動乱の一五二三年
色々事情があって更新が遅れてしまいました。また新生活に向けての準備があるので再び更新が遅れてしまうかもしれません。
一五二三年 下野国 小山犬王丸
小山・結城・皆川間で同盟を結んでからおよそ一年が経過すると、この一年で関東周辺の状況は目まぐるしく変貌しつつあった。
まず伊豆の韮山から相模の小田原に拠点を移した伊勢氏が自身の領国支配の正当さを示すために、かつて鎌倉幕府の執権だった北条家の後継者として北条家へと改姓した。それまで伊勢氏は駿河今川家の客将でありながら、伊豆を奪って勢力を伸ばしている他家からの侵入者として山内上杉家や我が小山家などを始めとした関東在地の者から嫌われていた。
一見伊勢氏と北条氏には何も関連性がないと思われていたが、実は当主の北条氏綱の妻が北条氏の末裔だったらしく、その縁もあって朝廷から正式に北条の姓を賜れることになった。それから氏綱は自身の姓を北条へと改姓したのち、それ以前に和解していた扇谷上杉家の支配下であった相模との国境沿いに位置する武蔵南西部の久良岐郡一帯へ侵攻して武蔵南部・西部の国人達は北条家への服属を余儀なくされたのだ。このことに危機感を強めた扇谷上杉家当主の朝興は北条家に対抗しようとするも、勢いに勝る北条家の侵攻に単独での抵抗は困難と考えてそれまで敵対していた関東管領山内上杉家と和睦。武蔵南部の構図は北条対両上杉ということになった。また武蔵だけでなく、小山がある下野にも大きな動乱が発生した。
結城政朝、挙兵。
かねてより結城政朝と宇都宮忠綱との不仲が噂されていたが、一五二三年の夏、農繁期にもかかわらず政朝は旧領奪還を掲げて中村十二郷の中村城に向けて宇都宮領への進軍を開始した。対する宇都宮忠綱は中村城を守る中村玄角を救援するため、自ら軍を率いて宇都宮領と結城領の境目に位置する猿山に布陣し、侵攻してきた結城軍を迎え撃った。具体的な兵数こそ分からなかったものの、噂で聞く限り両軍で総勢六千近くの大軍が猿山の地で激突したようだ。
結城勢は中村玄角の奮闘により中村城を落とすことはできなかったが、猿山の合戦では宇都宮一門の今泉盛高を討ち取るなど忠綱率いる宇都宮軍に勝利し、忠綱を敗走させることに成功した。多くの兵や重臣を失い、宇都宮城へ戻ろうとする忠綱に政朝は更なる追い討ちをかける。
以前より政朝の調略を受けていた芳賀高経が猿山での敗戦で忠綱の求心力が低下したことに乗じ、忠綱の弟にあたる興綱を宇都宮家の新当主に擁立して宇都宮城で反旗を翻したのだ。高経同様に政朝から調略を受けていたのか知らないが、この反乱に高経一派以外にも強権的だった忠綱に反発していた他の重臣達も同調しており、その中には忠綱の叔父で宇都宮家の宿老塩谷孝綱も含まれていた。
成綱の弟で芳賀の旧領の代官も任されていた重鎮孝綱の造反は宇都宮家中に大きな衝撃を与えた。その知らせを聞いた忠綱は顔色を変えたに違いない。小山家で例えるなら長老の大膳大夫に突然裏切られたようなものだ。もし俺が忠綱と同じようなことをされたならば、とても平静を保つことはできないだろう。
だが忠綱の場合、以前からの横暴な振る舞いが今回の反乱を招いた原因のひとつでもあるため、今回のことがなくても遠からず似たような事態は起きたはずだ。彼は彼なりに宇都宮家を中央集権的な支配構造に変えようとしていたが、手段が強引で結果的に家臣の反発を招いてしまったのだ。
結局、高経を筆頭にした反忠綱派によって宇都宮城への帰還を妨害された忠綱は宇都宮城を諦めて忠綱を支持していた壬生綱房の鹿沼城へ落ち延びたのであった。これにより忠綱は事実上宇都宮城と宇都宮家当主の座から追放され、高経に擁立された興綱が宇都宮家第十九代当主となった。しかしいまだ三歳の俺がいうのはあれだが、新しく当主に就いた興綱の年齢はまだ十歳と若年で、ほぼ実権はなく実質高経の傀儡となるだろう。
興綱の母親は関東管領上杉顕実の娘で血筋は申し分なく当主としての正当性は問題ない。しかし鹿沼城に移ったとはいえ、忠綱はまだ健在で宇都宮家中でも力がある壬生家が後ろ盾にいる。すでに宇都宮家は親忠綱派と反忠綱派の2勢力に分断され先代が築き上げたかつて北関東の覇者であった宇都宮家の面影は残っていない。この状況は宇都宮家と対立関係にある我が小山家や皆川家にとってこの上なく好機だったが、ある人物の介入で状況は面倒なことになりつつある。
その人物こそ古河公方の当主足利高基である。彼は成綱の娘を妻としており、政朝と同じく忠綱と義兄弟の関係にあった。高基は成綱の後見で古河公方の当主に就任できた経緯があり、成綱・忠綱親子との関係は良好だった。特に成綱の息子の忠綱とはかなり親交が深かったので宇都宮を追放された彼への支援を表明してしまったのだ。
これの何が面倒なのかというと、小山家は2代前の持政公以来古河公方側に属していたということと、我が父政長の立場にあった。
俺が生まれる前、足利高基とその父の足利政氏の間に起きた古河公方の家督争いの際に当時小山家の当主だった俺の祖父にあたる成長は高基ではなく当時の古河公方当主政氏を支持していた。当時主な政氏方だったのは小山家、常陸の佐竹家、岩城家で特に俺の爺さんの成長は政氏の信頼がとても厚く、政氏が居城を追われた際には祇園城に招いて政氏方の拠点として活動していたほどだ。しかし次第に政氏方が劣勢になり、敗色が明らかになると父は小山家存続のために政氏を祇園城から追い出し、政氏方の成長を隠居させて高基方に転じた。この小山家の立場の変化が高基派の勝利を決定づけ、高基は政氏と和睦して正式に古河公方を継承したのだ。
この出来事以降、父は一貫として高基方として活動しているため、宇都宮の分裂という旧領回復のチャンスを目の前にしても高基の意向を完全に無視できず、旧領を取り戻すための軍事行動に積極的ではなかったのだ。
まったく公方様には困ったものだな。気持ちは分からなくはないが、よりによって忠綱の肩を持つとは。せめて中立を保ってくれたならこれほど面倒なことにならずに済んだものを。後ろ盾を失うのを恐れたといえ、宇都宮の分断が長引けば戦乱で民衆が苦しみ、結果的に宇都宮の力が落ちるのは自明の理だというのに。
まあ、ハイエナのように宇都宮領を狙う我々がいえる立場ではないがな。
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