無言の盃
下野国 祇園城 小山晴長
綱房に加担して壬生城を攻めた国人らを粛清したあと、俺は祇園城に帰還していつも通り政務をおこなっていた。
そんなある日、父上が体調を崩した。そしてその日から父上の病状が次第に悪化しはじめた。はじめは軽い風邪をこじらせただけであったが、身体が弱っていた父上にはそれが重くのしかかった。風邪が悪化し、発熱を起こすとさらに病状が悪化していき、今では布団から起き上がれないほど身体が弱り切っていた。
すぐに医師を呼び寄せて診断させるが、医師は首を横に振ってこれ以上どうすることもできないと告げる。父上の部屋に集った一族の者と重臣の一部は言葉を失っていた。
「ここまでくるともうこれ以上の手の施しようがございません。はっきり申し上げると、肺を病んでいる身でここまで持ちこたえられたのは奇跡に近いのです」
「なんと、そこまでの病状なのか……」
「申し訳ございませんが、今の日本の医学ではご隠居様をお救いすることはできませぬ。我が師、三喜すらどうしようもできぬでしょう。お力になれず、まことに申し訳ございません」
医師が頭を下げると父上のそばにいた母上が目を押さえてそっと退室する。最後の希望を断たれたことで母上の限界がきたのだろう。
「そうか。だがそなたはできる限り力を尽くしてくれた。礼を言う」
俺は母上を追わずに今まで尽力してくれた医師に一礼し感謝の意を示す。医師は俺が頭を下げたことに恐縮しながら助けられないことを詫びて部屋を後にする。
「……そうか、儂もここまでか」
「父上、聞こえていたのですか」
それまで意識がはっきりしていなかった父上の声に俺だけでなく部屋にいた他の者も反応する。
父上は力のない声でああ、と返す。しかし目の焦点ははっきりしておらず、意識もはっきりとはしていないようだった。
「……すべては聞こえていないがな。なんとなく、儂が助からないことは悟ったわ。ちえには悪いことをしてしまった」
俺たちは何も言えなかった。今まで気丈だった母上が涙を流したのは初めて見たかもしれない。母上については今はひとりにさせた方がいいかもしれない。母上にも気持ちの整理がいるだろうし、下手に追いかけたところで母上にかける言葉が見つからない。余計な慰めは却って逆効果になりそうだった。
父上はそこまで言うと、ひどい咳を何度もした後、力尽きたのか再び眠りにつく。父上を囲う者たちの表情は皆沈んでいた。
それから寝たきりの状態が続いた父上は日に日にやつれていく。馬宿城から長秀叔父上も駆けつけるが、父上は持ち直すことなく危篤の状態が続いた。俺も政務の合間を縫っては様子を窺っていたが、父上は意識すら朦朧としており、改善の兆しは見えなかった。伊勢神宮の御師である伊八殿に依頼して祈祷もしてもらったが効果は出なかった。
そんなある日のことだった。俺は夢を見ていた。場所は祇園城の自室でふと人の気配を感じて外に出てみると、縁側に父上が酒を片手に座っていた。病気によってやつれていない若かりし頃の父上。健康そうな父上の姿に夢であるにもかかわらず俺は思わず泣きそうになる。父上は俺の姿を認めると言葉を発することなく手招きをする。仕草から酒を酌み交わそうとしていると俺は感じた。俺はその仕草に応じ、父上の隣に腰を下ろす。父上は無言で酒の入った盃を俺に渡してきた。
そういえば父上とふたりきりで酒を酌み交わすのは初めてだと思い至る。父上は俺が元服する前に病に倒れ、俺は元服前に家督を継いだ。酒が飲めるようになった元服後もなぜか父上と酒を交わした機会は訪れなかった。夢の中ながら俺と父上は無言で酒を交わす。しばらくすると父上は酒を置いて庭の方へ歩き出す。俺はそれを見ているだけだった。満月の光に照らされている庭の中央まで歩んだ父上は月を見上げて手を伸ばす。そして気づけば父上の姿は消えていた。残されていたのは軒先に座る俺とふたり分の盃のみだった。
そこで俺は目を覚ます。がばりと起き上がると、隣で寝ていた富士が何事かと眠そうに目をこすっていた。
「すまない。起こしてしまったか」
「どうか、なさったのですか。何か悪い夢でも……」
「悪い夢ではなかったかもしれんが、すまないが今すぐ支度を整える。父上のもとに向かわなければ」
「こんな夜中にですか?」
「ああ、すまないが支度の手伝いを頼む」
富士は戸惑いながらもすぐ了承して支度の準備を手伝いはじめる。寝巻から着替え終わったとき、外から人が近づいてくる気配を感じた。どうやら小姓のようだったが、その声は切羽詰まっていた。
「御屋形様、ご隠居様が、ご隠居様が……!」
嫌な予感がした。
「ご隠居様が先ほど逝去なされたとのこと……」
父上が、亡くなった。
それからのことはあまり覚えていない。しかしそばにいた富士が言うには、少し呆然としていたらしいが、その後は家臣に指示を出して葬儀の準備をこなしていたようだ。
僧を呼び、葬儀が終わったと同時にようやく俺は現実を認識することができた。酷い喪失感が俺の心を支配する。母上や叔父上たちとの会話すら億劫になっていた。すべての儀式が終わり、父上を葬った後、俺は自室でひとりぼんやりとしていた。
脳裏によぎるのは幼い頃から続く父上との記憶。小さい頃から書を嗜み、父上を驚かせたことや結城との同盟を唱えて父上をうならせたこと、農業の改革に取り組み、その成果を父上に褒められたこと、初陣の際に戦の心構えを教わったこと。
そして次に浮かぶのは俺が元服した姿や嫁をもらう姿を生きているうちに見られてよかったと涙する父上だった。
父上との思い出は絶えることがなかった。俺という前世の記憶をもつ異分子が疎まれずに今まで生きてこられたのは父上という良き理解者がいてくれたおかげだった。もし父上がいなければ知らない知識を振りまく俺を周囲は気狂いや狐憑きと断じて今のようには受け入れなかっただろう。
父上の最期に立ち会えなかったことや父上に孫の姿を見せられなかったことなど心残りは多くあるが、あの夜見た夢は父上が最期に見させてくれた最期の姿だと思うとなぜか後悔というものはなかった。
「父上、父上……」
自然と涙がこみあげてくる。良き理解者であり、尊敬する人物でもある父上の存在は俺の中では非常に大きくなっていた。胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感に苛まれ、その穴をふさぐかのように俺はこの生を受けて一番の涙を流した。
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