権威と権力に対する裏切り
「ヒカルさぁーん!」
向こうの方から、アテナが近づいてくる。その表情は、先の読めない事態に対する不安と、知った顔を見つけた安心とが混ざりあった複雑なものだった。
「……アテナ、その……、大丈夫だった?」
光は、手を振って駆け寄る少女の姿を見て、詰まった。彼女は、皇帝の思惑も、ヨハンやアトラスの策も、何も知らない。そのまま、死地へと放り込まれようとしている。別に、光はそれについて知ることが幸せだとは思わないし、まして過度の不安を煽る必要はないと、少なくとも先程まではそう思っていた。
しかし、実際にアテナと再会すると、心が揺らいだ。絶対に無理だとは思う。皇帝の目を盗むのは、帝国がある限り不可能だ。能力者である自分やアテナが、煙を掻い潜って城外に脱出することより、難易度は高いだろう。それでも、一縷の望みを信じていれば、或いはそれも可能なのではないか。逃避行を成功させ、独力でもって失踪事件の真相を追及していく━━。
その想像は、突然上がった歓声によって即座にかき消された。
「皆、恐れるな。先程、術者の討伐隊を向かわせた。じきに、事件は解決する。」
人々の中心に在って、皇帝、イヴァンは、確かな口調でそう語りかけた。人々は、先の見えぬ暗闇の中に、炎の明かりを見つけたかの如くに歓喜の声を上げ続けていた。
光はこの光景を、信じ難い恐るべきことのように感じた。民衆は、その力、権威といってもいいそれを、盲信しているのではないだろうか。政治力や武力といった、表面的な王としての素質の盲信によって、人々は、イヴァンという一人の男の、狂気的な内面の野望に気づかないままに、掌上で踊らされるのではないだろうか。そして、例え真実を声高に叫んだところで、ここにいる内の何人が耳を貸すだろうか、何人がそれを信じるだろうか。
それらの事実を把握し、理解した上で、イヴァン皇帝はこの場に姿を現した。二人に最後の足掻きも許さぬよう、自らの思惑に沿うように、人々の前に現れたのだ。
ともすれば、光にすべきことは、皇帝の予測を裏切る行動でもって、生け贄となるのを回避すること。或いは、生け贄となったとしても、生き残ることである。前者は、皇帝の企みからは外れる代わりに、命の保証はあったものではなかった。一方の後者は、皇帝の企みとも半ば重なるものがあり、皇帝の思う通りに事が運べば、命も保証される。
ただしそれは、皇帝の手からは離れたところのものである。彼の計画において、計算に含まれていないことは、未だに未知数のままの、術者の実力である。もしこれが、皇帝の想像以上であったとすれば、光とアテナの命どころか、皇帝や民衆の命までもが脅かされることになる。
皇帝が、そのことに気づいていないとは考えにくい。つまり皇帝は、自らの危機を危機とも思っていないということだ。計画の遂行を、ある種、自身の身体の安否より重く考えている。帝国のための企み、それが失敗すれば、帝国の根幹が破壊されるにも関わらず、である。
それは、狂気を帯びた執念以外の何物でもなかった。煩悶の末、光は皇帝の企みから逃れることは不可能だと結論した。そうして、皇帝の予測を超える事態に、全霊で臨むことを決意したのだった。
「アテナ……。」
自分の声の掠れに、光は自分で驚いた。対して、アテナもまた、どうしたことだろうかと、何か問いかけようとしたが、何かを思い直して口をつぐんだ。
「……いや、何でもない。」
結局、光は決断することができなかった。危機に際して、この少女に注意を払うことを切り捨てた訳でも、臆病風に吹かれた訳でもない。彼は単に、己の経験の不足から、判断を保留にして、決断を中空に浮かべたままにしたからである。この男に、今後の運命すら左右される決断は、少々重すぎた。光は、このときばかりは、皇帝の果断を羨んだのだった。
高楼に登ったヨハンは、城下の様子をつぶさに観察した。結界の向こう側では、黒い煙の束が波のように迫ってきている。その目標は、強大な能力者なのか、それとも帝国の根幹をなす皇帝イヴァンなのか、はたまた別の何かなのか、ヨハンは計りかねた。いずれにしても、王宮に籠城した全ての人を守るのが、彼の望みであった。
「……魔術師団は、恐らく煙をまとめて王城に寄せようとしている。最終的には陛下にとどめを刺して貰おうという算段だろうが、そう上手くいくとは、到底思えないのだが。」
通信用の鉱石に、小さく語りかけるヨハン。その声を聞いていたのは、光ともう一人、ヨハンと合流した、カリーニであった。
「陛下を、疑うんですか……、ヨハンさん。」
『━━えっ、その声……。カリーニさん、そこにいるんですか?』
思わぬ登場人物に、光は多少驚いた。無論ヨハンとて、考えもなしにカリーニを呼び寄せた訳ではなかった。息を吐き出して、ヨハンは気持を落ち着けてから話し始めた。
「……今度こそは、今度こそは失敗しない。」




