一回戦2
「あの……」
声をかけるが、返事はない。
まるでこの世界に自分しかいないかのように、彼女は脇目も振らず、しかし決して急いでいる訳ではない様子でとぼとぼと階段を上っていく。
直感:このまま放っておいてはいけない。
何故だかは分からない。だが、そんな気がする。
「待って!」
郵便室を飛び出して後を追う。
らせん状の階段に駆け寄り、良く磨かれた太い手摺りに飛びつくようにして一歩目を踏み出すが、その時には頭上で扉が音を立てていた。
「お待ちなさい!」
駆け上がる。辺りに足音が響き渡るのも気にしない――貴族的にはエレガントとは言えない姿らしいが。
可能な限りのスピード。普段のトレーニングと同じか、或いはそれ以上の。
だがそれでも、彼女が出て行ったであろう扉に着くころにはそれは硬く閉ざされていた。
「このっ!」
ノブを回すのももどかしく、体ごとぶつかるようにして外に飛び出す。
外に広がっていたのは宇宙だった。
この世界には電灯などない。廊下にあるような魔石灯か、でなければ蝋燭が精々だ。
そんな世界では夜は完全な闇となる。特にこの辺りは学園以外に人のいる施設はないし、その学園もこの時間に学生寮の屋上より高くに光が漏れている所などほとんどない。
当然、空の無数の星以外に光など見えない。突然室内から出たとなれば尚更。
何しろ自分の足下すらすぐには見えないような暗さだ。
一瞬宇宙に放り出されたような錯覚に陥り思わずたたらを踏む。
「待って!」
だが、目が状況に慣れるのは――有難い事に――早かった。
周囲が暗黒の宇宙空間から夜の屋上へと変わっていく。
そしてその屋上の一番むこうに、彼女の後姿が合った。
「待ちなさい!」
叫びながら突進する。
びくりと彼女の背中が震えてこちらを振り向くが、油断はできない。一応屋上の端はフェンスで囲まれているが、実態はフェンスと言うより手摺りだ。乗り越えようと思えば簡単にできる。
「何をしているの!」
そのまま突っ込んで腕を掴み、自分の方に思い切り引っ張ると、意外なほど簡単に彼女は私に身を預けてきた――これも合気の技という事はあるまい。
「うっ……ぁ……」
胸元で呻くような声。
夜風にかき消されてしまいそうな小さなそれは、やがてしっかりと聞き取れるような大きさに変わった。
「え、えっと……」
そんな彼女を抱きとめながら、情けない事に私はどうするべきか決めかねていた。
あれほどどうにかしてこの子を止めなければならないと思っていたのに、いざこうしてみると何をするべきなのかが出てこない。
確かにおぼろげながら何とかしなければと思っていたのに、実際に行動に移すと確かに頭にあったと思っていたプランは霧のように消えてしまう。
「とりあえず、落ち着いて……」
成り行き上と言っていいのか分からないが、行き場を失くした両手を彼女の背中に回してそっとさする。
「えっと、どうしようか?どうしたらいい……のでしょう?」
慌てて消えていたお嬢様言葉を復旧させる。
この子が何をしたかったのか、いやしたかった訳ではないのだろうが、何かをしなければならないと思っていたのかは最早明らかだ。
こんな時間に一人で屋上に上がった事からも、その端まで移動していた事からも――そして、その前で靴を脱いで揃えていた事からも。
「ね、泣くのはおよしになって。だから……」
だが逆効果。
何を刺激したのか、却って悲しくさせてしまったようだ。
「おぉよしよし……。困りましたわねぇ……」
取りあえず今は落ち着いてもらわなければ。
泣き続ける彼女が熱を発しているのか腕の中は暑いぐらいだが、今はもう秋だ。夜の風は冷たい。
「とりあえず中に入りましょう?ね?」
どれ位そうしていたのか、何とか宥めて立ち上がらせ、ついでに靴も拾っておく。
「……」
その時中に入れられていた封筒をどうするべきか一瞬迷ったが、結局回収した。こんなものを放置してもいい事はないだろう。
「どう?ご自身で歩けて?」
何か返事があったように聞こえたが、それがイエスかノーかまでは分からない。
ただ実際に――フラフラとではあるが――歩いている事、小さく首を縦に振った事からイエスと判断しよう。
寮の中に戻り、すっかり冷えてしまった指先でノブを閉める。
振り返った先でマルタと目が合った。
「ハンナ様!?」
「マルタ!?」
お互いを呼び合う――驚いた声で。
「あ、あのっ、申し訳ございません!」
だが、マルタのそれが謝罪に変わったのはすぐだった。
「郵便室からお戻りになられませんでしたので、何かあったのかと……」
生徒につくメイドは皆この学園に勤める身だが、実際には各生徒の使用人とほぼ同義である。
主の行動を詮索し後をつける――勿論褒められた行為ではない。
ましてや相手はあのハンナだ。何をされるのか分かったものではない。
だが、かつてのハンナ嬢本人ならともかく、そんな事一々気にする私でも、そして状況でもない。
「そ、それはまた置いておくとして。マルタ、先に戻って何か気持ちの落ち着くものをご用意して差し上げて!」
「はっ、はい!直ちに!!」
我ながら中々の無茶振り。
だが二つ返事で弾かれたように踵を返すと逃げ帰るように私の部屋に走っていくマルタ。
その背中を目で追いながら、酔っ払いのように介抱していた彼女に囁きかける。
「とりあえず私の部屋にいらっしゃい。そこで一旦落ち着かれて」
今度も返ってきたのは小さな頷きだった。
「お、お帰りなさいませ……」
緊張した面持ちで出迎えられた部屋はお香のような独特の香りが漂っていた。
成程、確かに気分が安らぐアロマなどというものは現代にもあった。用意した本人は全然リラックスできてないような表情を浮かべているが。
「あら、良い香りね」
「はい。気持ちを沈めるアロマキャンドルをご用意いたしました」
そう答えながら近くの席に彼女=ミーア・カルドゥッチを勧めると、彼女はしゃくりあげながらもそちらに向かった。マルタに丁寧に礼を言って。
「どうぞお気になさらずに。今温かい飲み物をお持ちいたします」
マルタがぱたぱたと奥へ消える。
この部屋は今いる書斎兼応接室のような場所と私の寝室の他に、簡易の台所が設置されている。他二つは生徒が使用するのに対し、ここはメイドが作業をするのが主だ。
「どうかしら?気持ちは落ち着いて?」
問いかけにようやく啜り泣きよりしゃくりあげが多くなってきたミーアに尋ねる――可能な限り穏やかな声で。
「ひぐっ……は、はい……。ひっ。申し訳ございません」
「お気になさらないで。ね?」
ちょうどその時マルタが戻ってきた。
手には銀製のお盆を乗せている。
「お待たせしました」
「ありがとう。さっ、どうぞおあがりになって」
テーブルに置かれたティーセットから良い匂いのする湯気が立ち上る。
「ハーブティーをご用意いたしました。少しでもご気分が落ち着ければと」
「マルタのハーブティーはとても美味しいわ。どうぞ召し上がれ」
二人がかりで落ち着かせようと試みる。
マルタがどこから見ていたのかは分からないが、ただ事ではないという事は分かっているらしい。
して、当の本人。
ようやく泣き止んだかと思えば、今度は怯えているようだ。
ビクビクと怯えるように私とハンナを交互に見て、恐る恐るティーカップに手を伸ばす。
まるで小動物か拾われて来た犬か。取調室でかつ丼出された犯人だってもうちょっと落ち着いているだろう。
「ほ……」
ハーブティーがその細い喉を下りていくと、小さく溜息が一つ漏れた。
「落ち着きました?」
「はい。……申し訳ございません」
今度は深々と、テーブルに額をこすりつけるような謝罪。
「どうかお気になさらないで」
取って食いやしないよ――などという庶民ワードが喉まで出かかったのを危うく飲み込む。いったいハンナ嬢はどれ程恐れられているのか。彼女とは特に面識はなかったはずだが。
「何か悩みがおありなの?」
「そ、それは……」
言い淀むミーア。
だが悩みが無ければあんな所になどいない。
つまりノーはあり得ないのだが、それでも口に出せないような事なのだろう。
――正直、聞いたところで私がどうにかできることだとは思えない。だが、このまま帰すのは余りにリスキーだ。
「どうかしら?人払いは必要?」
ちらりとマルタの方を見る。
「いえ……。でも……」
後は口の中でごにょごにょ言っている。
「それとも、私には言えないような事かしら?」
「い、いえ!決してそのような……、ですがその……」
口に出してから失敗だったと気付いた。
怯えている相手にその表現はまずい。怒っているように感じたのかもしれない。
「ああ、えっと、ごめんなさい。意地悪な言い方でしたわね。今のはどうか忘れて」
「いえそんな……その、申し訳ございません」
それきり黙ってしまった。
参ったな。一向に進まない。
――なら、仕方ない。
「ねえ、貴女の靴からこれを見つけたのですけれど」
「!?」
テーブルの上に先程拾った封筒を置く。
ミーアの表情が凍りついた。
「これを盗み見るような無礼は致しません。ですが分かります」
そこで一拍置く。
「これ、遺書なのでしょう?」
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。
試合はもう少し待って