憂いの妻
下野国 祇園城 小山晴長
本丸の敷地内で塚原彦右衛門と俺が木刀をぶつけ合う。こうやって彦右衛門から稽古を受けるのももう十年近くになる。実戦型の彦右衛門の指導は激しく厳しいと家中の間では有名で多くの者が彦右衛門に師事している。
客将兼師範として長年小山家に仕えてくれた彦右衛門は歳を重ねるごとにその腕に凄みが増している。彼の指導を受けている者で彼の本気を受けられるのは俺や栃木雅楽助といった一部のみしかいないほどだ。
木刀同士がぶつかり合う鈍い音が本丸に響く。彦右衛門の鋭い刀捌きをなんとか受け流しつつ、わずかな隙を掻い潜って反撃するが彦右衛門にはなかなか届かない。それからどれだけ時が過ぎたのだろう。気づけば周囲には人が集まりつつあり、俺らの稽古に目を奪われている。何度目かの打ち合いのとき、彦右衛門の一撃を見切り、わずかに後方に逸らすとそのまま木刀の先を喉元へ突き出そうとして寸止めする。
「これは、一本とられましたな」
彦右衛門が嬉しそうに木刀を手放す。その顔にはまだ余裕さが見られていた。一方俺は一本こそとれたが肩で息をするのが精一杯で口からは荒い呼吸音しか出てこない。ほとんど偶然と運でとれたものだが、初めて彦右衛門から一本をとることができた。周囲は俺が彦右衛門から一本を奪ったことにざわめいている。それだけ彦右衛門の強さを知っているからだ。
「お見事でございます。身分差がなければ某の後継者にしたいほどの技量ですぞ」
「はあ、はあ、それは最大級の賛辞だな。だがあと百回打ち合ってももう一本とれる気がしないぞ」
「師範としてそう簡単にもう一本とられるわけにはいきませぬからな。しかし儂ももっと精進しなくては」
彦右衛門の言葉に俺はさらに強くなるのかと感嘆するしかなかった。
しばらく休憩をとることになって話題は子育てに移る。彦右衛門の倅はもう五歳になっているという。可愛い盛りの子供の話に彦右衛門も饒舌になる。
「いやあ、この歳で子供をもつことになりましたがやはり可愛いものですな」
「子供か。彦右衛門、子育てはどうしていた?」
「子育てですか。まず前提として御屋形様とは身分が違うということを念頭に置いてほしいのですが、某の家は下働きの者も多くないので家にいるときは子育てに参加していましたな。周囲の方にも手伝ってはいただきましたが、妻は身体が強くはなかったので」
「そうなのか」
「御屋形様は某と比べものにならないくらい多忙でしょうからあまり参考にはならないと思いますぞ」
「それもそうなんだが、富士に子育てを投げっぱなしにするわけにもいかないしなあ」
「ではときどき顔を見せにいってはどうでしょうか。子育ても大事ですが御方様を労わるのも大事な夫の務めでもあります」
「妻を労わるか。なるほど、参考になったぞ」
彦右衛門との稽古を終えたあと、俺は富士のもとを訪ねると富士は嬉しそうに近寄ってくる。富士の妊娠が発覚してから富士のもとに通うことが多くなってきた。元々富士のもとにはよく通っていたが、妊娠してからは心配性になったのか富士の顔を見ないと落ち着かないことも多くなった気がする。
「富士、何か俺にできることはあるか?なんでも言ってほしい」
「そこまで大事に思ってくださるだけで富士は嬉しいですよ。でもそうですねえ……」
富士は何か考え込んでいるのか眉間に皺を寄せる。しばらくして富士は顔を上げたがその表情は浮かなかった。
「でしたらお願いがございます。どうか側室をとっていただきたいのです」
富士からのお願いは予想外のものだった。まさか正妻から側室をとってほしいと言われるとは思わなかったので言われたことを呑みこむのに時間がかかった。
「側室を?一体なぜだ?」
俺の疑問に富士は顔を俯かせたまま続ける。
「そ、それは……私が妊娠している間、夜の務めを果たせないので……」
「そうか。俺は我慢すればいいと思っていたが、そういうわけにもいかないのか」
もし暴発して変な女に引っかかればそれこそお家騒動に発展する。変な女に引っかかる可能性は低いかもしれないが、万が一ということもある。それならば側室をとるのは合理的だった。
「はい、ですので側室をとっていただきたいのです」
富士の懇願に俺はすぐに答えを言うことができなかった。
「富士、そなたの言いたいことは理解できたし、家のことを案じていることは伝わってくる。だがどうしてそんなに悲しそうな顔をするんだ?」
富士は顔を俯かせたままゆっくりと俺の胸元に顔を埋めると小さな声でこう言った。
「だって、私が何もできない間にお前様の寵愛が他の人に移るかもしれないと思うだけで心が苦しくなるのです。側室を勧めた当事者の癖になんて自分勝手なんでしょう」
「富士……」
俺はお腹の子に影響がでないように富士を優しく抱きしめる。富士もおずおずとだが俺の背中に手を回す。
「俺もあまり側室は積極的にとりたいとは思っていない。だがいざとるとなればその者にも寵愛を注がなければ却って失礼になる」
「それは、わかっております」
「だがこれだけは覚えていてほしい。富士には言ってなかったが、俺の初恋は富士なんだ。文のやりとりをしているとき、この子が俺の妻となると思うととても嬉しかった。だからとは言わんが、たとえ俺が側室をもつようになっても俺の心の中にはいつも富士がいることを忘れないでほしい」
「私も、私も初恋はお前様でした……!私はいつまでもお前様をお慕いしております」
側室の話で夫婦の仲を再確認した俺たちは共に夜を過ごす。夜の営みはなかったが、手をつなぎ互いの熱を感じながら過ごした夜は思い出に残るのには十分だった。
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