無知の不安
「━━っと。」
王宮の結界に気を配りながらの行動は、大変である。下手を打てば、自分だけでなく王宮内の全ての人も危険に晒されることとなる。アルジェンタは気を引き締めて、再び歩き出した。
だが。
「ねぇ、まだ帰って来れないの。今、大変なんだけど。」
通信用の鉱石に苛立ち紛れに問うのは、不気味に静まりかえった城下の雰囲気に呑まれぬようにだ。何故かは知らぬが、魔術師団が出動してから、煙の動きが鈍り、破壊のペースも落ちた。自分たちを警戒しているのかもしれないし、魔力の供給が滞っているのかもしれない。或いは、何らかの罠なのかもしれない。その不安を苛立ちへと変えて、体外に吐き出しているのだ。
『あ、あうぅ…………。そんなこと言ったって……、仕方ないよぅ。』
その口調に怯え、泣きそうな声で応えるのは、木属性の大魔導師、フルールである。その実力と反比例するような、自信なさげな声に、アルジェンタは、相変わらずだと嘆息した。
「と、に、か、く!」
『はっ、速く戻って来いって言うんでしょう!?』
「そうだ、速く戻って来ぉーい!」
そう叫んで、通信用の鉱石をしまうアルジェンタ。その様子を見て部下たちは、そのせっかちの気に、呆れを通り越した感情でもって応じた。
「あの、そのように大きな声を出さぬ方が……。」
部下の一人、秘書官のラファエロが窘めるが、アルジェンタは全く取り合わなかった。
彼女たちが皇帝から言い渡された計画。それは、ショーンやヨハンの考えた計画と、大筋は一致していた。ただ、その計画において、最終的に煙にとどめを刺すのは、光とアテナであった。彼は確信していたのだ。あの二人は、それに足る能力を持ち合わせていると。
「陛下。」
脇に侍るカスパーが、イヴァンに話しかける。はっとした表情のイヴァンは、動いたか、と問うた。
「いいえ、……あの、本当にやるのですか。上手く……、いくのですか。」
カスパーの憂慮も、野望へと邁進する皇帝には届かなかった。
光は、傍らのアテナの息遣いから、彼女の心情を推し量ることに奮闘していた。元より感情など、分かる訳がない光であったが、彼女にどう声をかければいいのか、それだけを模索していたのだった。
だが、その答えを出す前に、アテナが口を開いた。
「ヒカルさん、その、背中の魔力って……。」
「背中……、あっ!」
これは、光がうっかり失念していたことである。アテナや皇帝について考えている内に、ヨハンのつけた紙人形のことを意識の外に追いやってしまっていたのだ。この微弱な魔力さえも、魔法に敏感なアテナは反応したのだが、まずいことに、この紙人形の説明には、ヨハンの語った皇帝の企みについて話さねばならない。そのとき、アテナはどう感じるだろうか。
いや、待てよ。と光は考える。ここでアテナが皇帝の企みについて知ることは、皇帝の思惑に反するか否か。そして、どちらの選択肢を選べば自分たちが生き残る確率が高くなるか。
このとき光は、皇帝の陰謀の先に、破滅的な最期を直感した。彼の計画性や慎重さについての不安ではなく、彼の野望についての態度である。全てを切り捨てても最後に掴みとらんとする態度による、霊感である。
「アテナ……、聞いて欲しいことがあるんだ……。」
(おいおい、ばらすのかよ。皇帝がどう出るか知れたもんじゃねぇぞ。)
気配を消して、光とアテナに張り付いていた男は、焦りを感じ、二人の会話に耳を澄ました。
「ど、どうしたの。」
そのただならぬ表情に、アテナも身構える。光は意を決し、皇帝の野望を、小さな声で語り始めた。
「実は、皇帝が━━。」
しかし、『野望』の文字が出かかったところで光は、偶然にも、自分たちの方を見つめる、背の低い男と目が合ってしまった。
(……やばっ、見つかった。)
両者はそう思った。二人の男の視線の交差は一瞬だったが、それは、互いが互いの意思を推し量るには、十分な時間であった。
「えっ、陛下が……?」
「い、いや……。」
光は、皇帝の配下の者に見つかったと、そう思ったのだ。だから、ここでは明言を避けた。代わりに光は、急造の質問を新たに繰り出さねばならなくなった。
「あ、アテナって、攻撃のための魔法は使えるのかな、って思って。だってほら、もし煙が入ってきたら危ないじゃない。」
開き直るように、わざと大きい声で話す光。すると、それを聞いた人々が、一斉にこちらを向いた。どの顔も皆、煙の恐怖の迫るのを感じたらしく、光と同じように、アテナへの期待の眼差しを向けた。
実のところ一般人の中には、魔法といえる程の魔法を使える者は、そう多くない。せいぜい火起こしが短時間でできたり、洗濯の手間が減るといった、簡単なことだけなのである。光は、まずいことをしたと大いに焦った。
結局、アテナが大きな手振りでもって否定したことで、その場は収まった。人々の鬱屈とした、失望の雰囲気に、二人は逃げ出したい心持ちだった。しかし、それは無理だということは、少なくとも光は分かっていた。逃げようとすれば、即座にこの内の幾人かが、取り押さえに来るであろうということは、容易に想像できたからだ。




