関宿城攻防戦 前哨
短いです
下総国 関宿城
関宿城は本丸の背後に川が流れており、本丸や二の丸をつなぐ堀は利根川水流を引き入れた当時としては珍しい水堀となっている。近隣の城郭と比べても規模も比較的大きく、一国に値する城という名に劣らず屈指の堅城であり、高助も大軍相手でもそう簡単に落ちないと確信していた。
そんな簗田高助が守る関宿城は足利義明率いる小弓勢五〇〇〇余に包囲されていた。
城を包囲し鬨の声を上げる下総勢を加えた義明の軍は以前より数が増している。敵の兵力の主力は真里谷信清、里見義豊ら上総勢が中心だったが下総の多くが義明に与したことで義明は房総半島で一大勢力となっていた。
しかし高助は敵の包囲網を見てあることに気づいた。包囲しているはずの敵の兵力が想定より少ない。
今囲んでいるのは見た限り二〇〇〇余しかない。よく見ると本隊と思われる軍勢が包囲網からやや離れた位置に座しているのが物見から確認できた。その本隊らしき軍勢は包囲している軍勢と距離が離れており、包囲にはまだ加わっていなかった。
それと同時に包囲している軍勢の旗印が千葉や相馬の家紋である月星や九曜ばかりであり、義明の足利二の引や真里谷の割菱といった旗印が見えないことも判明した。つまり城を囲っているのは最近降ったばかりの下総勢で彼らは先鋒の役割を担っていた。いや担っているというより押しつけられたか。
先陣は戦の誉れでもあるが義明の場合は信用しきれていない下総勢を先鋒で城攻めさせることで関宿城との共倒れを狙っている可能性があった。
勝って城を落とせれば良し、落としても下総勢の犠牲が大きければ力が弱まり義明に歯向かうこともできなくなるし、運悪く当主が討ち死すれば義明が後継者について口を出すこともできる。
特に千葉や相馬は義明が北条と和睦した前年まで義明と争っていた。そして今回その千葉と相馬が前線に赴いている。反義明派だった両者の心中は複雑だろうが戦果を挙げなければ今後の立ち位置にも影響がでてくる。
高助は千葉らの立場を気の毒とは思うものの関宿城も決して他者を思いやる余裕はなかった。敵が先鋒のみとはいえ、関宿城に籠っているのは八〇〇余しかいない。
攻城戦は攻め手が守り手の三倍の兵力を必要とされているが、本隊が加われば二〇〇〇対八〇〇が五〇〇〇対八〇〇と約六倍以上の戦力差になってしまいいくら関宿城といっても守るのは厳しくなる。
先ほど伝令から要請した援軍がすでに古河を発ってこちらに向かっているとの情報を得た。幸い関宿と古河はさほど離れておらず、後詰が到着するまでの数刻が勝負だと高助は確信していた。
高助は家臣たちに各守り口へ向かうよう指示しつつ、妻子らには本丸の奥へ避難するよう呼びかけた。息子は幼くまだ物心がついたばかりで周囲の殺伐した状況に怯えて母の腕にしがみついている。そんな息子の様子に心を痛めながらも城主としての努めを果たすべく高助は家族のもとから姿を遠ざけた。
しばらくして敵方から使者が関宿城にやってきた。使者は千葉家の人間だった。内容は城兵の助命を条件とした開城の提案だった。しかしその中には高助の切腹も含まれていた。これを切り出した使者は言いづらそうにしており、これは義明が強く要望したものだと理解できた。古河の宿老として活躍してきた高助を義明は疎ましく思っていたに違いない。また助命して味方に引き入れたとしてもとても信用できないと感じていたかもしれない。
このような条件は到底呑めないとする城側に使者も分かっていたという風に諦念の表情を浮かべ、
「仕方ありませぬ」
と一言言い残して関宿城を後にした。
交渉は決裂。これで開戦もまもなくということになり、高助は本丸に座したまま指揮を奮う。
「皆の者、今しばらく攻勢に耐えよ。古河から援軍はしばらくしたら到着するはずじゃ」
「「「ははっ」」」
高助の下知を背に一族の簗田基助、家臣の鮎川豊後守、会田内蔵助らは各守り口へ散っていった。
以下各口の寄せ手と守り手の構成
【大手口】
寄せ手 千葉昌胤、原胤清、高城胤吉、押田吉持ら
守り手 簗田基助、賀嶋良右衛門尉、仙波左京ら
【平井口】
寄せ手 臼井景胤、海上助秀、武石胤親ら
守り手 石川彦六、会田内蔵助ら
【埋口】
寄せ手 逃亡を促すため無人
守り手 鮎川豊後守、鮎川美濃守ら
【搦手口】
寄せ手 相馬胤貞、国分朝胤ら
守り手 石川隼人、貝塚五郎ら
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