大俵資清という男
越前国 永平寺 大俵資清(詠存)
兄の助けで永平寺に逃れてから数年、一緒に那須からついてきた妻が産気づき、ついに長男が誕生した。普通なら嫡男の誕生に素直に喜べたが今の儂は那須から逃げ出した詠存というひとりの僧でもう武士ではなかった。
そんな落ち目の儂にある男が接触してきた。彼は下野の小山家の人間らしく、わざわざ儂を勧誘するために越前までやってきたという。彼は儂のことをよく調べており、それを不気味に感じた儂はその勧誘を拒絶した。しかし彼は諦めることなくしばしば儂のもとを訪れてくる。
そんな彼の様子に絆されたか、はたまた退屈しのぎのためか儂は次第に小山家に興味をもちはじめた。儂が出奔する前から小山家についての情報はあったが当時の小山家は特に興味を惹かれるような家ではなかった。しかし彼が話す内容からして小山家は大分発展したように感じられた。
ある日、いつものように彼は儂のもとを訪れてくる。普段と違って「小山家について知りたい」と話し出すと彼は驚いたようであったが、快く小山家について話しはじめた。
改めて彼の話を聞くとそれまでの認識を覆されることばかりだ。小山家は先代の頃から少しずつ改革をおこない、今では皆川を吸収して下野南部の有力者となっていた。特に石鹸の存在は大きい。石鹸は帝にも献上された一品で帝が愛用していると永平寺でも噂で聞くほどだ。帝からの覚えが良い石鹸を開発したのが小山家だとは恥ずかしながら知らなかった。
また石鹸やその他の名産品、水運の確保によって小山の経済も発展しているという。武力面においても今の古河公方からの信頼が厚いらしく話を聞く限り、上り調子の一家で何故儂に声をかけてきたのかわからない。
「儂が話せる内容はこのくらいでございますが、満足していただけたでしょうか」
「ああ、十分すぎるくらいだ。だがすぐに答えは出せない。しばらく考えさせてくれ」
「かしこまりました。良い返事をお待ちしておりますよ」
そう言い残して彼は永平寺を後にした。残った儂は天井を見つめたまま、さっき聞いた話を頭の中で巡らせる。はっきりいって彼から聞いた話は興味をそそられるもので、条件を考えれば非常に魅力的な勧誘だ。正直なところ那須家より小山家の方が伸びしろが大きいと感じたほど。長男が生まれてからこのままでいいのかという焦りが募りはじめており、小山家への仕官は現状を打開するにはうってつけだったがそれでもまだ判断を下せず一晩が経過した。
その翌日、儂のもとにひとりの見知った人物が訪れてきた。その人物の名は金丸惟清。妻の弟にあたる男で永平寺に潜む儂のもとをよく訪れては那須の状況を報告してくれている。
「久しいな惟清。息災か」
「ええ、義兄上もお元気そうでなにより。那須にいる父上含めても皆元気ですよ。ところで早速なんですが……」
「すまない。その前に話を聞いてほしいんだ」
そう言って儂は小山家に勧誘されていることを惟清に打ち明けた。
「なんと小山家がですか」
「はじめは鬱陶しいだけだったが、話を聞いているうちに興味が湧いてしまった。はっきり言うと子供が生まれてから将来への不安と武士への未練が強まるばかりで、そこにきた小山家の仕官の話は魅力的に思えた。だが同時に那須で再起することも諦めきれないのだ」
「なるほど。そういった話になると儂がこれから話すことはある意味で義兄上の背中を押すことになるかもしれません」
惟清は姿勢を正すと今の那須の状況について話してくれた。那須では相変わらず大関宗増が権勢を振るっており、他の家臣も宗増に追従している状態らしい。
「相変わらず義兄上の事実無根な悪評は那須だけでなく下野全体にも流れております。おそらく大関の手によるものでしょうが厄介なことに大殿様もその噂を信じ切っているようで現状那須への帰還は難しいと思われます」
那須家の当主はすでに資房様から嫡男の政資様に代わっているが儂の悪評は健在らしく那須に戻ることは難しいらしい。もし戻ったとしても那須から疎まれている状態では再起はできそうもない。旧領も別家に割譲されているらしくかつての居城である水口城への帰還もできず、金丸家に匿われる以外に術がなかった。
「救いなのが大殿様が大関の専横を快く思っていないことです。まだ専横を許している状態ですが我慢の限界を迎えたならおそらく政資様は対抗策として義兄上を那須に復帰させるでしょう。それがいつ頃になるかはわかりませんが……」
「儂の悪評を信じている大殿様が今更儂を呼び戻すとは思えんが」
「その悪評を呑んでも呼び戻すでしょう。それほど大関の専横は目に余ります」
「だが時期は今ではない、か」
那須への復帰の道は完全に断たれたわけではないがその確率は極めて低いものだった。たとえ叶うとしても何年後の話になるか。それに対し小山の話はどうだ。今成長著しい小山家の仕官などそう越前にいる身には簡単にある話ではない。不安は大きいが子供の将来のことを考えるとこのままひっそりひもじい生活を送るより非常に魅力的ではある。しかも惟清の話を聞く限り、儂の悪評は小山の耳に入っている可能性が高い。
その中でも儂を買って勧誘してくれている小山家に魅力を感じないわけがない。だが小山家に仕官したら那須への帰還を諦めなければならない。何年後になるかわからないがひたすら那須への帰還を諦めずにじっと待つか、それとも小山家に仕官して別の道で武士として返り咲くのか。簡単に決断できることではなかった。
一晩が経ち、儂はようやく踏ん切りがついて惟清を呼び寄せる。惟清は儂が決断したことにすぐに気づいたようで真剣な表情でこちらを見つめている。
「惟清、そなたには悪いが儂は一度小山家に仕官しようと思う」
儂がそう告げると惟清は小さい溜息をついた。
「儂は義兄上に那須に戻ってほしかったのですが、義兄上の判断を蔑ろにはできませんな」
「すまないな。わざわざ何年もここに通ってきてくれたそなたに報いることができなかった」
「頭を上げてください。これは儂が好きでやってることなんですから。それに小山家に仕官するということは下野に戻るということでしょう。それなら越前で野垂死にされるより全然ましですよ。もし小山家が義兄上を歓迎しなかったら義兄上が小山家を潰してしまえばよろしい。その後は我ら金丸家が義兄上を迎え入れましょうぞ」
惟清が冗談を飛ばして笑った。潰すなんて人聞きが悪い。歓迎されないからといって仕える家を潰すような人間に見えるのか。いや見えるからあの悪評が広まったのだろうな。
あの遺言は間違いなく資親様自身が発した言葉に違いないのだがな。
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