眠れる相模の若獅子
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
一五三二年 相模国 小田原城 北条氏康
我が北条家の本拠である小田原城は重い空気に包まれていた。それは前年に武蔵の岩付城が扇谷上杉方の太田資頼によって奪われ、北条家の武蔵侵攻が完全に停滞してしまっていたからだ。
扇谷上杉家に仕えていた太田資頼は一度は北条家に寝返って岩付城を奪ったが、扇谷上杉家の援軍に駆けつけた甲斐の武田信虎に攻められて扇谷上杉家に帰参していた。その後、父氏綱は再び岩付城を攻略し城主に渋江三郎という者を据えたが、今回資頼によって再度岩付城が奪還されて渋江三郎は討ち取られてしまった。現在北条家の武蔵の最前線は江戸城なのだが、ここから北へはなかなか進出できないでいた。
扇谷上杉家当主の上杉朝興は北条家の武蔵侵攻に上野の関東管領山内上杉家や甲斐の守護武田家と結ぶことで対抗しようとしていた。特に甲斐の武田信虎はよく武蔵に進出してきており、武蔵を巡って北条家は三勢力を相手しなければならず、ここ数年苦戦を強いられていた。朝興単体ならばどうにかなるのだが、援軍を得た朝興相手だと戦に勝ったり負けたりを繰り返しており戦況は膠着状態に陥っていた。
かつては岩付城をはじめとした蕨城、毛呂城と武蔵中央部付近まで確保できていたが和睦や敗戦によってこれらの城は奪還されてしまっていた。江戸城代遠山直景も積極的に攻勢に出ているが戦果は芳しくなく、一度大きな敗戦をしていまい支城をいくつか落とされてしまった。
そんな中、儂は二年前の自身の初陣を思い出していた。あの頃は北条家が朝興に敗戦して各地を攻められたときだった。武蔵の小沢城を救援するために儂は父の名代として兵を率いることになった。初陣のため傅訳の清水吉政をはじめとした幾人の重臣も借り受けて儂は小沢城へ向かった。家臣たちの判断もあり小沢城で儂は籠城策をとったが、攻める敵の猛攻の前に落城寸前まで追い込まれてしまった。そこで後がなくなった儂は日の出と同時に城を死守すべく討ち死に覚悟で城から出陣し敵の本陣に奇襲をかけたのだ。戦いは激戦となったが結果的に敵は潰走し、北条家の大勝利で終わった。
だが帰還した儂に待っていたのは父上の叱責だった。父上は儂の命知らずの行動を浅慮と評し、城を守り通すのが無理ならば城を捨てるべきだったと言い捨てた。
儂は城を守るよう父上に指示されていたので城を捨てるという行為が理解できなかったが、父上は一支城を守るために嫡男と重臣が命を落とす方が北条家にとって痛手だと考えていた。そこで儂はようやく目先のことにしか考えていなかったことに気がついた。家臣たちは儂のことを庇ってくれたが、父上の跡を継ぐ者としてもっと大局を見据えて行動すべきだったのだ。儂は城を守ることに固執して自分を含めて家臣たちの命を失うということをわかっていなかった。
儂は父上に自らの浅慮を詫びた。今回のことで後継ぎから外されることも覚悟していた。しかし父上からは廃嫡の言葉は出てこなかった。
「過ちを認めたか。ならばよい。大事なのは過ちを繰り返さぬことだ」
父上はそう言って儂の詫びを許してくださったのだ。途端に儂は己の未熟さが恥ずかしくなり、今後より精進するよう心に刻んだ。
だが退室する直前、儂は耳にしてしまった。
「もし小山の小僧だったら、どう動いたのだろうか」と父上が溢したのを。
おそらく無自覚に出たもので誰にも聞かせるつもりはなかったのかもしれない。他に気づいている者はいなかった。
小山の小僧とは一体誰なのか。そのときはその言葉で頭が一杯になってしまい、その後のことはうまく思い出せない。
それから儂の中でその父上が溢した「小山の小僧」が頭から離れなかった。しかし誰かに相談するわけにもいかなかった。それは傅役の吉政にも。あの場であの言葉を耳にしたのはおそらく儂ひとりのはず。だから父上が言った人物は何者なのかと誰かに聞くことはできなかった。
あれから二年が経ち、まだ誰にも相談できぬままだが、独自に調べていくとようやくひとりの人物にたどり着いた。それは小山小四郎晴長。今年元服を果たした下野の祇園城を治める小山家の当主だった。小山家といえばここ最近勢力を伸ばしつつある下野でも有数の実力者で古河公方からも信頼が厚いといわれている。噂によれば公方の晴氏様と親密だという。それだけではない。小山家は商業にも精通しており、北関東だけでなく関東一円に自らの製品を手広く流通させているという。
そして気づく。小山家は以前より北条家とつながりがあったことに。
小山家は白子原で父上が朝興に大敗し周囲を敵に囲まれた頃に北条家に接近してきた。正確には小山の商品を北条領までわざわざ持ち込んできたのだ。当時敗戦により物資不足だった北条にとって小山からの商品は渡りに船だった。特に石鹸は画期的な製品で父上も積極的に城内に取り入れていた。
また晴長は焼き討ちに遭った鶴岡八幡宮の再建にも協力していたことも判明した。それ以降は北条家と表立って接触することはなくなったが、小山の製品は今でも北条領で流通している。石鹼だけでなく小山袖や良質な酒などは北条家でも欠かせない物になりつつあった。
そしてなにより驚いたのは小山晴長が儂より五つも歳が下だったということだ。けれど晴長は数年前に家督を継いでおり発展しつつあった小山家をさらに拡大させていた。近年では皆川家を滅ぼしたという。下野国内では密かに小山家を再興させた小山持政の再来とも称されているらしい。
やはり父上が言っていた「小山の小僧」とはこの小山晴長のことだったのか。
ようやく確信に至ったと同時に、儂の中で芽生えたのは僅かな嫉妬だった。
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