二月評議
下野国 祇園城 小山犬王丸
鍬やスコップはともかく人ひとりでは持てない千歯扱きと唐箕が大広間に登場した途端、その場にいた者は見たことない道具に困惑している様子だった。
しかしそれらの説明をし始めると当初は懐疑的だった者の目が変わり始めた。特にそれまで多くの時間と労力が必要になっていた脱穀を大幅に時短と効率化することができる千歯扱きと土を掘ったりとあらゆる土木に利用できるスコップに関心を寄せていた者が多く、農業と軍事に転用できることに気づいたことで説明にも積極的に耳を傾けてくれるようになった。スコップは名称が洋風で今の時代には不自然なので円匙という呼称にし、備中鍬も三又鍬という名にした。
また唐箕も千歯扱き同様に農業の効率化という点で高く評価してくれた。この時代は兵農分離が徹底されておらず、重臣の中にも自身の領地で畑を耕す者も少なくないため農業関連に理解を示してくれる者が多かった。一方でそうではない者たちもいたが、有効性については否定できなかったので表立って反発することはしなかった。
「小山家の方針としては、農具は増産次第小山領に普及させつつ今後数年は小山家の専売として他国に売ることも目指すつもりだ。これも犬王丸の案でもある」
重臣たちが反発していないことを確認した父上は数年間専売にして商いにする方針を伝える。これは事前に父上に話していたことで、製造自体は特別難しくはないためずっと専売にすることは難しいと判断した。農業の効率化は他の国人たちも無視できないし、千歯扱きなどの農具の存在を秘匿するのは不可能だ。ならばいっそのことその存在を公にして他家が模倣できるまでは小山家の専売品として販売を管理すべきだと考えた。そのためには信頼できる商人の協力が必要だが、幸いにも古来よりこの地を支配する小山家に好印象を抱く商人は少なくない。また小山は思川の水運により下野の中でも栄えているため力のある商人が小山に拠点を置いていたりする。商いに力をいれることに反発されるかもしれないと予想したが、意外なことにこの案に対して好意的な意見が多かった。
さらに売るのは農具だけではない。先月の段階では最終調整前だった石鹸がようやく完成したのだ。今回の評議前に石鹸の存在を知っていたのは先月の評議にいた父上、大膳大夫、政景叔父上、右馬亮に加えて譜代衆筆頭の岩上伊予守、小山家の庶流である塚田左京進俊行といった一部しかいない。農具と同様この場に持ち込み、父上たちと同じ説明をすると石鹸を知らなかった者からは驚きの声が上がった。
「この石鹸に関しては農具と同じく小山で専売にするつもりだが、朝廷にも献上しようと考えておる」
「朝廷に献上ですと!?それは真でございますか!?」
これには事前に石鹸の存在を知っていた岩上伊予守や右馬亮も驚愕した様子だった。当然今まで石鹸を知らなかった水野谷八郎や妹尾平三郎などの重臣は言葉を失っている。かつて下野を代表する豪族ではあるがまさか自分たちの代で朝廷に直接品を献上するとは思わなかっただろう。
「朝廷には少納言の清原宣賢殿を通じて献上するつもりだ」
父上と清原宣賢殿は父上の趣味である連歌を通じて交流を深めているらしく、小山家にとって朝廷への重要な窓口でもあった。また彼の生家は吉田神道という流派を生み出した吉田家で、彼自身も当代屈指の碩学として多くの抄物を記しており帝や朝廷からの信頼も厚い公家だ。
今回の献上の目的は石鹸を朝廷に献上をすることによって小山家が石鹸を開発したという事実を明確にすることと石鹸に朝廷への献上品という箔をつけさせることだ。俺自身は石鹸を史実のように高級品として扱うのではなく、領民にも買えるような値段で販売できるようしたかった。だが大膳大夫たちからいざ販売したときに小山家を騙って粗悪品を流す輩が出現する可能性が高いという話を受けて、小山家による朝廷への献上品というブランドを確立することであからさまに小山家を騙って粗悪品を流す悪徳商人を排除するべきだという結論に至った。
まだ予定の段階でこれらの実績や数字はできていないが、去年に唐箕や千歯扱きの農具の利用や新しい作業方法を実施させた村の収穫量が上がったことを報告すると、是非その方法をご教授願いたいという幾つかの声をいただいた。
「これで犬王丸にはこの評議に参加する実績と実力があることに異論はないだろう。もちろん若すぎるという声も出るのは理解できるが、儂はただ遊ばせるより若いうちに経験を積ませることで犬王丸の成長につながると考えている。それに犬王丸の考えが小山にとって有意義なものとなるとわかっている今、それを使わない手はなかろう」
父上の言葉に初めは俺の参加に否定的だった者も今回の報告によって認めざるを得ないという空気となり、正式に次回から評議に参加することが改めて許可された。しかし中には心の底から賛同してはいない者もいるだろう。それに今回は父上からの案という形になっているため俺より父上に敵意が向いた可能性が高い。また賛成派もあくまで参加を認めただけという者もいるので、参加したことで満足せずにより小山を発展させることによって家臣たちからの信頼を獲得できるよう努力することを忘れてはならない。
古河公方に従属している小山家の課題は少なくない。それは商いだけでなく周辺勢力との関係や小山の土地の問題、またかつて幕府に反旗を翻した廉で御料地にさせた旧領の回復も命題のひとつだ。
小山家の北方に位置する宇都宮家の動向も気になるところだ。忠綱の死後、芳賀高経に擁されて興綱が当主に就任したが年少である興綱に代わって高経が実権を握っている状態だ。
また大膳大夫曰く、忠綱の死には不自然な点がいくつかあるという。記録によると忠綱は皆川勢によって討ち取られたといわれているが、実は忠綱は先陣で兵を動かしていたというのだ。総大将が先陣を切るのは異例だが滅多にないということでもない。しかし忠綱の軍勢が皆川勢と激突した際に敵の主力である壬生勢が不審な動きをしていたらしい。
忠綱が敵を蹴散らそうと突貫していたのに対し壬生勢は積極的に動くことはせずにむしろ守りを固めていたような動きをしていた。後ろの本隊がついてこないため忠綱はすぐに孤立してしまい一度撤退しようとしたらしいが、それまで消極的だった壬生勢がその退路を断つように布陣していた。兵を率いる壬生綱房は歴戦の武将でこのような初歩的な過ちを犯すはずがなかった。
忠綱は大いに焦ったに違いない。敵が迫る中味方であるはずの壬生勢が撤退を邪魔するような位置にいるものだから下がるに下がれない状態に陥ってしまったのだから刻々と時間が過ぎるうちに敵に自身を守る兵がどんどん討ち取られていく。前にも後ろにも退けない忠綱は結果として皆川勢に討ち取られてしまった。しかし忠綱を妨害していた壬生勢は敗れたことを知ると見事に兵を束ねてすぐさま撤退したという。
おそらく綱房が忠綱を裏切ったのだろう。撤退後、綱房はすぐに興綱に恭順の意を示した。忠綱派の主軸だった綱房に対して興綱と高経は処罰を与えるどころか所領安堵と宿老の座を用意した。敗北したにもかかわらず反乱分子の芽を摘み、最低限の兵の損失で重臣の座に帰り咲いた鮮やかな手腕に綱房を褒めざるを得ない。もし興綱たちが綱房を許さず敵対した状態に陥っていたら小山家にも介入する余地もあったが実際にはそうはいかなかった。これにより小山家は北に兵を伸ばせず、皆川家のように勢力を拡大することは叶わなかった。
しかしそのおかげでしばらくは内政に専念でき、内部統制に時間をとれるわけだが今回の評議を見る限り、嬉しくないが小山家内部は一枚岩ではなさそうだ。露骨に反発しているのは水野谷八郎くらいだが、重臣の中でも彼のシンパは少なくないようだ。八郎も反発してはいるが、あからさまに謀反を起こす様子ではないのが不幸中の幸いといえる。けれどこのまま無為に時間を過ごせば小山家内部での対立は深まるばかりで、他家からの介入を許すことになりかねない。
史実では小山家は結城家から養子を迎えることになり、結城家の影響下に置かれた。最終的に結城家と敵対することになるが、当時の小山家が他家の介入を許すほど弱体化していたことは否めない。
小山家の弱体化はその地の領民を他家からの侵略に晒すことになる。俺の目標は小山の繁栄であり、そのためには史実のような事態を避けなければならない。
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