一回戦4
「ちょっとお待ちになって」
返事も聞かずに件の机へ。
鍵を回すのももどかしく銀細工の箱ごと取り出す。
「これは……要るか」
少し迷ったが保証書も。
売る時にこれもあった方がいいだろう。
というか、この紙だけ残していても仕方ない。
「お待たせしました」
もう一度椅子を勧めながら、自身も先程と同じ位置に腰掛けて抱えた箱を前に置く。
繊細な銀細工で装飾されたそれが部屋の灯りを反射してキラキラと光っている。宝石や装飾品など、ハンナ嬢の記憶以上の事はなにも分からないが、それでもこういう光を発するといいものなのだろうとなんとなく思う。
「これは……」
開いて中身を見せる。
「どうぞ。差し上げます」
その言葉と、目の前に提示された代物。
それがミーアの中で結びつくまでに数秒を要したようだった。
「え……、で、ですが、これ……」
「お気になさらないで。私、あまりこういうのに思い入れがございませんの」
実際、記憶によればハンナ嬢が欲したものではなかった。
入学の際に実家から持たされたものではあるが、別に入学祝とかそういう代物でもない。
ハインリッヒ家たる者、学生であっても家名に相応しく云々――色々言われていたようだが詳しくは覚えていない。
一つだけ覚えているのは、卒業と同時に迎える筈だった結婚の際にはそれを持っていくようにと言われていた事だ。
結婚。
アンドロポフ家の御曹司。
最早永遠に戻らぬ、ハンナ嬢の人生。
この蒼天石は言わばその象徴だろう。
なら、もう私には不要だ。
「それに、私にはもう不要な代物ですから」
そう言って差し出したそれを、ミーアはまるで核爆弾でも扱うように慎重に、しかししっかりとこちらに押し戻した。
「いっ、いけません!その様な、私には恐れ多いですわ」
「そう言わず、どうぞ受け取ってくださいな。私はもう決めたのです」
「う……」
最早斜陽とは言え国内屈指の名門のご令嬢が決めたのだ。小さな男爵家では中々異議を唱えにくい。
――本当は使いたくない手だが、仕方ない。いくら嫌われても病気の子供には苦い薬を飲ませるしかないのだから。
「で、ですがこれは……」
「これで全ての借金を返せるとは思えません。ですが、少なくとも貴女が死ぬより余程相手は助かるでしょう」
「助かるどころか!」
口にするのも恐ろしいとばかりにミーアは声を上げる。
「完済した上で当座の運転資金にも困らないようなものですわ!」
そんな凄いのかこの石。
先程の中小企業の例で言えば、銀行から明日までにうん千万全額返済しろと言われたその日の夜に宝くじで1億円当てたようなものだ。
「こんなもの頂けません!」
「でもそうしなければ貴女死ぬのでしょう?」
思わず責めるような口調になってしまい、慌てて平静を取り戻す。
「失礼。でもね、私とて、自分が勝ったから死なれたなどとは思いたくないのです。だからどうか――」
そこまで言いかけて、私の脳裏にある言葉がよぎった。
もしかしたら私の中に眠っていたビジネスマンの才能が覚醒したのか、或いはそれを今絞り尽くしたのだろう――多分後者だ。
ひょい、と箱を手元に引き寄せる。
「ねえ、でしたら私と取引しませんこと?」
「取引……ですか?」
ぽかんとしているミーア。
彼女に顔を近付けるようにテーブルの上に身を乗り出す。
「ええ。実は私、練習のパートナーがおりませんの。今回の武闘大会、何としてでも勝ち抜かねばならない事情がありますのに、これでは危ういと思いません?」
「え、ええ……」
聞く気はある。
なら行ける。
「どうかしら?貴女、私のパートナーになってくださらない?それと、もし出来るのなら貴女の技、簡単な物だけでも構いませんから教えて頂けないかしら」
そう持ちかけてから、再度箱を進ませる。
「もし受けて頂けるのなら、これはその報酬として受け取って頂きたいの」
答えは返ってこない。
沈黙は肯定――そう捉えたいが、分からない。
「……はっきりと申し上げます」
なら駄目押しだ。
箱から彼女の手へ両手を移す。
柔らかな感触。「あっ」という小さく漏れた声。泣きはらした金色の瞳をじっと正面から見据える――顔も知らぬ子爵に嫉妬するぐらいには整った顔。男でなくなって良かった。
「私には貴女が必要なのです。ここで死なれては困るのです」
「ッ!!」
しっかりと衝撃として届いたようなら有難い。
「私は貴女というパートナーを得る。貴女は死ぬ理由が無くなる。どう?どちらにとっても悪い話ではないと思いませんこと?」
彼女は赤面し、少しだけはにかみ、目を伏せる。
「……はい。喜んで」
こうして、私はパートナーを得た。
嫁入り道具として持たされ、その本人の婚約がご破算になった後で、赤の他人の縁談を救うという数奇な運命を持った石を手放して。
「はっ、はっ、はっ……」
翌日の放課後、私はいつものように敷地内の走り込みを行っていた。
いつもと同じコース。いつもと同じペース。いつもと同じく真鍮色のシニヨンの生徒が前を走っている。
ただ、違う所も一つ。
「はっ、はっ、はっ」
隣にミーアがいる事。
彼女が練習に付き合ってくれる。
本戦まで一週間を切っている。時間は十分ではないかもしれない。
だが、それでも今の私には十分だ。
※ ※ ※
「ちっ……」
思わず舌打ちが漏れる。
全く不愉快な話だ。あの貧乏娘はあっさりと買収された。
所詮、血の卑しい人間は信用できないという事か。
――まあ、いい。
ハンナ・ハインリッヒが何をしたのかは分からないが、所詮使い捨ての駒だ。
家柄も金も取るに足らない、可愛がってやる理由もないが、敵対する理由もないから放置していただけの零細貴族。それが一人私から離れたとて、別に痛くもかゆくもない。
「まあ、不愉快ではありますけど」
そう。ただ不愉快の一点だ。
用済み、というより用を果たせなかったゴミを捨てただけに過ぎない。だがそれでも、縋る先を間違えているというのだ。
頼るにしても一体何故あの憎きハンナ・ハインリッヒなのか。
最早死に体の、終わっていくだけの家の人間に買収されるのか。
血迷った馬鹿が、同じく血迷った馬鹿に吸い寄せられた。恐らくそんなところだろうが、それでも憎い相手に何かプラスがあるのは腹立たしい。
「……見ていなさい。父上にご報告してあげる」
あれの婚約者一族を潰してやる。あの子爵の家が事業を起こすのに抱えた借金の返済猶予を全て無効にするだけで、早晩一家そろって首でも吊るしかなくなるだろう。或いは惨めな物乞い暮らしだ。
そうなった時、あのバカ娘はどういう顔をするだろう?
「フフッ、フフフフ」
それを考えると言いようのない喜びに包まれる。
いつだってこうしてきたのだ。私に逆らう者は皆、私の思う通りにならない者は皆。
哀れな、取るに足らない連中。
それが必死に抗うのを、容易く、口先一つ、指先一つで永遠にいなかったことに出来る。
どうして、これを喜ばないでいられよう。
――見ていなさい。ハンナ。今にあなたもそうしてあげる。それまで精々、虫けら同士で仲良くなさいな。上手くすれば、掃き溜めで再会した時に残飯を分けてもらえるかもしれないのだからね。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に。