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第06話 小さな綻び


 若くして怨嗟の最中に前世を閉じた男、伍堂慎也の第二の人生。

 元の世界とは違う、剣と魔法と才能の世界にある平和なルーブ村にて育ち、ついにこの世界における成人である15歳を控えた14の頃。

 生まれ変わりの際に自ら選び取った二つの【才能】――【万能技術】と【万能魔法】。

 そして元々所持していた【支配者】というこの世界では破格の所持数である三つの才能を存分に振るい、育んで来た彼は今。


「おはよう、シンヤ。今日もいい天気だねぇ」

「おはようございます、村長。もう夏が近いですからね」

「作物の出来はどうだい?」

「小麦はいつもより多めに獲れそうです。じっくり冬を越した奴らですから、美味しいですよ」

「はっはっは、それは楽しみだ。君のところの小麦で作ったパンは町でも評判だよ」

「恐縮です」

「いやー、万能技術に万能魔法というが、君には【農家】の才能もあるんじゃないか?」

「そこまで都合よくはないですよ」

「ふふ、冗談だよ。知っているとも、君が努力家だということはね」

「ははは」

「頼みごとがあればなんでも言ってくれよ? 君の望みなら全力を尽くそう」

「はい、その時は遠慮なく」


 ある時は村長と和やかに話をし、


「おはようストラン。ちょっと頼みがあるんだが」

「ひっ! シ、シンヤさん……頼みって?」

「俺の家、肉の備蓄使い込んじまってちょっと足りなくてな。新しくいくらか譲ってくれ」

「え? この間もそう言って……」

「美味いもんは思うまま食いたいだろ? しょうがなかったんだよ。なぁ?」

「あ、う……その」

「昨日、お前が鹿を1匹仕留めたんだろ? それをくれ」

「そんな……」

「……断るのか?」

「ひっ…………はい」

「夕方前にいつもの所に置いといてくれ。当然、親には上手くごまかしとけよ? いいな?」

「わかり、ました……」


 またある時は望みのまま奪い、


「どうやら、理解が足りなかったようだな。ボドル?」

「が、ぎっ、ぐぁっ、お、俺の足がぁ!!」

「ここで俺に逆らうということが、どれだけの意味を持っているのか……教えてやるよ」

「わ、分かった! 逆らわない! もう逆らいません!」

「最初に言葉で理解しなかったのはお前だぞ、ボドル。今は、体で理解する時間だ」

「や、やめて……!」

「安心しろ、傷は残さない。お前とは今後とも仲良くしたいからな?」

「ひぃぃ、助、け……! ぎぃやぁぁあああ!!」


 己に害する者を容赦なく制裁し、


「あ、シーちゃん。こんな、外で……」

「周りには誰もいない、人除けの魔法も使った。何も問題はないだろう?」

「あう……でも、私達、まだ……」

「今更だろう? それに……」

「あっ」

「逃げられる程度でしか押さえつけていないって、分かってるだろ?」

「うぅ……シーちゃん」

「テネル……ん」

「んんっ」


 美しく育った少女を欲望のままに貪り、蕩けさせる。


 誰も彼もがシンヤの思いのままに操られ、この村の何もかもがシンヤの望む通りになる。

 自分に従うか、あるいは利する者には手厚く接し、逆らう意思を見せたり害する者には容赦をせず屈服させる。

 複数の仮面を使い分け、彼はこの村のすべてを欺き、弄ぶ。

 それは前世で何もかもを思い通りにしようとして世界に唾吐きすべてを失った男にとって、望みに望んだものだった。

 言葉で、知恵で、力で。すべてを支配し手中に収めたシンヤは今。


(ああ、心が満ちている。これが、幸せか……!)


 これまで生きてきた中で最高の幸福を噛み締めていた。


(成人すれば俺の権限はさらに高まる。いずれはこの村すべての者にこうべを垂れさせ、完全なる俺の楽園は完成する! 物も、人も、生殺与奪あらゆるすべてが俺の思いのままだ!)


 彼はこの時、間違いなく幸せの絶頂の中にいた。

 それは転生時に自ら目標とした“神の力を手に入れること”すら忘れるほどに。


「ふっ、さて。今日は何をしようか」


 シンヤの日常は、すべてが上手くいっていた。


 …………はず、だった。


   ※      ※      ※


 その日、取り巻き達を連れ川釣りに興じた帰り道で、シンヤはその人と出会った。


「ん? あれは……?」


 川から村に続く砂道を行く最中、森に面した道端に立つ人影をシンヤは目に留める。


(立っているのは、女? ……!?)


 一目で、その美しさに見惚れた。

 長い黒髪を風の吹くまま艶やかにたなびかせ、遠く森の奥深くを静かに見つめる年の頃20過ぎの女。

 町でしか買えない仕立ての良い絹のワンピースを身に纏い、その豊満な体の線を惜しげもなく晒しているその女性は、しかし淫靡な気配など微塵もなく。

 ただただその瞳に悲しみと、無常だけを映したかのような儚さですべてを彩っていた。


「うわ、珍しく外に出てる」

「知っているのか?」

「あ、はい。彼女、スーカですよ」

「スーカ……ああ」


 名を言われて、シンヤも思い出す。

 彼女の名はスーカ。村一番の狩人、ルドイの妻……だった女。


「ルドイさんが死んでから、家に引きこもってばかりだったんだよな」

「あの様子じゃ、まだ死んだ旦那のこと忘れられてないってことかな」

「ええ? もう2年だぜ?」

「いやぁ……あの二人のおしどりっぷりは知ってただろ?」

「でもなぁ」


 ひそひそとスーカについて気の毒そうに話す取り巻き達を尻目に、シンヤは一人違うことを考える。


(スーカ。ルドイの妻だった時は興味なかったが、今のあの弱った姿、悲しみに染まり思い詰めた表情、儚げな所作。豊満で女性らしい線に悲壮感が加わり美しさが際立っている)


 2年前愛する夫を狩り中の事故で亡くした彼女の今もなお残る悲しみが、皮肉にも彼女をその時よりも魅力的にし、シンヤの目に留まってしまった。

 この村のすべてを欲し、すべてを手に入れてきたシンヤが、それをみすみす見逃す手はなかった。


「……欲しいな」

「え?」

「シンヤさん、今……」

「いや、流石にそれは……」


 思わず零した呟きに色々を察した取り巻き達は、一斉に困惑した声をあげ遠慮がちに止めに入る。


「止めるのか?」

「う、いや……」

「だって……」


 普段ならシンヤの行動をそもそも止めないかひと睨みで黙り込む彼らも、今回ばかりは弱々しくも言葉を返す。


「だって、シンヤさん。テネルと……」

「そう、テネルとその……」

「……ああ」


 取り巻きの戸惑いの理由を理解し、シンヤは首肯する。

 シンヤとテネルが恋愛関係にあることは、今やルーブ村の誰もが知っている事実だ。

 ほどなく成人した暁にはすぐにでも式を挙げ、二人は夫婦になるのだと誰一人として疑っていなかった。

 また、ソール王国において一夫多妻制は貴族以上の存在にしか認められておらず、平民が複数の者と恋人関係になる、あるいはそうなるように振る舞うのは世間の倫理に反する行ないであり、今のシンヤの呟きは、影で暴力こそ振るえども表立って社会に反目してこなかった彼らしくないものだったのだ。

 だが、


「……それがどうした?」

「えっ!?」

「それがどうした、って……」

「テネルは俺の物だが、それ以上でもそれ以下でもない。俺は欲しい物はすべて手に入れる。物でも、女でも、だ」

「そんな」

「シンヤさん、考え直したりは……」


 恐れながらも諫めようとする取り巻き達に、ついにシンヤは不機嫌そうに目を細め、圧を掛ける。


「俺の邪魔をするのか?」

「ひっ……!?」

「い、いえ。そういうつもりは……!」

「だったら黙ってろ。いいな?」


 絶対的な強者であるシンヤにここまでされて、逆らえる者はこの場に誰一人としていない。


「ん? スーカが森に入っていく? ……俺は彼女を追う。お前達はもう帰れ」

「は、はい」

「あの……」

「いいか、誰にも言うな。この村で真っ当に生きたいならな?」

「ひっ!」


 まだ何か話したそうだった者を念押して脅し、黙らせる。


「さて、何をしに夕方の森に入るというのか……」


 もはや意識の矛先がスーカだけに向けられているシンヤは、取り巻き達を捨て置き彼女を追って森の中へ。


「……おい、どうする?」

「どうするったって、どうしようもねぇよ」


 残された者達には、彼の行いを改めて止めることも、それを誰かに伝えることも出来ない。


「不味いことになった」


 今はただ、不安を覚えつつも事の成り行きを静観するしかないのだった。


   ※      ※      ※


 森に入ったスーカを追って森に入ったシンヤは、すぐに彼女を視界に捉えた。

 スーカの足取りはふらふらとしたもので、何か目的地があって歩いているようには見えない。


(……さしずめ、喪ったルドイを想ってその残り香でも追っているのか)


 死んだら終わり。その生で何もなせることはなくなる。

 転生する機会はあるかもしれないが、それはもう別の何かになるのであってその者ではない。

 死霊術もあるらしいがその技は秘中の秘であり、およそ一般の者が扱えるものじゃない。

 つまり、彼女の元にルドイが戻ってくることはない。


(いつまでも喪った者のことを想うより、今生きて、新しい悦びを知っていった方がいいに決まっている)


 深い物思いに入ったのか立ち止まり、ぼぅっと空を見上げ始めたスーカを見守りながらシンヤは決意する。

 彼女の悲しみを己で塗り潰し、染め上げてみせると。


 ゆっくりと、シンヤはスーカの背後に忍び寄り、ほどほどの距離から声をかけた。


「スーカさん」

「っ! 誰!?」


 急に夢から醒めたかのように身を震わせ、スーカが振り返る。

 予想していた動きにシンヤは努めて冷静に、そして気遣わしげに身を屈め、上目遣いに彼女を見た。


「俺です。分かりますか?」

「シンヤ、くん……」

「はい、シンヤです」


 普段目上の者に使う仮面を被り、人の良さそうな笑みを浮かべて身を起こす。

 二人の身長差から今度は少しだけ見下ろすように位置取りながら、シンヤはスーカを刺激しないよう優しい声音で話しかけた。


「スーカさんが一人で森に入っていくのが見えて、心配になって追いかけて来ました。いくら夏前で日が長いと言っても、森の一人歩きは危ないですから」

「ああ……ええ、そう。そうね」


 シンヤの言葉に罰が悪そうにしつつも、スーカは納得した様子を見せる。

 所在なさげに頬へかかる髪を弄りながら、相手を直視しないように体を揺すり彼女は目を伏せた。

 胸の下で組んだ腕に彼女のたわわな実が乗り、纏う色香にシンヤはゾクリと身の震えを感じる。


「心配かけてしまってごめんなさい。あなたは忙しい身でしょうに、迷惑だったわね」

「いえ、そんなことないです」

「気遣ってくれてありがとう。それじゃ戻りましょう?」


 感謝と、わずかな拒絶の意思を滲ませながら、スーカは元来た場所へと戻ろうとする。

 だがそれを、シンヤは許さない。


「待ってください!」

「!?」


 スーカが脇を通り過ぎたところで振り返ると同時に、シンヤは彼女の腕を掴んで訴える。

 ことさらに切なげに、けれど真っ直ぐに。


「差し出がましいとは思うんですけど、俺でよかったらその、話を聞きます!」

「そんな、いいのよ何も」

「ダメです! だってスーカさん、ほっとけないくらい悲しい顔してます!」

「!?」


 ビクリと、スーカが身を固める。

 踏み込まれたくない場所へ無遠慮に踏み込まれたことへの拒絶感が彼女の中で一気に高まる。


「あなたに……!」

「俺に! 何が分かるんだって思ってるかもしれませんが、俺は今のスーカさんの、力になりたいんです!」

「……ッ!」


 何かを言い返す前に先回りされた言葉に、スーカは投げつける言葉を失った。


「話してくれるまで、放しません!」

「………」


 頑固さを露わにした言葉と共に強く握られる腕。

 それとシンヤの顔をしばしの間見比べてから、スーカは根負けした様子でため息をつき帰ろうとしていた足を止める。


(シンヤくん、か)


 この少年は普段から村の助けになるようによく働くいい子で、どうやら大人の力になることに喜びを見出しているらしい。と、そう彼女は認識している。

 そして今、自分へ真っ直ぐに向けられた視線は力強く、そこに悪心があるようには見えない。


(ああ、この子はただ純粋に私のことが心配でここまでしてくれているのね)


 彼が見かけた時、よっぽど自分が思い詰めた顔をしていたのだろう。

 村のためを常々考えている彼が、そんな私を放っておけるはずなどないのだ。

 他の大人達のように心の傷が癒えるのを静かに待ち続けてくれるような、そんな触れない優しさを持つには彼はまだ幼い。

 そんな彼をここで無下に振り払っても、ただ後味が悪い思いをするだけだ。

 それに……


(それに……いい加減、私も。一人で抱えるのはもう、疲れてしまったわ)


 こんな場所にふらりと迷い込んでしまったのだって、もしかしたら誰かに見つけて欲しかったからかもしれない。

 そこまで考えたところで、スーカは腕を掴む手の温かみを感じる。

 彼女の弱った心はもう、その手に縋ってしまいたいとにわかに思い始めてしまっていた。


「………」


 変わらずに真っ直ぐ見つめてくる瞳に、幼げだと思うのとは別に、わずかに頼もしさも感じて。


「……そう、ね」


 こんな年下の子に話すのは照れ臭い。そんな風に思ってか頬に朱色を混ぜながら、


「お話、聞いてくれる?」


 スーカは弱々しくも微笑み、シンヤの提案を承諾するのだった。


   ※      ※      ※


 近くの倒木に腰掛け、スーカはシンヤに胸の内を明かし始める。

 始めはつっかえながら、言葉を選ぶのに難儀しながら話していた彼女だったが、シンヤがそれをフォローし、話し易い状況を作っていくにつれて饒舌になり、感情も溢れさせ始める。


「あの人はね。あの日もいつも通りに『行ってきます』って言って出掛けて、でも、戻ってこなかったのよ」 

「………」

「彼らしくない失敗だったわ。トドメを刺そうとしてまだ息がある獣に不用意に近づいて、体重の乗った体当たりをまともに受けて跳ね飛ばされたって。どうしてそんなことをしたんだと思う?」

「……どうして、だったんですか?」

「私の、誕生日が近かったの。その獣、イノシシだったんだけど、綺麗な角だったらしくって、その先端で首飾りを作るんだって、それで張り切っちゃったらしくて……結局、作れなくなって……」


 彼女の深い部分である、愛する夫の死因について語る頃には、その声にわずかな震えが混じっていた。


「私、そんな、お祝いなんかより……あの人が生きててくれた方が、無事で、傍にいてくれた方が、ずっと、ずっと……!」

「スーカさん……」

「彼が死んだって聞かされて、もう訳が分からなくて、私それから、もう、何も、何も分からなくって!」


 喉の奥から絞り出すように話すスーカの頬を、冷たい涙が零れ落ちる。

 

「それからはずっと、ずっと、あの人のことだけ、ずっと、あの人だけ考えて……何も……う、うう……」


 遂には言葉を失いただ涙し始めた彼女に、シンヤはそっと距離を詰め、震える背中をさする。


「うう……どうして、どうしてぇ……!」


 葬儀でも泣いた。夜に一人でも泣いた。そして今、誰かに聞いてもらいながら初めて泣いた。

 どうしてと問う声には、なんの言葉も返ってこない。

 ただ、優しく温かな手が、何度も何度も、自分の背中を撫で続けている。

 それはこれまでになかったことだった。


(ああ、私。年下の子の傍でみっともなく泣いてる。こんな子にすべてを晒して、慰めてもらっている)


 スーカは己を恥じ、けれど止められない涙と慟哭に身を震わせ続ける。

 どうしようもない心に、けれど今、確かに寄り添う存在を感じて安心している自分にも気がついた。


「……う、ふっ。ふふっ」

「スーカさん?」

「ふふっ。う、ごめん、なさい。私、なに、やってんだろうって、ね?」


 散々泣き腫らしたら、今度は自分の滑稽さに笑いが止まらなくなった。


「ふふっ、おかしいわね。こんな、情けない姿、年下の男の子に晒したりして。……ごめんね?」


 取り繕うように謝罪の言葉を口にして、涙を拭いながらスーカはシンヤを覗き見、息を呑む。


「………」


 初めと何も変わらない。真っ直ぐな視線が彼女を見つめていた。

 それはスーカの姿を面白がる様子もなく、ただ真剣に、彼女を見守っている瞳だった。


 トクン


 と、鳴ってはならない音が鳴る。


「あ、あの……その」


 途端に、なんだか自分のすべてが恥ずかしくなって、スーカは頬に手を当て慌ててシンヤから視線を逸らした。


「ごめんね。つまらない話だったでしょう? 聞いてくれてありがとうね」


 先程以上に取り繕うような早口でそう告げて、スーカは慌てて立ち上がろうとする。

 が、その手は再びシンヤに掴まれた。


「!?」

「スーカさん」


 ドキリと心臓が飛び出しそうな驚きに、立ち上がろうと力んだ体が脱力する。

 名前を呼ばれ、火が付いたように熱くなっている顔を悟られぬよう、スーカは目を合わせなかった。


「な、何? シンヤくん」

「俺でよければ、また何度でも話してください」

「……ッ」


 思いもよらない言葉に、脱力していた全身が再び強張る。


「っていうか、俺がスーカさんの家に行って、話を聞かせてもらいたいです」

「そ、そんな」

「今の話を聞いて、俺、思ったんです。やっぱり今のスーカさんには、誰かの支えが必要だって」

「あ、う……」


 その先の言葉は聞いてはいけない。

 それをスーカは分かっているのに、止められない。

 一度縋りついた手の温かさが、今も背を撫でる手の平が、拒絶する心を溶かしてしまっている。


「スーカさんが元気になれるよう、俺が支えになります。いや、ならせてください!」

「あ……」


 もう、ダメだった。

 温かな光に誘われるように、スーカは熱に浮かされた表情でシンヤと視線を交わす。

 変わらず、真摯にこちらを見つめる瞳を見てしまえば、すべての抵抗は無意味だと思ってしまった。


「……それ、じゃあ」


 零すように始まる言葉。


「シンヤくんが、来たい時に、ね?」


 長い間、暗闇に閉じこもり世界から目を背けてきたスーカにとって、それは突如差し込んだ光だった。

 奪われた幸せをわずかにでも思い出せる、温かさだった。

 だから、取ってはならないその手を、彼女は取ってしまった。


「はい!」


 力強く返事をする少年の、笑顔の裏に潜む獣に、彼女が気づくことはなかった。


   ※      ※      ※


 しばらくして、ルーブ村の大人達の間でひとつの噂が流れ始めた。


「なぁ、知ってるか? ルドイんところの……」

「スーカだろ。彼女の家に最近シンヤが通ってるって」

「あれな……本当だったぜ」

「マジか」

「マジもマジだ。昨日二人が楽しそうに話してるのを通りがかりに窓から見た」


 成人の儀を前にしたシンヤが、ほぼほぼ毎日のように女の元へと通っている。

 それも、彼の恋人とは違う女の家に。


「あちゃー、こりゃ厄介なことになったな」

「いやでも、そういうことじゃないんじゃないか? だってあのシンヤだぞ?」

「だよな。きっと傷心のスーカの話を聞いて慰めてるとかそういうことだろ」

「どうだろうな、シンヤにそのつもりがなくても……」

「いやいやいや、それこそないだろ。だってあのスーカだろう?」

「うーん」

「最近はちょくちょく外に出て、女連中と楽しく話してるところも見掛けるぜ?」

「元気になったのは結構だが、しかしほぼ毎日シンヤが、か……」

「ああ……」


 ひそひそと噂話をしていた男達の視界の端を、一人の少女が通り過ぎる。

 それに気づいて見送る彼らの目は、一様に気の毒なものを見る目をしていた。


「……あの子は気が気じゃねぇだろうなぁ」

「だよなぁ」


 通り過ぎた少女の名は、テネル。

 シンヤと同い年で、彼と最も仲の良い、将来夫婦になるとこれまで誰も疑わなかった女の子。


「あ、シーちゃ……!」


 今日もシンヤと一緒に食べるために用意したサンドイッチの入ったバスケットを手に、道行くその姿に声をかけ……


「!? う……」


 その視線が、察しの良い彼が、こちらを見ていないと気づいて黙り込む。

 あの状態の彼に声をかけたところで、すげなく断られてしまうのはもう学んでいた。

 彼の向かう先も分かっている。

 スーカのところだ。


(シーちゃん。ずっとスーカさんとばっかりお話してる……)


 心を病んでいた彼女が今元気を取り戻しているというのは知っているし、喜ばしいとテネルも思っている。

 けれどそのために彼が、シンヤが、彼女に掛かりきりになっていることには、少しだけ不満だった。


「………」


 今日も渡せない、サンドイッチの入ったバスケットを抱く手に力がこもる。

 ゆっくりと、何かの歯車が軋みをあげて動き始めていた。

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