大敗
光たち五人が城下へ繰り出そうとしていたのと時を同じくして、皇帝、イヴァンのいる部屋の扉がいきなり開いた。イヴァンは、またカスパーが来たのかと考えていたらしく、新入りの通信員が入ってきたことを、意外に感じたようだった。
「ノックくらいしたらどうだ、君。」
咎めるような口調のイヴァン、普段ならば畏まって非礼をしっかりと詫びねばならぬ場面であろうが、この通信員にその余裕はなかった。
「それどころではありません、陛下。今、前線から連絡がございまして……。」
イヴァンは、思わず出かかった声を、喉の奥で殺した。彼の様子から、よくない報告であろうというのは分かっていたが、それが戦争に関するものであるとは。そして、この焦燥にかられた表情。ある程度の予期はできたが、それを認めることを、彼は、皇帝として拒んでいた。しかし、通信員はしどろもどろになりながらも、ヨハンの語った戦況を報告した。
「敗走している、だと。今、隊はどこにいるのだ。」
「恐らく、バール、サン=エル=ランドリア付近かと。」
「くっ、もうそこまで来ているのか。」
サン=エル=ランドリアは、首都ゲレインから街二つを挟んで建てられた都市だ。その名は、古代の聖人からとられたものである。規模も、ゲレインと同じ位大きく、傷病兵の看護も、ある程度はできると考えられた。
イヴァンは通信員に、軍をサン=エル=ランドリアに留めておくように指示し、このことは決して口外しないように、と厳命した。
「悪いことには悪いことが重なるものですね、総長。……あ、いや、総司令。」
「…………。」
サン=エル=ランドリアに到着したワルハラ陸軍の敗残兵のうち、怪我人は粗方傷兵院に運び込まれた。残りの兵士たちはその手当てや糧食の確保に奔走している。ヨハンは、参謀総長のジュゼッペを伴って、市長の部屋に向かっているところだった。総長やヨハンは王都に戻って軍の建て直しと、次の作戦の立案をする必要があり、自分たちがこの街を離れた後、いつまで兵士を留まらせておけるかを聞かねばならなかったためである。
「おぉ、ジブライル殿。」
出迎えた市長は、手づから茶を入れて、二人に寄越した。紅茶党のヨハンはすぐにそれに手をつけたが、ジュゼッペは、それを飲めるような精神状態ではなかった。当然、話し始めるのも、ヨハンからだった。
「早速なのですが、我々の軍はこの街にいつまで留めておけましょうか。」
市長は、腕組みをして考え込んだ。戦時故に糧食の徴用があり、食料は十分でないのかもしれない。そうでなくても、兵士の略奪などによる治安悪化や、病床の不足、経済混乱など、様々な不安要素がある。ヨハンは、長々と留まらせておくのは、おおよそ不可能であると目星をつけた。
交渉を続け、期限は一週間を目処とすることとなった。この間に、軍の建て直しと、打開策を講じる必要がある。ヨハンは、詳しい報告と、作戦のために、総司令を伴ってワルハラへ出立すると決めた。
その日の夜、ヨハンは参謀本部の知己に連絡を入れた。相当込み合っているようで、随分と時間がかかってしまったが、とりあえず目当ての人には繋がった。普段のように挨拶を交わした両者は、互いの状況を伝え始めた。
「どうだ、そちらは。」
『かなり立て込んでるな、ただでさえ王都は混乱しているのに、敗北が重なってしまってはな。』
受話器の向こうから、陶器がぶつかり合う音が聞こえた。恐らく茶かコーヒーでも入れて飲んでいるのだろう。この急時に悠長なことを、と小言を言いたくもあったが、とりあえず口をつぐんだ。それをいちいちと突っ込んではいられなかった。
「混乱、小耳に挟んだことによれば、黒魔術の儀式が行われたとか。皆無事か。」
相手は少し間を置いて答えた。
『あぁ、君や僕の狭い交友関係の中にいる人は、全員無事なはずだよ。』
「ふっ、そうかそうか。それならばよいのだが。」
余計なお世話である。話を聞く限りでは城下の住民や騎士団の中には、その儀式に巻き込まれた人間がいると聞いたために、その中に知った顔がいないと知ったヨハンは、正直ほっとした。
『いつ頃帰って来るんだ、ヨハン。』
「明日の午後にはそちらに着く。……それで、陛下は何かおっしゃっておられたか。」
『どうも今はそれどころではないご様子だ。国境の敗北以上に、首都で暴動や反皇室運動が起きるのを恐れていらっしゃる。だから、少なくとも僕の知る限りでだが、君や総司令については何もおっしゃっておられなかった。』
「そうか……。」
無言の時間が流れる。耳朶を震わせたのは、彼が手元の飲み物を啜る音だった。
『早く来た方がいい。』
唐突に彼が呟いた。ヨハンは聞き間違えたかと思い、聞き返したが、その前に通信が切れてしまった。そのままいくらか経ち、ふと気づくまで、ヨハンは呆然として立っていることしかできなかった。
「なんだというのだ……。」
ヨハンには、彼が何を伝えたかったのか見当もつかなかったが、何か漠然とした悪い予感だけが頭に残った。胸騒ぎに駆られた彼は、総司令やその他の軍上層部の数人に書き置きを残すと、自らは馬に跨がって、街道を遡上していった。




