思い切り殴ればどうなるか?砕けなかったのが奇跡というべきだろう。
しかしその衝撃が、今度は私の動きを止める。
そして次の瞬間、前ならえが体に密着する。
「しまっ――」
次いで衝撃。再びのワンインチパンチ。
原理は分からないが、奴の身体以上の何かがぶつかってくるような、ワンテンポ遅れて衝撃の波が来る重い拳打。
そうして得たチャンスを逃がすかとばかりに飛び掛かってくる奴。
だが今のでなんとなく分かった。
「随分、便利な技ですわね」
ワンインチパンチ。その原理がではない。何故それが起こるのかはもしかしたら本人も知らないのかもしれない。
だが大事な事が一つだけ分かった。
このパンチには明確に重さがある。そしてその重い一撃はしっかりと奴から私へという方向を持っているという事だ。
重さと方向。この二つが大事になってくる。
当たり前といえば当たり前の話だ。
だが、その当たり前がこいつの技の中では異質だ。他の手技は重さよりも手数で攻めてきたに関わらず、こいつだけは明確に重さと方向が明らかになっている。
なら、破り方がある。今の私にはその力がある。
――そして恐らく、今なら出来るだろう。
「……」
再度間合いを詰めていく。
ジャブで牽制し、間合いを詰めて相手の攻撃をしっかり防御。その上で一発ずつ確実に打ち込んでいく。基本的といえばこの上なく基本通りの動きだが、それが必要なのだ。
――勿論、その前に倒せればそれに越したことはないのだが。
ジャブからフック。フックから更にジャブ。そしてストレート。
奴の防御は既に崩れている。それまでの鉄壁ではなく、新たに生まれた隙に拳打を叩き込んでいく。
「シャッ!シィッ!!」
ジャブが鼻を掠め、ストレートが頬を捉える。
再びジャブ。そしてストレート――途中で奴が流石に反応して攻撃を捌くが、最早先程までの強さはない。
「くっ!」
奴の手が私の腹に触れる。
これは、つまりそういう事だ。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に。