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北条と古河公方

 一五二六年 下野国 長福城 小山犬王丸


 新たに加わった彦右衛門はその剣術の腕前を前に早くも他の者からの信頼を勝ち取っていた。学問に通じていることや彼の人の良さも要因のひとつだろう。彦右衛門は外部の新参者ゆえ打ち解けるのは簡単ではないと思っていたが杞憂だったようだ。


 彦右衛門は剣の腕だけでなく教えることに関しても非常に優れていた。多少腕に自信がある者から俺のように一から基礎を習う者までそれぞれに適切な教えを授けることができるのはこの時代でもそう多くはいないだろう。そのため彦右衛門より年上の者すら彼に敬意を抱いており、わざわざ教えを乞いに来る者も少なくなかった。中には彦右衛門が未婚なのをいいことに己の娘や親族を勧めてくることもあり、予想外の歓迎ぶりに彦右衛門の方が驚いて俺に泣きついてきた。



「はっはっはっ。まさかあの彦右衛門が女子のことで俺に泣きついてくるとは思いもしなかったぞ」


「笑い事ではありませんぞ。新参者の某に嫁はまだ早すぎます」


「だが女ひとりくらい養える禄はあるではないか。もしかして将来を誓った女がいるのか?」


「そういった者はおりませぬが……」



 彦右衛門の歯切れが悪い。



「では衆道なのか?それなら無理にとはいえぬが」


「い、いえ衆道ではございませんぞ。ちゃんと女子にも興味がありまする!」


「お、おう。なら何故躊躇する必要があるのだ?話を聞けば源兵衛も名乗りを上げているというではないか」



 横田家の分家とはいえ三郎九郎と共に長福城を任されてきた源兵衛の地位は小山の中でも決して低くはない。その娘となれば彦右衛門にとって悪手ではないはずだ。


 噂によれば源兵衛の娘は性格に難があるわけでもなく、外見も悪いわけではないらしい。歳も十六と彦右衛門との差は大きいがこの時代の女性では適齢期にあたるため嫁ぎ遅れというわけでもないのだ。



「彦右衛門の意思を尊重するつもりだが、せっかくの縁談を理由もなく袖にするのはどうかと思うぞ」


「縁談に不満があるわけではないのです。しかし某は塚原の分家筋の生まれで次男坊でございます。長年剣と学問ばかり学んでいた身で小山家に仕えている今は頼りになる実家も先祖代々の土地もありませぬ。女も知らずに育ってきた某には不釣り合いな話だと考えております」



 つまり新参で実家の力もない自分には妻を娶ることは恐れ多いということらしい。こればかりは個人の考えもあるので無理強いはできないが、源兵衛もそこは承知してると思う。



「最終的には彦右衛門の判断になると思うが、俺からはしっかり話し合えとしかいえんな。ところで彦右衛門、北条が扇谷上杉に敗れたことを覚えているか?」


「はっ、酷い負け戦だったと聞いております」



 今年の六月、北条氏綱は武蔵の白子原という地で上杉朝興に敗れた。それも当主氏綱自身が重傷を負ってしまったほどの完敗だ。にわかには信じがたい話だが兵力では圧倒していた北条軍だったが武田や山内上杉の援軍がなかった少数の扇谷上杉に野戦で負けたらしい。


 戦上手の北条がそのような酷い負け戦をしたと聞いたときは他の重臣たちと同様に虚偽の情報かと疑ったものだ。恐らくこの負け戦は北条の中でもかつてない失態かもしれない。

 当主の負傷により戦線の停滞を余儀なくされた北条は扇谷上杉の逆襲を許すことになり、武蔵の蕨城や岩付城、その周囲の砦を瞬く間に奪還されてしまった。これにより北条方の江戸城と玉縄城が上杉の脅威に晒されてしまっている。


 万が一南武蔵の要である江戸城と鎌倉・小田原の防衛ラインである玉縄城が陥落すれば武蔵は再び扇谷上杉の手に戻り、武蔵どころか東相模も北条の支配から離れてしまうだろう。江戸城と玉縄城の小田原の東の防衛線の突破を許すとなれば北条の命運は風前の灯だ。


 そしてこの北条の惨敗は北関東特に古河公方にも大きな影響を及ぼしていた。


 北条の軍事力を当てにして同盟を結んでいた古河公方は上総の小弓公方との戦いに苦戦を強いられていた。今年に入って下総本佐倉城主の千葉、守谷城主である千葉一門の相馬が相次いで小弓方に降伏し、その支配下に組み込まれた。古河方は千葉と縁を結んでいる北条の救援を期待したが、その北条が防衛に手一杯になってしまい、房総に援軍を送ることができなくなってしまったのだ。


 このことによって真里谷、里見の支援を受けた小弓公方の侵攻を食い止めることができず下総南部を奪われてしまった。高基は戦況の悪化と北条の苦戦の苛立ちを家臣や北条にぶつけているらしい。最近では現実逃避なのか酒と女遊びに嵌っているようで父上も古河の現況を危惧していた。


 急激に政から興味を失いつつある高基に代わって古河で台頭してきたのは嫡男の亀若丸だ。今年の末に元服を控えている彼は戦の経験がないが求心力が低下しはじめた高基と違って武芸を得意とする勇猛果敢な武将だという。また教養も優れており京の公家から和歌や漢詩の指導を受けた文武両道だ。


 しかし亀若丸は父の高基とそりが合わないようで度々意見がぶつかることがあるらしい。今はそこまで深刻な事態になってはいないそうだが、父上は再び家督争いが起きるのではないかと心配していた。父上の脳裏には以前起きた先代公方と高基の家督争いのことがよぎったに違いない。あの争いによって古河の重鎮だった小山家も内部分裂を招いて若い父上が家督を相続することになった。また争い自体も十年近く続いたので疲弊が激しく宇都宮や結城の台頭などにより小山家も衰退を余儀なくされたのだ。その苦い記憶から古河の将来を不安視する者が多い。


 そしてこれは彦右衛門どころか重臣の一部しか知らされていないことだが、安房の里見が北条が支配する鎌倉を攻めたてたのだ。鎌倉の近くにある玉縄城は落城しなかったが、この襲撃により鎌倉の街と鶴岡八幡宮が焼失してしまうという事態が起きてしまった。


 鎌倉の地は関東武士にとって特別な所だ。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから関東の政治の中心であり、古来より鎌倉を支配する者が関東武士の主となると漠然とした思いが多くの者にあった。また鶴岡八幡宮も源氏に縁があり長年関東武士の信仰を集めていた、いわば関東武士の魂の拠り所だった。そんな土地を焼かれたことは各自勢力に大きな動揺をもたらした。特に古河公方にとっては鎌倉は初代成氏から帰還を望んでいる場所であるため、高基や亀若丸はかなり混乱したようだ。


 鎌倉を支配していた北条は元々成り上がり者と蔑まれていたところに加えて鎌倉焼失の大失態により様々な勢力から罵詈雑言を浴びせられることとなった。そして実行犯である里見も北条同様に反発を招いた。里見は鎌倉の焼き討ちに加えて略奪もおこなっていたらしく、当主の義豊は盟主でかつて鶴岡八幡宮の別当だった義明の怒りを買ってしまった。


 この北条の影響力低下と古河公方の衰退は今後の小山にとって大きな分岐点となる。それは父上や重臣たちも同意見で小山の身の振り方も考えなければならなかった。



「そういう状況だから、しばらくしたら小山も動くらしい。長福城も動員する予定だから彦右衛門も準備してもらうぞ」


「ははっ!」

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