惨憺
煙が晴れた後の街に人の気配はない。在りし日の墓所にも似た、獣の横たわったような不気味な静寂があるだけだ。ざわめくような煙の気配がなくなったのは、まずは喜ぶべきことなのかもしれない。しかし、その帳の中で行われていたものを見ると、素直に喜ぶことは、よもやできるはずもない。戦争、人身供儀、そして煙の発生と住民の死。これらがワルハラに与える影響の大きさたるや、計り知れない。
イヴァンに侍っていた人々は、執事長の豹変を、固唾を飲んで見守った。口にこそ出さなかったが、彼の能力によって市街地の様子が分かってきたこと、そしてそれが、自分たちの想像よりも悪かったことを直感していた。
「カスパー。」
イヴァンの声は、とても落ち着いていた。努めて平静を装っていた、先ほどのカスパーの声と違い、自然体であった。この国難に際しても尚、彼は冷静沈着であった。
「…………はい。」
大分間を開けて、カスパーが答える。その声の震えは、飄々とした性情を持つ彼にしてみれば、珍しいものであった。これほどに彼が動揺するのは、恐らく、イヴァンに睨まれたときだけなのではないか。
イヴァンは続けた。
「何が見える。」
「…………。」
カスパーは、形容し難い市街地の惨状を、どう伝えたものかと言葉に詰まった。カスパーにとって恐ろしかったのは、巌の如き精神力で、皇帝となってから優れた能力を発揮し続けてきたイヴァンが、折れることであった。それは、何よりも恐ろしかった。頼るべき柱を失えば、帝国は、崩壊する。
しかし、イヴァンはカスパーの想像以上の何かを持っていた。
「僕は以前、細大に構わず状況を伝えろと言ったのだけれど。」
「……では。」
カスパーは意を決し、街の状況を、なるべく詳しく伝えた。騎士団の某が死んでいる、とか、裁定所の某が虫の息だとか、とにかく目に見えた全てを伝えた。喜べる報告は、なかった。
「そんな、ひどいことになっとるのか……。」
簡潔に、感想を述べるのは、災害担当大臣のノープル・ヴェルガードだ、城下にいたところを、命からがら馬車に乗って助かった人物だ。カスパーの千里眼によって、煙は墓所に近い王都の七つの区画にしか被害を及ぼしていないこと、その周辺の平民地区には、大きな被害が出ていないことが分かった。しかし、今後の被害の広がりや、対処法など、煙は分からないことばかりであった。
「だが、分かったこともいくらかある。だろう?」
イヴァンは、皆に問いかけた。ジョアンナが、これに答えた。
「黒い煙は極めて有害、しかしながら、対象の区画から離れれば、その被害から逃れることができる。」
「捕まったら、どのみち終わりだろ。晴れてくれれば好都合だ。救助に行ける。」
腕組みをしたエルヴェは、ちらりと窓の外を見た。突然王宮を覆うように広がっていた霧が晴れ、普段通りのような建物が建ち並ぶのが見える。黒いマナも、薄まっているのは明らかだった。だがしかし、ここに集まった面々の中には、これに懐疑的な見立てを立てる者もいた。
「やめといた方がいい。魔術の影響は簡単には晴れないし、今すぐに王城下に出たら、何らかの影響はあると思うよ。」
大魔導師、アルジェンタは、窓の外を見て言った。彼女は見ていた。何もないのが。黒いマナもない代わりに、普段なら満ち溢れているであろう、五色のマナが全く流れていない。彼女が懸念したのは、黒いマナによる汚染ではなく、体外と体内とでマナの循環が適切に行われなくなった場合の魔術の不調、即ち、魔法が使えなくなること、自らの生命線が絶たれることを懸念したのだ。
もう一人、この場にいた大魔導師、ジェームは、また別の可能性を予感していた。
(おかしい、こんな風にマナが消えるなんて。ただ消えるなんて、あり得ない。)
彼女は、大きな力を持った術者による罠の可能性を考えた。救助のために出てきた王城の人々を血祭りに上げようという算段ならば、このタイミングで煙が晴れたことにも説明がつく。
しかし、彼女も救助の重要性は分かっていたし、こちらの意見が杞憂に終わる確率の方が高かった。だから、彼女はただ、黙っていたのだった。
結局、最終的には皇帝が意見をまとめ、救助に向かうことになった。黒いマナによって体内が汚染されている人々を収用し、治療することで、一人でも多くの人を助けられれば、という、皇帝の思いによる決定だった。しかし、これはある意味、皇帝の打った布石だった。
「さて、どうしたものかな。」
イヴァンの声に、大公は首をひねったが、カスパーには、彼が何について悩んでいるのか、あらかたの見当をつけることができた。
彼の眺める先には、住民の逃れた穴蔵の扉が、薄く開いているのが見えた。彼は、この国難を利用し、二人の少年少女の能力の開花を狙っているのだろう。だが、それはあまりに危険すぎる。しかしながら、皇帝の命令であったならば、それを履行しない訳にはいかないのだ。そのディレンマの中で、カスパーは頭を抱えた。
もし、皇帝の考えていることが自分と同じだったとして、あの惨たらしい城下に彼らを駆り出すとしたら、一体どう説明しようか。カスパーは、大公を見た。大公は厳格な皇帝主義者であるから、もちろんそれを実行しようとするだろう。それを止めることは、最早自分にはできない……。
カスパーは、ため息をついた。そして、あの男がうまくやってくれることを、心から願ったのだった。




