黒白相克
「あはは、滑稽だね。反逆の結果がこんなものだとは。まぁ、当たり前といえば当たり前のことなんだけど。」
白いヒトガタは、木偶のように転がった黒い影を見下ろして言った。
その言葉に、黒い影は応えない。反応ができぬほどに痛めつけられたという方が正しいのだが。ただただ、弱い呼吸で返した。
その様子を、黙って見ていた白いヒトガタは、ほぅ、と嘆息した。
「しかしまた、何であんなことを?君は、ついぞそんな考えを抱いたことなどなかったのだと思うのだけれども。……まさか、本気で世界を創り直そうとしていた訳じゃないよね。」
「……。フフッ……。」
薄く笑う黒い影を不審に思った白いヒトガタは、片眉を上げた。そして、そのまさかであったことを理解したのだ。あまりに無謀なことだ。万が一にも、とは思っていたのだが、いや、やはりその答えは予想外であった。
「……あはははは、その顔。いいね。……逝く前に貴方のそんな顔が見れてよかったよ。」
苦しげな声でぼそりと嘯く黒い影。その顔には、暗い笑みが張り付いている。その様子を不快に感じた白いヒトガタは、苦虫を磨り潰したような顔になった。
「……やっぱり、君はイカれてしまったのかな?螺子の切れた玩具は、持ち主が処理せねばならないのだけれど。」
「ふふ、まさか……。至って正気ですよ。ただ、古い存在である、貴方の常識の範囲外のことをしているだけで……。」
「常識の、範囲外……?」
目を細める白いヒトガタ。その仕草を面白いと感じたのか、黒い影の声が一段と大きくなる。
「そう。範囲外。」
黒い影は嘲笑うかのように告げた。
世界の欠片の輝き、煌めき、光の雨の中、二つの影が相対している。その片一方、黒い影が口を開いた。
「ぼくはねぇ、『世界の浄化』を目指してるんですよ。」
世界の浄化、その言葉の真意を掴みかねたもう片方、白いヒトガタは、困惑した。
「じ……浄化……、分からないな。君は一体何をするつもりなんだい?」
そんなことも分からないのか、と言うように嘆息した黒い影。ヒトガタは苛立ったが、しかし、黒い影の行動の本意が読めなかったので、下手に手出しをすることはなかった。
「浄化は浄化ですよ、汚れきった世界の浄化。」
黒い影は、そう、告白した。自分で口にしたその言葉の響きに陶酔しているのか、それとも、その『浄化』そのものに興奮しているのか、頬を紅潮させながら。自らが負った傷の深さなど、忘れたように、夢の中にいるような顔で、そう告げた。
「旧約聖書の洪水、ペストの流行、スペイン風邪。……貴方も『大いなる四柱』の内の一柱なら、それらが何を意味するかご存知でしょう。いや、知らない訳がないんだ。これらも全て、創造主のご意志なのだから。」
黒い影の言葉を聞き、白いヒトガタは、眉を顰めた。
「……話は分かった。確かに君の言う通り、地上の汚濁は以前にも増して、より濃く、より深くなっている。それこそ、看過することもできないほどに。」
「貴方も分かっているじゃありませんか。」
目を細めた、得意気な黒い影を睨み付け、白いヒトガタが反論する。
「でも、それを決めるのは君じゃない。決めるのは、創造主ただ一柱。そして、今はその時じゃないと判断されている、地上が存在していることがその証明だ。つまり、その浄化の謀は間違っているんだ。……なぜ、分からないんだい?行いを改め、罪を贖いさえすれば、またここに、神の大地に戻ってこられる。……このまま進めば、君は『無の淵』に堕とされる。そうすれば、悔い改めも、転身もかなわない。」
それはつまり、『死』すらも許されず、永遠の苦しみに苛まれる場所へ堕とされるということだ。それを知っているからこそ、黒い影は寂しげな微笑みで返した。後悔はない、運命を受け入れると言わんばかりに……。
少なくとも、白いヒトガタは、そう感じた。
「最後に聞くよ。引き返す気は、ないんだね。」
「えぇ。もちろん。」
「ならば、……私は君を止めなければならない。私と闘う覚悟は、あるんだね?」
「もちろん。……何度も言わせないでください。いくらぼくの決意でも、何億何兆と同じ質問を繰り返されたら、揺らいでしまいますから。やるならば、今すぐにでも。」
ふぅ、と一つ、息を吐く。何もない黒い空間に、寂しさを助長する静寂が舞い降りる。互いが互いの目の中の覚悟と諦念を見てとったとき、白いヒトガタが動いた。
黒い世界が一気に光に包まれる。否、それは光ではない。ただただ真っ白な、大きな紙を広げたような、そんな空間が、白いヒトガタの背後に開かれたのだ。世界を映した欠片は、その中に飲み込まれ、消えた。欠片が消える、ということは、世界が消えることを意味する。もっとも、欠片は消えた訳ではない。光は、白い空間の中に隠れて、見えなくなっただけだ。
地が白くなったことで、黒い影の姿が浮き上がる。全身に傷を負った、人の形をした何かは、黒い髪に黒い装束、全身を黒で覆ったその姿を現したのだった。それが、苦し気な呼吸を小刻みに繰り返している。ふらり、と立ち上がるが、その足元は覚束ない。黒い影だったものは、虚ろな目線を、白いヒトガタに向けた。
白いヒトガタは、その目線を正面から受けとめようとはしなかった。その代わりに、白いヒトガタは、自身の指先を、黒い影に向けたのだった。
突如、その指の周りの白の濃度が増す。まるで、白い絵の具を塗りたくったような、或いは、それをこぼしたような白い空気は、形を槍へと変え、黒い影をただ穿たんと、空を割いて襲いかかる。その数、数十、数百本。
黒い影は、その槍が眼前に迫るのを見た。脳の警告信号は、物質的であっても、概念的であっても、その命の危機を伝えていた。しかしながら、頭で理解し、行動しようとしていることが、身体ですぐ履行されるとは限らない。黒い影は、退避の意識を抱いたまま、貫く槍になされるがまま、遂に中空に縫い止められ、動かなくなった。結局、黒い影の反逆は、その世界ごと、白く塗り潰されたのだった。
「やはり、やはりそんなものか。君の覚悟は、所詮覚悟だけだ。いかに崇高な思想、理想、神話を掲げても、そこに見合った能力がなければ、単なる独りよがりでしかない。」
白いヒトガタは、目を伏せて、悲しげな顔をした。その顔の奥に隠された心情は、かつての知己を手にかけた悲しみではない。期待外れ、拍子抜け、空回りから来る、虚しさである。言い換えれば、なんだ、そんなものか、という感覚である。温情をはね除けて、積み上げた全てを投げ出してまでたどり着こうとしたところは、何かを変えるということもない、空虚な死であったのだから、その感情が沸き上がってくるのも当然である。
ここにいるのは無意味、とでも言いたげに、白い影は、磔になった黒いものに背を向けた。手を伸ばし、何もない空間に触れる。その手にはいつの間にか、この世界と同じ真っ白なドアノブが握られていた。このドアノブは、白いヒトガタの管理する世界へ通じるものである。ノブを捻りかけた白いヒトガタは、背後で音がするのを耳にした。
ピシャ……ピシャ……。
液体が、硬いものに跳ね返る音。白いヒトガタが振り返ると、そこには……。
「ひ、あ……、あ、あははははっ!まったく、詰めが、甘いのなんのって。ねぇ……、ぼくをあれで、倒したとでも思ったの!?」
身体に刺さった槍を一本残らず引き抜いた黒いものが、哄笑していたのだった。