一五三三年の関東情勢
一部修正しました。
一五三三年 下野国 祇園城 小山晴長
西方を平定してから一年が経過したが、この間に関東では大きな変動が起きていた。
まず想定より北条の武蔵侵攻が早い。昨年岩付城を落とした北条は扇谷上杉家の当主朝興急死の混乱を突くように河越城を攻めるとこれを落とし、朝興の跡を継いだ息子の朝定は家臣に連れられて武蔵松山城まで後退した。北条は河越城を攻略したことによって扇谷上杉領の南部を支配下に置くことに成功した。同じく武蔵南部に勢力を置く山内上杉家重臣で武蔵守護代大石定久や三田綱秀は頑強に抵抗しているが、山内上杉家や他家の支援がなければ長くはもたないだろう。もし大石らが屈服した場合、北条は武蔵南部を手中に収めることになる。
逆に扇谷上杉は一気に苦境に陥ってしまった。一年前までは侵攻を許していても状況は拮抗していたのだが、岩付城落城によってそれが大きく変化してしまった。岩付城主太田資頼を失い、上杉朝康の裏切りと台頭を許してしまう。
そして一番の痛手だったのは朝興の急死。息子で急遽元服した朝定はまだ幼く、家臣らが扇谷上杉家を支えていかなければならなかった。もし朝興が存命だったら岩付城を朝康に奪われても武田や山内上杉と連携して岩付城奪回に動いただろう。しかし朝興が死んだことによって混乱した扇谷上杉は本拠の河越城まで失うことになり、勢力を大幅に縮小させることになった。
そこに台頭してきたのは北条の支援を受けた上杉朝康だ。朝康は自身を扇谷上杉家の正統後継者と謳い、岩付城を拠点に勢力を伸ばしている。風の噂では河越城の帰属を巡って北条と対立しているらしいが、そこまで深刻な事態にはならないだろう。朝康としては正統な扇谷上杉家当主として君臨するために扇谷上杉家の本拠である河越城は岩付城と交換してでも是非手にしたい。しかし北条も自らが落とし、江戸城と同じく武蔵の拠点となる河越城を手放すつもりは毛頭ないだろう。おそらく朝康の主張は認められないはずだ。
しかし北条の武蔵侵攻の速度を考えると周辺勢力が北条をこのまま看過するとは思えない。特に扇谷上杉と結んでいた山内上杉と武田は北条の勢力拡大と扇谷上杉の没落を他人事と捉えていないはずだ。山内上杉は傘下の大石と三田が北条の脅威に晒されているので間違いなく動いてくるだろう。想定以上に早かった扇谷上杉の没落が南関東にどう影響を与えるのか現段階では判断できない。
一方北関東でもいくつか動きがあった。古河の晴氏が勢力拡大のために小弓公方足利義明に降った北相馬郡の守谷城主相馬胤貞の討伐に動いたのだ。北相馬郡は高基の代に義明に奪われたままで胤貞も晴氏に代替わりしたあとも義明に従っていた。
晴氏は当初手紙にて胤貞に古河に従うよう要請していたが、胤貞はのらりくらりと答えを濁したまま古河に従うとは口にしなかった。痺れを切らした晴氏は地盤固めを終えると自ら先頭に立って相馬討伐を掲げ、簗田や野田ら幕臣を率いて守谷城へ出陣した。まさか晴氏自ら出陣してくるとは思わなかった胤貞は驚き、義明に応援を要請するも義明は最大の支援者である真里谷信清と対立しており簡単に身動きがとれなかった。胤貞は籠城こそしたものの援軍に恵まれず最終的に降伏した。胤貞の降伏によって周辺の国人も相次いで晴氏に降り、晴氏は北相馬郡の大部分の奪還に成功する。
同じく下総では結城が常陸の小田に通じた多賀谷と戦を繰り広げていた。最初は国人同盟を結んでいた山川に多賀谷を攻めさせたが返り討ちに遭ってしまい、次戦からは結城も兵を率いて多賀谷を攻めるが小田の支援を受ける多賀谷の抵抗はすざましく、最初の離反から数年経った今でも多賀谷を攻め落とせていなかった。
常陸では佐竹義篤が家中の統一と外交に苦しんでおり、義篤から独立した弟 部垂義元も討伐できないまま小競り合いを続けていた。反義篤派の中心である義元は高基を晴氏に引き渡したあとも勢力を保っており、配下に独自の書状を与えていた。近年では西に勢力を伸ばしつつあり、常陸中部への進出を図っているらしい。
下野では宇都宮興綱が当主の座を追われ、新たに興綱の兄である俊綱が還俗して当主に就任した。宇都宮は相変わらず家臣の芳賀高経と壬生綱房が権力を握っており、俊綱も興綱同様高経の傀儡に過ぎないようだ。しかし最近では高経と綱房の間で権力争いが起きつつあるようで、段左衛門らに情報を随時収集させているところだ。状況次第では宇都宮内で大きな隙が生じる可能性がある。
また下野北部に勢力をもつ那須家でも当主政資と嫡男高資の不和が噂されている。まだ本格的な対立までには至っていないが筆頭家老大関宗増は自身が傅役を務めた高資を支持しているという。
そして我が小山は西方を平定したあとは一年間内政に注力し、ようやく政情が安定してきた。当初は奪った土地に対し人が足らない事態になったが、小山のやり方に慣れてきた皆川旧臣が使えるようになったことや新参の活躍によって今では人材不足から脱することができた。
西方領を支配下に置いたことで祇園城から何人か派遣することになり、祇園城の政務が滞ることが心配されたがその心配は無用だった。残った面々の努力もそうだが、なにより大俵資清の存在が大きかった。
大俵資清は一年前西方を平定した頃に小山家に仕えはじめたのだが、政務のやり方を覚えるとまるで水を得た魚のように次々と仕事をこなしていく。新参だが若い頃から那須家の重臣として働いていたこともあって仕事への理解度がかなり高い。その能力はすぐに祇園城内で重宝され、今は俺の側近のひとりとして政務に携わっている。ゆくゆくはひとりの武将として大きな仕事を任せたいと思っている。讒言のせいとはいえ、この有能な資清を手放した那須家には感謝しかない。
建設中だった箕輪城も完成し、ようやく内政に目途がつきそうだった。この一年間は大した戦もなく平穏だったが、ここからはそうもいかない。壬生も力を取り戻しているだろうし、北条を筆頭に各地で色々な変化が生じている。小山も動かなくてはおそらく時代に取り残されるだろう。再び民には負担をかけることになるだろうが、小山の平穏を守るためには小山家が更に力をつけていかなければならない。力がなければ土地は守れないのだ。
それから数日後、祇園城に同盟を結んでいる結城から使者が訪れてきた。
「突然のことで申し訳ございませんが、富士姫様の輿入れを早めていただけたいのです」
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