微かな異変
最初の事件が発生してから数日が経ち、連続して合計三件の人身供儀が行われた。犠牲者たちにはいずれも接点らしい接点もなく、完全に無差別であるのではないか、と思われた。これは連続殺人である、と本能的に直感していた民衆は、明日は我が身と恐慌し、また、後手後手に回る国に対して、不信感を募らせていたのは、述べた通りである。
そして、メリアが尋問を受けていたちょうどその時、四人目と五人目の被害者が出ていたことを知った騎士団員たちは、相当に焦った。そして、無関係の人物の尋問に時間をかけ、犯人を取り逃がしたことに、悔恨の念を強く抱いた。
「失礼するよ。」
失踪事件調査本部の扉が突然開き、少し空いた隙間から、誰かがするりと入ってきたので、中にいた人々は驚いた。しかし、訪問者の方も、思った以上にたくさんの目に一斉に見つめられて、一瞬たじろいだように見えた。今、調査本部には、光、アテナの他に、エルヴェ、イーリス、ジャックスとガリエノ、それにもう一人、桃色の髪の少女がいる。この少女は、ワルハラ帝国の武器庫の管理人であると名乗っていたが、光も詳しいことは知らなかった。
訪問者は、自らを、ワルハラ騎士団第四小隊長のオーエンと名乗った。丸眼鏡をかけた、柔和そうな顔立ちの美丈夫だが、包帯で吊った腕が、なんとも痛々しい。騎士団の詰所にいるのも飽きたので、ここに来たのだそうだ。
「あぁっと、そこの団員はなんでここに?」
ジャックスとガリエノは、勝手な行動と不手際の咎で、巡回の任務からは外されていた。当人たちは不服そうであったが、ハルシュタインの判断であるから仕方ない。尋問のときも、オーエンはその場にいなかったが、気晴らしに散歩でもしていたのだろうか。
「それで、俺たちは任務から外されたんですヨ。」
「なぁるほどぉ、でも、そのままでいいの?」
本来なら、ジャックスもガリエノも王都の巡回に向かいたかったのだが、命令違反などしたら、騎士団を退団せねばならないかもしれない。
「大丈夫大丈夫。……いずれ命令は解除されるから。」
意味深な台詞を口にするオーエン。それに首を傾げていたジャックスの胸元にあるペンダントが揺れた。通信用の鉱石を加工したものであり、騎士団の詰所とつながっている。オーエンを訝しげに見ながら、ジャックスは応答した。
「はい、こちらジャックスとガリエノです。どうしましたか。」
相手は、ハルシュタインであった。
「二人ともそこにいるのですね。問題が発生したので、直ちに騎士団の詰所に来るように。」
二人は顔を見合わせた。このような呼び出しは初めてであったし、ハルシュタインも、心なしか焦っているように聞こえたからだ。彼女は、焦っているときほど、それを隠すために不自然なほどに冷静な語調になる。通信を聞いて、二人はただならぬ事態が迫っていることを確信した。
「……遅い。」
ハルシュタインはナイフのような切れ長の目に、苛立ちと怒りを少しだけ滲ませていた。二人は、メリアのように、尋問を受けているような気になった。
「さて、用件は分かっていると思うのだけれど。気づいていますよね。」
二人は、重々しく頷く。墓所の黒々とした霞のような空気が、墓所のある区画から立ち上っている。その空気は、徐々に蒼穹を覆っていく。何かまずい事態であること位は、二人にも分かった。この不可思議な現象が意味するところは、一つしかない。魔術儀式が大成したということだ。言い換えれば、どこかで六人目の被害者が出てしまったということなのだが、最早そのことについて論じている場合ではない。一刻も早く、この儀式を止めなければならない。被害が大きくなる前に、これを破壊しなくては、何が起こるか分からない。
「本来なら、あなたたちは実質的な謹慎処分ですが、事態の悪化が見込まれる以上、総力でもって事に当たれと皇帝から下知されましたので、あなたたちの処分を一度解きます。」
二人は、背筋を伸ばして頷いた。
「分かったら、さっさと行きなさい!」
氷のような人間だが、時に烈火の如くに激することもある。二人は不整の敬礼で、いそいそと詰所を出ていった。
「…………チッ。」
調査本部の中の張りつめた空気を震わせて響いたのは、エルヴェの舌打ちであった。彼の前に置いてある灰皿には、何本もの煙草がぐずついていたが、それが妙に時間の流れを感じさせた。
どれくらい経ったか、ようやくエルヴェが口を開いた。
「何かが来るなぁ。」
光には、そんな気配は微塵も感じられなかった。しかし、それでも、何かしらの大きな存在が、全天を覆っていくような、重苦しい雰囲気だけは、図太い彼でも理解できた。
「外は、どうなっているのでしょうか。様子を見て来ましょうか。」
イーリスが、恐る恐るといった様子で、エルヴェに問う。エルヴェはこれに対し、首を横に振った。
「止めておけ。鬼が出るか蛇が出るか、とはよく言ったもんだが、下手に出たら、どうなるか知れたもんじゃなかろう。」
エルヴェのその言葉に、イーリスは、ノブに添わせた手が、生命の危機に接し、ピクリと痙攣したかのように感じられた。金属製のノブは、いやに冷たかった。扉を、まるで獣の檻のように感じるという経験は、後にも先にも、今しかないであろう、と彼女は考えていた。




