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第九話 そっと触れてみる

 魔力切れでミュリエルが倒れた次の日、めずらしく朝食の席にクレーフェ侯爵が来ていた。

 ハインツの話では夜遅くまで起きて研究しているから、この時間はいつも寝ているらしい。


「おはよう、ミュリエル嬢。昨日は大変だったね」

「おはようございます。そういえば、昨日はわたくしを運んでくださったそうで……ありがとうございます」

「気にしないで。そんなことより、体調はどうかな? 一時的な魔力切れなら、休養と栄養補給で治るとは思うんだけど」


 獣の顔に心配そうな表情を浮かべながら、クレーフェ侯爵はミュリエルに近づいてきた。ジッと顔色や目を見られているのはわかるのだが、あまり近くに寄られると捕食されそうな気分になる。


「うん、問題ないみたいだね。昨日のことは、私の指導不足だった。君があまりにも飲み込みがいいから新しいことを教えることに夢中になってしまっていたが、本来なら魔力の放出の制御をまず最初に教え込むべきだったんだ。きちんとしていなくて、すまなかったね」

「い、いえ……」


 昨日のリカの発言のせいで、ミュリエルは妙に意識してしまっていた。いつもなら獣頭が近くにありすぎると怖いとか強烈だとしか思わないのに、今はつい“婚約者の顔が近くにある”などと思ってしまった。

 そんなふうに思うと余計に見てしまうもので、それによってクレーフェ侯爵の変化に気がついた。


「あの……御髪が乱れてます」


 控えめに言ってみたが、今日のクレーフェ侯爵はわりと野獣じみていた。毛並みは乱れ、艶をなくしている。目の下なんかは撫ですぎたぬいぐるみの毛並みのようになっているから、普通の人間でいうと顔色が悪いという状態なのかもしれない。


「えっ! ああ……そうなんだ。実は寝てなくてそのままここへ来てしまったから、髪というか毛並みもボサボサで。いつもはミュリエル嬢との授業の前に念入りにブラシをかけるんだけど」

「寝てらっしゃらないのですか?」


 恥じらうクレーフェ侯爵の様子よりも、そのことにミュリエルは引っかかった。眠っていないというのなら、この毛艶のなさも理解できる。


「ミュリエル嬢が倒れたっていうのに、眠っていられないよ。急いで魔力の制御を覚えさせなくちゃと思って、これを作っていたんだ」


 クレーフェ侯爵が差し出してきたのは、美しい石のついたペンダントだった。ミュリエルの親指ほどの大きさの紺碧色の石の中には文字が刻まれていて、光にかざすと銀色に光って見えた。


「これは魔力の放出量を一定に保ってくれる仕掛けを施している。このペンダントを首から下げていれば、昨日みたいに不必要に魔力を使いすぎて倒れることはない。もちろん、無理をすれば例外だけど」

「……ありがとうございます」

「師匠として当然だよ。むしろ、もっと早くに渡してやるべきだった」


 徹夜までしてクレーフェ侯爵が作ってくれたということに、ミュリエルはものすごく感激した。だが、師匠として当然だと言われて、ほんの少し面白くない気分になる。

(お父様以外の男の人からいただく贈り物だわ……)

 師匠からのもらいものは勘定に入れるか否か、しばらく内心で葛藤があったが、結局その石の美しさに負けて気にしないことにした。


「これでひと安心だね。……安心したらドッと眠気が。ハインツ、朝食はやっぱりいいや。昼まで寝るよ」


 そばに控えているハインツに言って、クレーフェ侯爵はふらふらと朝食室を出ていった。

 まるで手負いの獣を見守るような気持ちで、ミュリエルはそれを見守った。



(……わたくしのせいで、徹夜をさせてしまったのね)

 胸元のペンダントを見るたびにつらそうなクレーフェ侯爵の姿を思い出してしまい、朝食後の勉強はあまりはかどらなかった。それに睡眠時間が足りていない、疲れている彼に授業をしてもらうのも何だか気が引ける。

 だから、ミュリエルは昼食のあと、お茶を持ってクレーフェ侯爵の部屋を訪ねることにした。


「失礼いたします」

「どうぞ」


 ノックして部屋に入ると、クレーフェ侯爵は長椅子に腰かけていた。朝とは違い、毛づくろいもとい、身づくろいはきっちりしている。


「さあ、今日は何の勉強をしようかな」


 明るく笑顔を浮かべてクレーフェ侯爵は言う。それが空元気に見えて、ミュリエルは心配になった。


「あの……今日は魔術の勉強ではなくて、雑談をしたいと思ってきました。お茶も淹れてきました。ハーブティーです」

濃い紅茶(ストロングティー)じゃないんだ。目が冴えないようにって配慮だね。……いたわらせちゃったな」


 困ったように笑って、それから長椅子を勧めた。勧められるまま、ミュリエルはクレーフェ侯爵の隣に座った。……ひとり分くらいの隙間を空けて。


「ごめんね、気づかわせてしまって」

「いえ……たまにはクレーフェ卿と、こうしてお話するのも大切かと思いましたので。昨日、リケとリカといろいろお話して、親しくなれましたし」

「そうだったね。まさかリカが侵入者を撃退するための木を相手に鍛錬しているとは知らなかったよ。だから、ミュリエル嬢が助けてくれてよかった。ありがとう」

「たまたま居合わせただけですから。それに、仲良くなるきっかけになったのでよかったです」

「せっかく年が近い者同士が近くにいるのだから、仲良くなれたほうがいいもんね」


 ミュリエルがあの姉弟と親しくなったのがよほど嬉しいことらしく、クレーフェ侯爵は柔らかく目を細めていた。


「フィリと同様に、彼らも私にとって大切な話し相手だから、ミュリエル嬢にとってもそうなってくれたらいいな。……私はね、元々人付き合いが不得意だったし、爵位を継ぐとは思っていなかったから、知り合いも少ないんだ」


 クレーフェ侯爵は笑顔で言う。それでも、言葉の中にわずかな憂いを感じ取り、ミュリエルは踏み込むかどうかためらった。だが、踏み込まなければ関係はそのままだ。

 よく知らないままの婚約者。魔術の先生と教え子。そういう微妙な関係ではあるが、クレーフェ侯爵がミュリエルを気にかけてくれるのと同じくらいには、ミュリエルも彼のことを気にかけたいと思った。


「……爵位を継ぐとは思っていなかったというのは、ご兄弟がいらしたのですか?」

「兄がね。でも、病で亡くなった。私は次男で、家とは関係なく生きていくつもりだったから、魔術師を志していた。魔術は向いていたみたいで、自分の興味のあることを研究していたらそれが思いのほか世の中に求められて、いつの間にか称号までもらってしまった。だから、魔術師として生きていくと思っていたんだ」


 話を聞きながら貴族の次男以降の扱いを思って、ミュリエルは複雑な気持ちになった。

 同じ家に生まれても、爵位を継げるのは長男だけだ。次男以降は長男にもしものことがあったときのためにスペアとして教育を受けるが、長男が健在ならばそれが役に立つことはない。だから、弁護士や学者になるか事業を起こすかして、自分で自分の身を立てていかなければならない。それか、男子のいない家の令嬢を射止めて婿入りするしかない。

 魔術で身を立てて生きていく基盤も覚悟もできたときに家を継がなければならなくなったのは、きっとすごく複雑に違いない。

 そのあたりのことを想像できてしまうのは、ミュリエル自身がリトヴィッツ家の長子で、婿を取るかどこかへ嫁いで二人以上男子を産むかしなければならないという事情があるからだ。


「貴族として生きるのは、嫌ですか?」


 苦しみにほんの少し寄り添う気持ちで、ミュリエルは尋ねてみた。クレーフェ侯爵の抱える苦悩すべてをわかっているつもりはないが、部分的には共感できるつもりだ。だから、聞くだけならできる。


「そうだね。正直に言えば、嫌だな。でも、爵位を継いだことでリトヴィッツ卿と知り合えたし、ミュリエル嬢のような良い教え子を持つことができたから、悪いことばかりではないけどね」


 少し考えてから、クレーフェ侯爵は微笑んだ。その笑顔に偽りはないようで、ミュリエルはほっとする。


「良い教え子、ですか。そう言っていただけて嬉しいです。……それなら、“クレーフェ先生”とお呼びしてもいいですか?」


 置かれた環境は変えられなくても、呼び名や関係は変えられる。そう思いついて言ってみたのだが、予想外の反応が返ってきた。


「……先生! すごく素敵な響きだ。先生……クレーフェ先生……ちょっと硬いな。メルヒオル、メルヒ……メルヒ先生! あの、メルヒ先生って呼んでもらえないかな……?」


 パッと目を輝かせ、クレーフェ侯爵は言った。もしも尻尾がついていたなら、ブンブンと振っていそうなほどだ。

 その嬉しそうな様子を見て、ミュリエルはあったかもしれない彼のもうひとつの生き方を思った。魔術学校の教師としての生き方を。


「じゃあ、わたくしのことはミュリエル嬢(レディ・ミュリエル)ではなく、ミュリエルとお呼びください。メルヒ先生」


 ただ求められたように呼んだだけで、クレーフェ侯爵――メルヒオルは嬉しそうに笑った。

 獣の頭は、人間のような表情はなかなか作れない。それでも、目を細め、口角をキュッと上げているのは満面の笑みだとわかる。

 笑っているのだとわかれば、キラリとのぞく牙も、もう怖いとは感じない。

(こんなに早く、この獣の顔に慣れるとは思わなかったわ)

 自分の心境の変化に、ミュリエルは何だかおかしくなってしまった。

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