第六話 語らいティータイム
ポットの中のお茶をこぼさないようにそろりそろりと移動して、ミュリエルはようやくフィリの部屋にたどり着いた。
自分のふかふかな背中を枕にしてフィリは眠っていたが、ミュリエルの気配で目を覚ました。
ミュリエルはフィリの籠のすぐ下に腰を下ろし、お茶の用意を始めた。
「それ、あぶない?」
ポットからカップにお茶を注いだのを見て、フィリが不安そうに尋ねた。鳥の目にも、どうやら美味しくなさそうに見えるらしい。
カップに満たされたのは、薄く色づいたお湯だ。香りもなく、紅茶と呼ぶには色が薄い。水色が濃くない茶葉もあるが、そういったものでも香りと味はするものだ。
「……危なくはないけど、美味しくないわ。ううん……これは、不味い」
頑張ってひと口ふた口と飲んでみて、ミュリエルはカップをソーサーの上にそっと戻した。
すっかりぬるくなってしまっているし、えぐみだけはしっかり残っているそのお湯を飲み干す気力はなかったのだ。
自分で淹れたお茶が美味しくないと思い知ると、またモヤモヤした気持ちがぶり返してきた。従僕に言われたことやうまく言い返せなかったことが、涙となってあふれてくる。
「どした? どっか痛い?」
シクシク泣くミュリエルをフィリが上から見下ろす。よほど心配なのか、首をかしげながら右に左にちょこちょこ落ち着かなく歩く。
そんな健気な姿を見て泣き止まなくてはと思うのに、なかなか涙は止まってくれなかった。ミュリエルを何とか元気づけようと思ったのか、やがてフィリはか細い声で歌い始めた。
フィリの歌声は、不思議で、優しい響きがした。聞いたことのない旋律だから、もしかしたら小鳥だけが知っている歌なのかもしれない。ピチュピチュという囀りのような、柔らかな鼻歌のような、独特の音だ。言葉遣いの悪い鳥が歌っているとは思えないほど、慈愛に満ちている。
「フィリちゃん、歌ってる?」
「きゃっ」
涙を流れるままにしてフィリの歌に聞き入っていると、突然声がした。その方向を見れば、ドアが少し開いている。その隙間から頭だけ出ている獣を見て、ミュリエルは悲鳴をあげた。
「あ、ミュリエル嬢! ごめん。いるとは思わなくて……」
デレッと甘い表情でドアに挟まっている獣頭。それがクレーフェ侯爵だとわかっても、ミュリエルは落ち着かなかった。突然の獣頭は、刺激が強すぎる。
落ち着かないのは彼のほうも同じようだ。愛玩動物にだけ見せるデレデレな様子をミュリエルに見られて、動揺している。かといってドアを閉めるわけにはいかなかったのか、しばらく頭だけ覗かせたままにしていた。
「私も一緒にお茶にしてもいいかな? その……お邪魔だったら遠慮するけど」
「いえ、どうぞ……」
泣いているのに気づいたのだろう。ごまかすこともできず、ミュリエルはしぶしぶうなずいた。
ほっとしたような表情をして、それからいそいそとクレーフェ侯爵はいなくなる。
あの従僕か執事のハインツに命じてお茶を持ってこさせるのだろうかと思っていたが、次に戻ってきたとき彼はワゴンを押していた。
「ごめんね。遅くなってしまって。何か甘いものもあればと思って、いただきもののチョコレートなんかを探してたんだ」
言いながら、クレーフェ侯爵は手際よくお茶の準備を進めていく。ワゴンからティーセットやお菓子を床に並べていくと、まるでピクニックのようだ。
「ミルクもお砂糖もたっぷりどうぞ。少し香りが強い茶葉にしたから、うんと甘くしてもお菓子に合うし美味しいよ」
「いい香り。……クレーフェ卿が淹れてくださったんですか?」
お茶の注がれたカップとソーサーを受け取って、その香りの良さにミュリエルは感激した。自分が淹れたものとは、まるで違う。これこそがお茶なのだと、改めて思った。
「魔術学校時代に練習したんだよ。学校にいるときは、美味しいお茶を飲みたければ自分で淹れるしかなかったから。……難しかったでしょう?」
やわらかく目を細めて、クレーフェ侯爵はミュリエルの脇に追いやられているカップを見た。その中の飲みかけの液体を見れば、大体のことは察しがついたに違いない。
「すごく難しかったです。もっと簡単にできると思っていたのですけど……」
「慣れが必要だからね。お湯は沸かしたてのものがいいとか、ティーサーバーで淹れてからポットに移し替えたほうがいいとか、知らないとお茶の出来を左右するし」
「そうなんですね。……何も知りませんでした」
何とかこらえようとしていたのだが、話しているうちにまた泣けてきてしまった。泣けば気にさせるのはわかっているし、みっともない姿は見せたくないと思うのに。
だが、クレーフェ侯爵にも話してしまえばいいかと、そんな気もしてくる。小鳥のフィリには愚痴を言えたのだから、獣頭に話すのも変わらないだろうと。
「……泣いている理由を尋ねてもいいかな?」
なかなか口を開けずにいるミュリエルを気づかってか、クレーフェ侯爵がそう水を向けてくれた。ここでお茶をすると決めたときから、きっと彼も話を聞くつもりはあったのだろう。
せっかくの機会を逃すまいと、ハンカチで涙を拭ってからミュリエルは頷いた。
「朝食の席でお茶を頼んだら、『お嬢様生活をしたければ実家に戻れば』とか『自分の世話を自分でできないのに魔術学校に行きたいわけ』とか、言われてしまったんです。ほかにも、私は我が儘だとか……」
ポツポツと、なるべく順序立ててミュリエルは語った。一方的な告げ口のようにならないよう、あの従僕を過剰に悪く言わないようにも気をつけながら。
婚約のことや貴族としての意識の低さについては、言いながらまた気持ちが落ち込んできた。
言われたくなかったことだ。言われて悔しかったことだ。だがそれは、自分でも肯定しきれていなかったことだからに他ならない。
「それは、とても嫌な思いをさせてしまったね。この家の主人として謝罪する。本当に申し訳ない」
「いえ、そんな……」
話を聞き終えると、クレーフェ侯爵は申し訳なさそうな顔をして深々と頭を下げた。獣頭に頭を下げられるという稀有な体験をして、ミュリエルは焦った。いろいろな意味で、頭を下げさせていい人ではない。
「ひどいことを言ったのはリカだね。あの子は言わなくてもいいことを人に言うから困るよ」
「リカというんですね……」
「悪い子ではないんだよ。ただ、言葉が辛辣なんだ。……あとあと後悔するくせに」
ミュリエルの怒りや悲しみを受け止めつつも、クレーフェ侯爵はあのリカという使用人のことを庇いたそうにしている。
獣頭になっても屋敷に残り続けている使用人だ。悪く言いたくないという気持ちも、理解はできた。
「そういえば、いつの間にかフィリと仲良くなっていたんだね。フィリのそばは落ち着くでしょう?」
ほんの少し、ミュリエルが面白くないと思ったのが伝わったのか、クレーフェ侯爵はするりと話題を替えた。
自分のことを話題にされているのかわかっているようで、フィリが目をキラキラさせて見てきていた。
「はい。フィリは聞き上手で、歌で慰めてくれて、すごくいい子です」
今日のことで、出会ってすぐに「ポンコツ高慢ちき」と言ったことは水に流すことができていた。悪い言葉を覚えて使ってしまっているだけで、他者をいたわる心は持った子だ。
「フィリとミュリエル嬢が仲良くなってくれて嬉しいよ。フィリは私の数少ない友人なんだ。私は誰かと親しくするのが、あまり得意ではないから、人間の友はほとんどいないんだ……」
「貴族社会では、お腹に何もない付き合いは難しいですものね」
獣の顔に浮かぶ表情があまりにも憂いを帯びて見えて、ミュリエルはとっさに庇うように言った。
それにその言葉は方便ではなく、ミュリエル自身も感じていることだ。親や家同士の関わりで親しくしている令嬢たちはいるが、彼女たちとお腹の中まで分かち合おうとは思えない。
「それもあるけど、私は昔から自分の容姿が好きではなくて、そのせいで人と関わることが得意じゃないんだ。じっくり話したり、目と目を合わせるなんて苦手も苦手だよ」
そう言いながら、クレーフェ侯爵は獣の顔で困ったように笑っていた。琥珀色の目には、しっかりとミュリエルの姿が映っている。
「……苦手なのに、こうしてわたくしとお話してくださるんですね」
「だって、今この屋敷で君を守る立場は私だし、守れるのも私だけだから」
「守る立場……」
先生という簡単な言葉ではなく、婚約者という横暴な言葉でもなく、そう言ってくれたことが意外で、そして嬉しかった。
婚約を破棄してやろうと屋敷に乗り込んで、なりゆきでこうしてここにいるわけだが、そんなふうに思われていたとは知らなかった。
魔術を学ぶこと、そしてクレーフェ侯爵を元の姿に戻して婚約破棄すること――ミュリエルはそれしか考えていなかったというのに。
守り世話せねばならないものだと、クレーフェ侯爵は思ってくれていたというわけだ。
「それに、ミュリエル嬢は私がこんな姿でもすぐに適応してくれたから……できたらこのまま良い関係を続けていけたらと思うんだ」
ジッと見つめるミュリエルから目をそらし、もじもじとクレーフェ侯爵は言う。目と目を合わせて話すのが苦手というのは、どうやら本当のことらしい。
恐ろしいネコ科の大型獣が恥じらう様子は、何だかおかしい。
暫定婚約者でもなく、魔術の先生でもなく、ひとりの変わった人を前にしている気分になって、ミュリエルはくすりと笑った。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします。魔術を、もっと学びたいので」
「うん。あの……できればリカとも仲良くしてね」
「……善処します」
クレーフェ侯爵のお願いだから無下にできないというのもあったが、時間が経ってみるとリカにさして腹が立っていないことに気がついた。
本音は隠して人付き合いをするのが当たり前の世界で生きてきたミュリエルにとって、あれだけはっきりものを言われたのは初めての経験だった。
もしかしたらああいう人物と親しくすることは、必要なことなのかもしれないと思えるようになっていた。