予選3
感心してばかりもいられない。試合はまだ続いているのだ。
間合いは十分にとれた――幸運にも。
再び構え直す。両方の拳を目の高さまで上げたキックボクシング式の構え。ここから仕切り直しだ。
「シィッ!」
じりじりと距離を詰めつつジャブを放つ。
当てる必要はない。あくまで牽制が目的。
(接近するのは危険か……)
二発、三発とジャブを重ねながら隙を窺う。幸いこちらの方が体格で、即ちリーチで勝っているため、ジャブは牽制として有効に働いている。奴は警戒しているのか右を前にして両手を正中線上に置く独特の構えをとったまま、私が関節技から逃れた時の距離を維持している。
なら好都合だ。掴まれると危険だが、打ち合いならリーチで勝っている上に何より慣れているこちらに分がある。
「シッ」
「……ッ!」
時折踏み込もうと僅かずつ距離を詰めてくるが、それら全ての出端をジャブで抑えていく。やはり有効に機能している。
――このままなら負けることはない。
「我慢比べかしら?」
聞こえないように小さく呟きながらしかし、私は実際の所はそうではない事ぐらい分かっていた。
奴の目は確実にこちらの動きを見ている。私のジャブを、そのリーチ、スピード、そしてそれを出すタイミングと反応速度。
最初の攻めから考えれば、ジャブにびびるような相手ではない。その気になれば強引にでも突っ込んでくるだろう。
つまりこうだ。
奴の行動=瀬踏み。
相手がどれ程の攻撃を可能としているのか、強襲が可能なのかを確かめている所だろう。
奴がしびれを切らすか、その前に私がそうなるか――ではない。奴が私を見切るか、或いは見誤るか、或いは私がしびれを切らすか。
最初と最後は絶対に避けなければならない。
「ッ!!」
だが呟きが聞こえていたのかと思うようなタイミングで、それは訪れた。
奴は踏み込んだ。ジャブを浴びるように突っ込んでくる。
――待っていたやつが来た。
「シャァッ!!」
奴は瀬踏みをした。私はその瀬踏みを見抜いた。
奴の前進に合わせて右足にローを叩き込む。
腓腹筋上部にしっかりと食い込んだのが感触で伝わってくる。
「うっ!?」
奴の顔が歪み、一瞬動きが止まった直後に元の位置まで戻る。
人間の足の構造上、着地の瞬間に打ち込まれたローキックは脅威となり得る。
当然ながら着地の瞬間というのは、進行方向に向かって移動した直後、確実に接地している状況である。
上には自分の体重、そして下には床。言ってしまえば上下から固定されているのに等しい。奴が防御も回避も出来なかったのは、ただ対策不足だっただけではあるまい。
「……」
再び以前の距離で構える相手に、同じようにジャブで牽制する。
(さあ、出てきな……)
しかし今回は牽制だけではない。少しずつだが確実に距離を詰める。
「ッ!」
「シャッ!!」
もう一度踏込み、もう一度ローキック。
もう一度腓腹筋にヒット。
そして今度は動きが止まった。
――逃がすか。
着地と同時に蹴り足を着地させるや否や反対に踏み込む。奴も当然反応する――が、僅かに遅い。
この距離では初動の速さは絶対的なアドバンテージとなる。
「ッ!!」
右のストレート。
今度は何にも止められず。グローブ越しにしっかりと振り抜いた手応えが伝わってくる。
会場が息をのみ、奴が息を止める。
たまらずたたらを踏んだ――チャンスだ。
「はあぁっ!」
一気に勝負をつける。
崩れかかった相手に更にパンチを浴びせかける。
左、右、左――と見せかけて三発目は肘を抉り込む。
更に次の一撃――ではなく相手の頭を右で掴んで逃げ道を塞ぐと、ワンテンポの遅れに受けのリズムが崩れた相手の下腹部を膝で打ち上げる。
――終わらせる。肘と膝はキックの十八番だ。
「うっ、ぐ……」
再度の膝。再度の肘。
組みついているのではなくしがみついているに変わりつつある奴の姿。
最早勝負あり。
――或いはそれが油断に繋がったのかもしれない。
「かっ!!」
しがみつくだけだった奴の手が、不意に組みつくのに戻った――片腕だけ。
「えっ?」
目をつぶった状態で手を繋ぎ、その状態で急に強く手を握られると、その感覚がなくなることがある。
もしかしたらそれと同じ事が起きていたのかもしれない。
もう一本は?ほんの一瞬発生した虚。
遅れて伝わってくる手の感触=パーとグー。奴の掌が拳を包んでいた。
「あっ!」
声を上げた瞬間、天地が逆転する。
再び音を立てる床と背中――ほんの数十秒後の再会。
「がはっ!?」
会場から再度のどよめき。
鮮やかな一本。
「えっ?」
「な、何……?」
――だが、時々漏れてくるそれは?
「……え?」
自分でも上げた同様の声。原因は起き上がろうとした瞬間に目に飛び込んできた光景と、手に感じる独特の重さだった。
「何のおつもり……?」
奴は座っていた。
正座のような姿勢で、倒れた私を見下ろすように。
その姿勢のまま、投げた時の引手はそのまま私の手首を抑えている。
――尋ねながらしかしそれを振り払って立とうとする。一々そんなこと知る必要はない。
「……座ったまま失礼致します」
そう。立とうとした。“した”だ。
つまり、出来なかったのだ。
「えっ!?」
まるで魔術。
軽く握られていただけの手首が床に吸いつけられるようにして、そしてその手首に引きずり込まれるようにして、私の身体は俯せに沈む。
「この……っ!」
魔術ではない。種は分かりきっている。
勢いをつけて立つ――直前に再び地面の感覚が消える。
「ぐっ!」
今度は仰向け。
また起きようとして今度は反対に飛ばされる。奴の左右を行ったり来たり。その度に床に叩きつけられ、或いは腕が決まりそうになって自分で転がる。
「……っの!」
一緒に立ち上がりかけたと思った瞬間には、また叩きつけられている。
そして衝撃で潰れた肺から空気が絞り出されるところで、また奴が正座に戻っているのを見る。
(座捕……?)
衝撃と軋みが思い起こさせる“俺”の記憶。総合デビューした頃に聞いた話――合気道は昭和に創設された武道だが、その技術の基となった、開祖がかつて学んだ古武術の中には座ったままで戦う技術が存在したという。
正直、聞いた当初は信じられなかった。
両足を接地せずに人など投げられるものかと思っていた。大方、気功だとかなんだとかと同様の眉唾の類だと。
――だが、少なくともこの世界には、この世界の合気にはそれが実在する。
「……」
会場は異様な雰囲気に包まれていた。
奴は座ったまま。
私は自由に立つことも出来ぬまま。
まるで将棋でも指しているように、動かないでの睨み合い。
「……ッ!」
「……」
動こうとして、極められる。
立とうとして、崩される。
抗おうとして、投げられる。
奴は座っている。力が入るとは思えない。
だが私はそれ以前に座る事すらままならない。
(どうすればいい……?)
「……タップを」
その言葉が奴の口から発せられたという事を理解するのに一秒近くを要した。
「タップなさってください」
「……はい?」
静かで穏やかな降伏勧告。
「これ以上は……」
優しい子。
これ以上傷つけられない、か。もしくは勝負が見えた以上無駄か。
まあ、どちらでもいい。
「御冗談でしょう?」
一蹴し、手に力を込める。
――感謝しなければいけない。
手首を回し、こちらをコントロールしている奴の手首に触れる。
――戦意を取り戻させてくれたことに。
その状態で一気に腕を引く。触れた指先から、奴の筋肉が、筋が動く振動が伝わる。
――ここだ。
「くっ!」
「捕まえた!」
身体は機械と同じだ。動きにはメカニズムがある――現役時代のコーチに感謝。
如何な合気でも、体を動かさなければ技は出せない。
そして動作には必ず方向が存在する。
では、それを察知出来たら?
応えは簡単。即席合気の完成だ。
「ああああっっ!!」
咆哮を上げる。全身の力を込めて奴を引きずり込む。
――訂正しよう。合気と呼ぶにはあまりに力任せだ。
だが、なんでもいい。負けない為には、勝つためには。
そうだ。勝つ必要がある。勝たなきゃいけない。
タップなんか絶対にしてやるものか。
「こっ……の!」
抗おうとする奴の動き――力VS力に対抗するための技。
長くはもたない。だが、長く持たせる必要もない。
――だって、本命は反対の腕だから。
「さぁ、捕まえた」
まったく、力と体格で勝っていて本当に良かった。
僅かに崩れた奴の上体。その僅かに肌蹴た胸元に手を突っ込んで懸垂のように体を近付ける。
身体は躱せる。だが衣服はそうではない。
両足のつま先が地面を噛み、最大出力で相手に体をぶつける。
既に奴は座捕から他の技に移行しようとしている。
――なら、それでいい。
ゾンビのように覆いかぶさる。
頭の中に浮かぶのは“俺”の記憶――バイトの予習がこんな所で使えるとは。
這うようにして下半身を密着させる。掴まれた右腕が極められそうになるのに抗いながら、左腕を相手の左襟の内側、耳の下辺りに滑り込ませる=メタルガイ直伝の絞め技への入り方。
一直線の棒になる肘から手首。それをそのまま体ごと首に押し付ける。
「ッ!!」
どんなに立派な理屈でも、本能的な生命の危機には抗えない。
咄嗟に奴の腕が締め上げにいった左腕に集中した。
つまり、この瞬間私は自由だ。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に。