部垂城の戦い
下野国 祇園城 小山犬王丸
段蔵から先日部垂城にて戦がおこなわれたことを知る。晴氏率いるは宇都宮興綱、芳賀高経、壬生綱房、小田政治、佐竹義篤、大掾通幹ら北関東の有力者およそ六〇〇〇。一方部垂義元は周辺の国人を集めた一五〇〇で部垂城に籠城した。義元と結んだ多賀谷は同日結城に多賀谷領への侵攻があり、義元へ援軍を派遣することはできなかった。
野戦ではなく籠城策をとった義元は晴氏方が要請した義篤への帰属を拒絶し両者の激突は不可避となった。ここで不思議なのは高基がまったく存在感を出さなかったことだ。当初義元のもとへ逃れた際には打倒晴氏を強く主張していたが、いつの日かぱったりと表舞台に出ることがなくなってしまった。晴氏は怪訝そうにしていたらしいが油断することなく警戒を続けていた。交渉の場には義元のみが現れて、ついに高基は開戦の直前まで姿を現さなかった。
こうして高基の行方が不透明な中で戦いの火蓋が切られる。部垂城は以前より改修が進められており、かつての一支城の頃より大規模に変貌していた。堀は深く大きく、城門も真新しく変わっている。かつての部垂城の姿を知る義篤は義元の軍事力の高さに驚き、ただの反乱だと思っていた自身の考えの甘さを痛感する。初めて部垂城を見た晴氏たちもその堅牢さに今回の戦の難しさを予感させた。
義元もただ籠っているだけではなく、出るときは出て引くときは引く戦を心得ており、各城門から攻める武将たちも苦戦を強いられていた。
初めて戦を指揮する興綱もそのひとりであり、念入りに用意された逆茂木といった要害を突破するのに苦労していた。数では大きく上回るとはいえ晴氏方は各地から集まった有象無象に過ぎず、各々が戦果を上げようと個別で攻めたため有効的な攻撃に結びついていなかった。思ったより進まない戦況に晴氏は苛立ちを覚えるが感情的になるのを抑えて一度攻撃を取りやめて軍議を開くように指示を出した。
しかし軍議でも有効的な策は出てこない。晴氏は各武将の統率に苦労することになる。結局部垂城を攻め切ることができず、高基の身柄を引き渡すことで両者の間で和睦が成立した。何故義元が高基の引き渡しに同意したかというと、なんと高基は重篤な病に侵されていたのだ。義元は高基の命で病のことを秘匿にしていたが、高基が音信不通になることは防げなかった。
これ以上の秘匿と抗戦は無意味と判断した義元は自身の独立を条件に高基の引き渡しに同意した。義篤は義元の佐竹家への帰属を強く主張したが晴氏にとって重要なことは高基の身柄であり、義元の扱いについては義篤自身が解決すべきと考えていた。晴氏は義篤の主張を退けて義元との和睦を成立させた。他の武将たちも反対せずに和睦は無事におこなわれた。義篤は不満そうにしていたがこれ以上の言及はしなかったようだ。
そして同日多賀谷に攻めた結城は山川政貞を大将にしたが多賀谷との戦に敗れてしまう。幸い政貞は無事に離脱でき、被害もさほど出なかった。しかし目的の多賀谷を叩くことは達成できなかった。これにより部垂義元と多賀谷家重は健在で結城家と佐竹家にとって厄介な存在が残ってしまっていた。
「実質敗北に近い状況だな。高基様の身柄を確保できたことは大きいが、まさか病に倒れていたとは」
晴氏もここまで高基が重症だとは思わなかっただろう。すでに家督は継承しているため今更どうこうするとは思わないが、大人しく隠居させるのだろう。対立していたとはいえ親子。晴氏としては複雑な心境なのかもしれない。しかし高基が病に倒れたことによって却って晴氏の立場は盤石となった。今後晴氏は古河公方として君臨することだろう。
一方で義元の存在は小山にとってさほど重要ではないが結城が多賀谷に敗れたのは少々意外だ。普段から反抗的だった多賀谷が明確に敵になったのは結城にとって厄介な問題になった。同盟相手である結城に厄介な相手ができたことは小山にとってはよろしくない事態だ。
しばらく結城は多賀谷につきっきりになるだろう。もしかしたらこちらにも応援要請がくるかもしれない。今回多賀谷を叩けなかったことが今後に響かなければよいのだが。
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