表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/344

塚原彦右衛門

 下野国 長福城 小山犬王丸


「なんと、彦右衛門殿は兵法にも通じておられるのか」


「若い頃に足利学校で兵法など座学を少々嗜んだ程度ですよ。卒業はできましたが同期には到底及びませんでした」


「ほう、足利学校に?それはまた何故に?」


「元々勉学が好きだったというのもありましたが、某が剣術のみでは生きていけないと感じたからでしょうか」


「ふむ、彦右衛門殿は塚原の道場でも指折りの実力とお聞きしたが」


「それは事実なのですが、当時は土佐守様に松本備前守様、吉川様、常陸には愛洲殿と剣の名人ばかりで某程度の腕は珍しくありませんでした。特に同じ道場の塚原新右衛門様は某の腕では到底及ばず、まさに桁違いの強さでございました」



 新たに剣術指南役となった塚原彦右衛門は三十を少し過ぎたくらいで武芸者らしく鹿のようなしなやかな筋肉をしている。剣客としては若い部類に入るかもしれないが剣術の腕に疑いはなく、さらに兵法や風水など教養を身につけているという。


 塚原家は鹿島家の家老の一角で現当主の土佐守安幹(やすもと)殿は塚原城主として領地経営をする一方、自ら道場を開き多くの門人たちを鍛え上げた師範でもあった。彦右衛門殿も土佐守殿の道場で修業したひとりで元服してからはしばらく塚原家に仕えたが更なる自己研鑽のために塚原家から暇を願い出て、無禄のまま下野の足利学校の門を叩いた。


 足利学校は古くからあったようだが創建時期はよくわかってない。足利家が幕府を開いた頃から次第に衰退していたらしいが、1432年に足利の領主だった関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)公が鎌倉の円覚寺から僧を招いたり、蔵書を寄贈したりと自ら再興に尽力されたおかげで今では坂東の大学と称されるまでになった。


 また憲実公が足利学校の規定を定めたことで学問の専門性も高まり、全国から入学希望者が集まるようになった。足利学校の学費は無料であり身分問わず入学が許可されているが、同時に入学後は僧籍に入る必要があった。


 彦右衛門殿も例外ではなく在学中は頭を丸めていて卒業後に再び還俗したらしい。足利学校には学寮がなく、近くの民家に寄宿し食べ物も学校の敷地内で菜園を営む必要があり、基本的に身の回りのことは自分でこなさなければならなかった。そのため卒業生たちは学問だけできるような学者然した者というより乱世でも生きていけるような者が多かったという。


 彦右衛門殿は卒業後は再び常陸に戻り塚原家に仕え直したそうだが、塚原家の主君である鹿島家で内紛が勃発し当代きっての剣豪と恐れられていた松本備前守が多数の首を挙げながらも討ち死した。鹿島城を急襲した先代当主の義幹も討ち死したため鹿島領は危機を脱したが、鹿島家の疲労も大きくしばらく苦しい時期を迎えている。義幹は戦死したがその嫡男の幹信(とものぶ)は未だ健在で下総の東庄(とうのしょう)城を拠点としているため安泰とはいえない状況だった。


 義幹を追放するにあたり大掾、島崎、江戸の諸氏に介入を許していた鹿島家は地盤が安定しておらず佐竹に通じていると噂される幹信を討伐することもままならなかった。その中でも彦右衛門殿は鹿島家に仕え続けようとしたらしいが、師匠である土佐守殿が彦右衛門殿の才がこのまま埋没するのを惜しみ他国への仕官を勧めたそうだ。



「土佐守様はまさに剣に生きるお人でした。私のときもそうですが、あの方は門人たちに鹿島に仕官し続けることを勧めずに全国へ修行に行くことを勧めていました。もしあのまま兄弟子たちも塚原に残っていれば鹿島は精強な兵を持っていると褒め称えたことでしょう。しかし土佐守様は己の門人がたとえ他国へ仕官してもそれを責めることはなさいませんでした」



 並の者なら手塩にかけて育てた弟子が敵に仕えることを嫌うだろうが、土佐守殿は香取神道流の発展のために門人たちに自由を与えたのだという。



「ですが一方で鹿島では土佐守様の門人を嫌っていたのも事実なのです」


「たしか先の義幹殿の追放の原因に土佐守殿の門人が絡んでいたと」


「さすが若様、すでにご存知でいましたか」



 彦右衛門殿が自嘲する。鹿島義幹の追放の原因はいわゆる奸臣の専横だった。


 兄の鹿島景幹が子を残さないまま戦死したため義幹は幼くして当主となった。そのとき新規に雇った塚原の門人である浪人が義幹の信用を盾に悪政をおこなっていたのだ。この悪評は遠く離れた小山にも伝わっていたそうで商人との繋がりがある民部や芹沢との交流で常陸から小山に訪れた商人から話を聞くことができた。


 結局義幹追放の折にその浪人も追い出されたそうだが、それ以降鹿島の重鎮たちは塚原の門人を重用することを躊躇うようになった。土佐守も重臣ではあるが結果として内紛を招いたことから強く反対することはできなかったようだ。



「しかしそれはすでに過去のこと。土佐守様に恩義があるのは変わりませんが今は小山家の家臣として誠心誠意尽くす覚悟でございます」


「それは嬉しいことを言ってくれる。俺もその言葉を裏切らぬよう努力しなくてはいけないな」


「あ、有り難きお言葉……」


「なに、家臣の小山への忠誠に報いるのは主家として当然のことだ。そこに外様や身分は関係ない」



 俺は外様だったり身分が低くても有能ならそれに見合った役割を与えるつもりだ。この時代はどうしても一門や譜代が中心になっているがそれだけでは小山が大きくならないのはわかっていた。


 戦の多いこの時代では有能な人材は極めて貴重だ。だが未来を知る者として名前だけで有能かどうか決めつけるつもりはない。たとえ秀吉や信長だとしても使えなければそれまでの話だ。有能な人材を見極めるには実際にその働きぶりをその目で確かめる他ない。


 彦右衛門殿は他家からの推薦と己の剣でその実力を示した。しかし他の者が彦右衛門殿のようにわかりやすく実力を示せることは中々難しい。そうなると人材を見つけるには普段の働きぶりや言動に注意して周囲を観察しなければならない。



「さて難しい話はここまでにしておこう。実は彦右衛門殿には足利学校や常陸や他国の様子など色々なことを聞かせてほしいのだ。特に彦右衛門殿の足利学校の同期などにな」


「ほう、若様は足利学校に興味がおありで?」


「ああ、是非坂東の大学について色々と教えてほしい」



 様々な学問や書物を好んでいる話をすると、彦右衛門殿はとても嬉しそうに色々と話してくれた。どうやら今まで学問を好む者が周囲にあまりいなかったらしく、特に足利学校を卒業してからは同期とも疎遠になっていたらしいので学問を好む同士に飢えていたようだった。


 それから俺と彦右衛門殿は弦九郎が止めに入るまで足利学校や学問について話し合ったのだった。

「面白かった」「続きが気になる」「更新がんばれ」と思ったら感想ください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 塚原彦右衛門は卜伝とは別人でしたか。 失礼いたしました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ