氏康と扇谷上杉家
相模国 小田原城 北条氏康
儂は幼少の頃、周囲から暗愚だと思われていた。当時の儂は人見知りで外に出るより部屋で遊ぶことを好み、武芸などの荒事に関心がなかった。遊び仲間が外で武芸の真似事をしていても部屋から眺めているだけで、自らその中に入ろうとはしなかった。
人見知りで内向的で武芸に関心がない。今思えば家臣たちが儂の将来を不安視するのは当然だろう。父上によって部屋での遊びが禁止され嫡男としての教育を施されたがどうも冴えないまま歳を重ねてしまっていた。
そして十二の頃に転機が訪れた。そのとき儂は武術の調練を見ていたのだが、その激しさと迫力に気圧されて家臣たちの前で気を失ってしまうという醜態を晒してしまった。気を取り戻した後、生涯ないであろう失態を恥じて自害を試みたが、吉政に初めて見るものに驚くのは恥ではない、むしろあらかじめの心構えが重要と諭されて自害は取りやめた。それ以降、吉政の忠言を心がけて堂々と構えられるようになり、物事に動じることが減ってきた。その精神面の成長か以前より文武ともに積極的に取り組めるようになり、周囲から褒められることも多くなった。
しかし元服し初陣を果たした今でも儂はまだまだ未熟な若者でしかない。初陣で勝利を掴んだことを褒め称える者もいるが、父上から戦の仕方で叱責を受けたことは家中にも知れ渡っていることもあって儂のことを大きく持ち上げる者は少ない。
今後も精進していかないことはわかっているが、頭の中で小山晴長の影がちらつく度にあとどのくらい努力すれば父上に認められるか不安になるときがある。祖父上も父上も北条の家を大きくしてきた偉大な人物でふたりが築いてきた北条家をしっかり背負うことが儂の使命でもあるが、それを達成するには多大な努力が必要になるだろう。
「いかんな。また思考が後ろ向きになっている。晴長のことを気にしても仕方ないというのに。今は武蔵について考えるのが先だ」
一度思考を振り切って儂は今の武蔵と扇谷上杉家の状況の整理をおこなう。扇谷上杉家は現在武田家と山内上杉家の両家と同盟を結んでいる。しかし山内上杉家とは先々代憲房、先代憲寛の頃は連携がとれていたが、新たに憲房の遺児である憲政が家督を継いでからは上手く連携がとれていないようだ。そのため朝興は山内上杉家より武田信虎と関係を深めており、遠くないうちに婚姻も結ぶという噂も聞こえるほどだ。
武田家は近年ようやく甲斐を統一したばかりであり、北条家と同盟関係である今川家とも敵対している。今川家と北条家を相手にしているため朝興への支援に限度があるが、信虎は北条領への進出を目論んでおり、過去に何度か北条領に攻め込んでいる。
そんな武田家と同盟を結んだ扇谷上杉家当主の朝興だが祖父の早雲が存命していた頃は若く将としての器に欠けていると酷評されていたが、今では北条家にとって手強い相手になっている。北条家に江戸城まで侵攻を許した朝興だがそれ以降は何度か城を奪われても援軍の助けもあって取り返すことに成功している。朝興は決して戦が上手いわけではないが、外交手腕は本物だ。近年は山内上杉家、古河足利家が内紛を起こして援軍を望めない状況だったが、甲斐の武田家との関係を強めて北条家に圧力をかけてきた。また小弓公方とも連携を図ってきた時期もあり、常にどこかしらの勢力と結んで北条家の侵攻に対抗してきた。
また朝興は家臣にも恵まれており、家老の難波田憲重は北条家でも名前を聞くほどの猛将であり、一度朝興を裏切った太田資頼も帰参してからは扇谷上杉家に忠誠を誓い岩付城も奪い返している。それ以外にも太田一族や上田一族など武蔵中部に勢力を張る国人たちが扇谷上杉家を支えている。以前はこちらの調略に乗った者もいたが城を奪い返されたり、こちらの侵攻が停滞していることもあって最近は調略の調子もよろしくない。
父上はここ最近戦が続いたことからしばらく兵を動かさずに内政に専念するつもりのようだ。たしかに戦が続いたことで民が疲弊していることは報告に上がっていて、これ以上不満がたまれば暴動が起きかねなかった。
しかしだからといって扇谷上杉家や武田家に対して何もしないというわけではない。扇谷上杉家には単なる調略ではなく、離間工作を仕掛けるつもりだ。鍵となるのは扇谷上杉家先代当主朝良の遺児藤王丸だ。
藤王丸は朝興の従兄弟にあたるが朝良の晩年に生まれた子でまだ歳は十五だという。朝良は藤王丸を可愛がっており、朝興を廃する考えを抱いていたらしい。そのため朝良の死後、藤王丸は朝興から冷遇されているようだ。
藤王丸こそ正統後継者であり、朝興は元服するまでの代理の当主であるという話が扇谷上杉家でも一定の支持があるのは風魔の調べで明らかになっている。今回の離間工作では儂も加わることになったのでここで戦果を出して父上に少しでも認めてもらいたいところだ。
この離間工作が成功すれば扇谷上杉家に亀裂を入れることができるはずだ。そのためには藤王丸の身の安全も考慮しなければならない。有力な後ろ盾が不在の藤王丸にとって扇谷上杉家は常に命の危険と隣り合わせだ。朝興が藤王丸の存在を危険視すればすぐにその命を奪うつもりだろう。可能ならば藤王丸の身柄を北条家で預かることも考えておく必要があるかもしれない。
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