河原田の戦い(一)
一五二三年 下野国
壬生・宇都宮の皆川侵攻の動きを察知した皆川宗成と皆川への救援として駆けつけた小山・結城連合軍は皆川領内の河原田で合流を果たした。その数は皆川七百、小山一千、結城六百の総勢二千三百に及んだ。
皆川領内の河原田は北東に巴波川が流れる低湿地帯でかつて河原田城と呼ばれた古城があったという伝承が残っている。皆川の陣はその河原田の東寄り、巴波川を背に構えていた。
本来皆川家が動員できたのはせいぜい五百が限界だったのだが、驚いたことに皆川の軍勢の中には皆川に服属していない土豪や地侍が多く含まれていた。彼らはいまだに皆川家に服属したつもりはなかったが、自分達の土地を外部の敵から守るために皆川家のもとに集まったのだ。
そのため皆川勢は事前の想定より兵力が多く、士気も極めて高かった。嬉しい誤算に皆川勢を目の当たりにした小山・結城軍はその士気の高さに驚き、それに感化されてか自軍の士気も上昇する。
三家は事前に綿密に連絡を取り合って忠綱の動きを注視していたため、忠綱がいる壬生の兆候を早く察知することができた。
合流を果たした小山・結城両軍の武将達は皆川の陣に集まり、軍議をおこなっていた。
「小山殿、結城殿、此度の援軍感謝いたす」
皆川家当主の宗成が小山の総大将である政長と今回結城勢の総大将を務めている結城政勝に感謝の意を表した。
政勝は結城家当主政朝の次男で、まだ若く嫡男ではないが父の政朝に劣らないと評判の俊英だ。また結城勢には副将として常陸下館城主水谷治持や結城家譜代の重臣小塙三河守などが参陣しており、経験豊富な武将が若い政勝の補佐を務めている。
一方小山勢は総大将が当主の政長、副将に小山家一門筆頭小山大膳大夫成則、榎本城主水野谷八郎、小山家譜代の妹尾平三郎、粟宮讃岐守と重鎮達が顔を揃える。
当主自ら総大将として参戦した小山家と三ヶ月前に忠綱との戦があったばかりで余裕がないにもかかわらず、勇将として武名を轟かせている水谷治持を派遣してくれた結城家に宗成はこの二家と同盟を組んだのは間違いではなかったと感激した。
宗成は内心皆川だけではとても忠綱の軍勢に太刀打ちできないと理解していた。おそらく忠綱の動向を追っていた弟の成明も同じ心境だったはずだ。
それに今回皆川に参陣した地侍達も皆川だけでは負けると踏んでいたからこそ、自分達の土地を守るために今まで従ってこなかった皆川のもとへ駆けつけた。
特に当主自ら総大将として一千の兵を率いてきた小山の存在は宗成以下皆川家中にとって非常に心強かった。それまで同族として小山とは懇意にしていたが、今回の対宇都宮同盟に誘われたことで皆川は結城や多賀谷など近隣勢力と繋がりを得ることができた。
その同盟が今回の援軍に繋がったのだから宗成の小山政長に対する評価は鰻登りしていた。
それに小山はその同盟の打診の際に皆川が忠綱に狙われていると警告していた。当時皆川の重臣達は当主の座を追われた忠綱を警戒はしていたが、すぐに皆川へ攻めてくるとは思っておらず警告を聞いたときも半信半疑だった。結局宗成が同盟の利と警告の信憑性を加味して同盟を結ぶことになったが、その警告が現実のものとなり宗成以下皆川勢は小山の先見性に舌を巻いた。
「斥候からの報せによると壬生勢は壬生城や羽生田城などからの兵と合流したらしい。その数およそ二千。奴らは皆川方の西方城、二条城を迂回して鹿沼からこちらへ南下、すでに思川を渡河している。おそらく小城を落とすより、直接皆川を叩いた方が効率がいいと思ったのだろう」
「兵数はほぼ互角。敵が忠綱と綱房であることを考えると、一瞬の油断が命取りになるでしょうな」
宗成が開示した情報にこの軍議では最年少となる政勝は警戒を強める。
「結城殿の言う通りだ。特に壬生家当主綱房はとにかく油断できん。忠綱もだが、壬生はそれ以上に厄介極まりない。それは結城殿も小山殿も理解しているはずだ」
政長と政勝が頷く。
宇都宮成綱の代に起きたいわゆる宇都宮錯乱と呼ばれる内乱で活躍した以降、壬生氏は着実に勢力を拡大し続けていた。内乱鎮圧の貢献者として宇都宮家の重臣にまで上り詰めた壬生氏は成綱から忠綱の代へ変わると鹿沼地方を平定して宇都宮家譜代や一門衆以上の勢力を誇っていた。
また当主の綱房は那須氏の山田城を謀略で落とすなど軍略に秀でていた。
「幸いにも宇都宮の重臣に見限られた忠綱に従う者はそう多くない。忠綱寄りだった今泉安芸守は猿山で討ち取られ、中村城の中村日向守も結城殿との戦いの影響で身動きがとれない状況だ。おそらく今回の兵の大半は壬生だろう。ここで奴等を叩くことができれば壬生もしばらく大人しくなるはずだ」
「では我々はどう動くべきかですが、皆川殿は何か腹案はございますか?」
政勝が宗成に尋ねる。
「ふむ、儂はここ河原田は見たとおり平地ゆえ、余計な小細工は避けて正面からぶつかるべきと考えておる。無論、敵主力は我々が引き受けるつもりだ」
長年宇都宮と戦い続けた歴戦の武将である宗成の力強い言葉に陣内の将達が賛同する。
宗成の案は定石ではあるが、宗成の言う通り河原田は低湿地帯で伏兵が隠れるような遮蔽物がない地形だ。
軍議の結果、地の利がある皆川勢が中央に構え、左翼に小山、右翼に結城が展開することになった。
(あれが小山の当主か。父が気にかけるような器ではない気がするが……)
政勝は冷静に政長のことを観察していた。
ほどなくして政勝は興味をなくしたように政長から視線をそらしたが、政長はそれに気づくことはなかった。
(やはり儂には当主の座は荷が重かったのか)
陣に戻った政長はこの戦が終わったら隠居しようと考えていた。
あの軍議で政長は百戦錬磨の皆川宗成と若き俊英の結城政勝を見て気づいてしまった。己の器の限界を。
政長は古河公方家の内乱時に強引に家督を父から奪った。それは小山家の存続のために致し方ないことだったが、政長の治世では家臣同士の対立や宇都宮、結城に圧迫されていたりと不安定な状況が続き、政長もその状況を打開することができなかった。
(皆川との同盟や忠綱の皆川攻めも犬王丸の進言がなければ考えることすらなかった。本来皆川殿の評価は犬王丸のもの。儂はその手柄を横取りしたに過ぎん。それに犬王丸が正式に当主となれば表立って動くこともできるはずだ)
無論まだ三歳の犬王丸にいきなり負担をかけるわけにはいかないため、犬王丸が元服するまで後見しようとは考えている。
犬王丸なら自分ができなかった小山家の再興を成し遂げられると直感していた。
政長が隠居の考えを大膳大夫に伝えようとしたそのとき、息を切らした伝令が陣の中へ駆け込んできた。
「申し上げます。敵の姿を確認。旗は三つ巴に左三つ巴でございまする!」
陣内に緊張が走り、各武将たちの顔つきがガラリと変貌する。
三つ巴の旗は壬生氏の家紋だが、左三つ巴は下野宇都宮家のものだった。
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