死のあぎとからの脱出
風を切る音が聞こえた。
言葉にならない咆哮が聞こえた。
目の前で何があったのかは、分からない。思わず目を瞑ってしまっていたからだ。ただ、冷たいのか暖かいのか、だがあの忌むべき悪しき風とはまったく違った風が吹いたことは感じとれた。
「……ねぇ、いーつまで怯えてる訳?」
「…………へぇえ……?」
間抜けな声を上げてそろりと目を開けると、大きな瓦礫の上に小さな人影、いや、人形のロロの影があった。ロロは、いかにも煩わしそうに、パタパタとドレスの裾をはたいていた。激しく動いたからであろうか、レースの隙間や襞には大量の砂塵が巻き込まれていた。
「……ありがとう。」
やっとの思いで絞り出す。声がかすれていたのは、何も埃のせいだけではあるまい。一方のロロは、喉のかすれることを知らない。
「ぼけっとしてたら危なかったよ。まぁ、メリアには見えないだろうけど。」
「それより、なんでここにいるのよ!私、あなたを店に置いてきたはずなのに。」
「一人でいるのはいやなの!!なんで分からないかな!?」
いらつきを隠さずにロロがまくし立てる。すまないことをしたかな、とも思いつつ、しかしメリアにもメリアなりの考えがあったことは知って欲しかった。
(じっとしてれば、人形だと思ってくれたかもしれないのに……。)
もちろん、そんなことをロロが考えているはずもないのだが。彼女は、自分のことを、人形としてではなく、一人の人として、人格を認めて欲しかったのだ。そして、その思いもまた、メリアに通じるはずもなかった。
「あぁ?」
煙草の煙を纏った男、エルヴェが、やにわに声を上げた。少し遅れて、オーエンも顔を上げる。
「あれれ、囲まれたみたい。」
その一言の与えた衝撃は大きかった。建物の中の人々は、対抗する手段はおろか、相手が何かすら分からない有り様であったから、精神は恐慌し、肉体は硬直した。オーエンの深刻な顔と、包囲されたらしいという状況は、否が応でも人々の精神を乱すことにつながった。
地面が崩れて、どこまでも落ちていくような嫌な感覚に、光は目眩を覚えた。そして、その感覚を助長するような閉塞的な煙の雰囲気は、光にも感じられるほどに濃くなった。身の危険に際し、マナに対して鋭敏になったからかもしれない。
「どうするんですか。」
心細げに声を出したのは、イーリスだった。エルヴェは、顔をしかめた。無理もない。相手の性質が分からない以上、扉を閉めていようが無駄なのかもしれないし、第一に攻撃が効くのかも分からないのであるから。
「やっこさん、ここに儂らがおることを分かってやがるのか……、いや、そんなこたぁどうだっていいんだ。おい、騎士団の。」
「ん、何ですか、大臣閣下?」
「あいつらに攻撃が効くと思うかい。」
オーエンは苦笑いしつつ、両手を広げた。その動作の意味するところは、予測不可能というところか、それともお手上げといったところか。いずれにしても、あまりいい意味ではなかった。だが、エルヴェはそこに何らかの帰着を見出だしたらしい。
「……脱出するか。」
重たい口調だった。事実、それは重大すぎるほどの決断だった。大臣という地位にある者が、自らの決定を覆してまで行ったのだ。彼が顔をしかめたのは、もしかしたら己のつい先ほどの思考の落ち度と、それが招いた結果をひしと感じたからかもしれない。
「まぁ、落ち着いてくださいよ。そりゃ、何が正しいかなんて分からないし、手遅れになることだってあり得る。だからって、今すぐ扉蹴破って脱出なんて、ちょっと博打の感が強すぎませんか。」
「だから、包囲が不完全なうちに突破するんじゃねぇか。手遅れになるより、助かる確率は間違いなく高い。……本来なら、さっき出ていくべきだった。……おかげでこんなことになっちまって。」
この会話に、最早誰も口を挟めなかった。恐怖か、或いは、積極的に自らと他人の生死に直結する問題に干渉したくなかったのかもしれない。その沈黙が、今回は効果的にはたらいたようだ。オーエンはエルヴェから目を背けると、分かりました。とぽつりと言った。
「まず、オーエンが扉を開く。そうしてそのまま王宮の中心部まで突っ走る。あいつらがどれほどの速度で追ってくるかは分からんが、やはりそこは賭けになるな。」
皆は、ただエルヴェの言葉に小さく、何度も頷くだけだ。それ以外のことをしようとする精神の余裕はなかった。
「殿は儂が務めるから、合図したら扉を全開にしろ。」
「承知しましたよ、大臣。」
エルヴェが懐から短銃を取り出した。鈍く光る、銀色の、蔦の装飾が細かく彫られた銃だ。それを慣れた手つきで構えて、引き金に指を添えた。
「今だッ!」
オーエンが扉を勢いよく蹴る。それと同時に、エルヴェが引き金を引く。銃弾は、金属製の何かに当たったらしく、甲高い音を立てた後、砂煙を上げた。
その音と硝煙の香に反応したのか、黒い煙が勢いよく倉の中に入ってきた。まるで、汚濁した不可視の川の堤が切れたかのように。風を伴った鉄砲水は、倉の奥の壁に激しく打ちつけた。
「いいぞ、走れ!!」
エルヴェの号令一下、全員が王宮の中心部への道を走り出した。
王宮の中心部を目指したのには、はっきりとした理由がある。王のいる建物は、それを囲う塀が結界となっており、魔術による干渉ができなくなっている。そのため、攻撃に対する備えのない倉より、安全という訳だ。加えていえば、現在王の側には、近衛兵団と大魔導師が侍っている。いずれも、魔術の達人であるために、この非常事態に際し、結界も強化されていると考えられた。王にとっての『もしも』を避けるのが、彼女たちの仕事であるのだから。
「……しかし、……長いな、宮殿までの道のりは……。」
空気の悪さのせいもあるのだろうか。予想以上に息が切れる。怪我人のオーエンや女性たちを狙って、煙は容赦なく襲いかかってきているらしく、光は後ろを確認しながら走った。
エルヴェは時々上半身を捻って、走りながら銃撃を行った。エルヴェの弾は特注なのか、煙相手でも命中するようで、エルヴェの発砲の度に、空気が震え、霧が晴れるような感覚が頬をなぜた。
「皆、あともうちょっとだぞ!」
目前に迫った王宮の最奥の門を見て、光は叫んだ。
「はっ……、あっ、あそこに入りさえすれば……。」
少しふらつきながらも、アテナが応える。輝石を持ち、多数のマナを繰ることのできる彼女だからこそ、この混濁した空気は余計に堪えるらしかった。イーリスは何も言わなかった、というより言えなかった。エプロンドレスの裾を持ち上げ、腕を左右に小さく振りながら走ってくるので、頬は紅潮し、また、つらそうであった。




