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第五話 腹の立つ日々

 獣頭が気になるのことをのぞいては、クレーフェ侯爵との師弟関係は良好だった。

 毎日午後になると、クレーフェ侯爵は魔術の講義をしてくれる。クレーフェ侯爵の言葉通りミュリエルは筋がいいらしく、彼が何か与えるというよりも、予習してきたことをミュリエルが尋ねるということが多い。教師から知識を引き出すというのも才能がなければできないことだと、クレーフェ侯爵は大いに喜んでいる。

 褒められるのが嬉しくて、ミュリエルは日々せっせと予習復習に励んだ。初心者用にと与えられた本を読んでいると、やってみたいことや気になることが次々出てくるのだ。それを翌日にクレーフェ侯爵の手ほどきのもと実践してみるのは、すごく楽しい。もしかしたら学校に行って机に向かって学ぶのよりも、この形のほうが向いているのではないかと思えるほどだ。

 だが、他のことはなかなかうまくいかず、とにかく不満だらけだ。

 使用人のあの美少女との関係が、よろしくないのだ。

 よろしくないというよりも、彼女のほうに働く気がないように感じる。

 クレーフェ侯爵にミュリエルの世話を頼まれているというわりに、彼女は何もしたがらない。なかなかミュリエルの部屋に来ない。来たと思って用事を頼むと、嫌そうにするか面倒くさそうにする。

 侯爵家の屋敷にもかかわらず使用人の数が少なくて、そのせいで忙しいのかもしれないと最初のうちは思っていた。

 主人たるクレーフェ侯爵が獣頭になっているのだ。だから最低限の、秘密を守れる人員だけしか屋敷に残していないのかと、そう考え納得している。

 だが、それでもたまに言いつける用事くらい快く引き受けてほしいと、根っからのお嬢様であるミュリエルは思ってしまうのだ。

 思ったところであの美少女メイドの態度がよくなるわけはなく、不満は溜まる一方だった。



「あの、あとで手が空いているときでいいから、紅茶を持ってきてほしいのだけれど」


 朝食を終える頃、朝食室に執事のハインツに代わって従僕姿の美少女がやってきたから、ミュリエルはそう頼んでみた。

 部屋で勉強しているとき、やはり飲み物がほしいと思ってしまうのだ。それにこうして頼まなければ、食事のときくらいにしか水分を摂取できないことになってしまう。

 かといって勝手に厨房に飲み物をもらいに行っていいかもわからないから、頼むしかないわけだ。


「……何しにここに来てるわけ? お嬢様生活を送りたかったら実家に戻れば?」


 従僕は冷たくミュリエルを一瞥して、吐き捨てるように言った。そのあまりの不遜さに、ミュリエルは腹が立って体温がカッと上昇するのを感じた。

 なるべく嫌な思いをさせないようにと、下手に出た挙句の暴言だっただけに、怒りもひとしおだ。

 それでも、言い返すつもりはなかった。従僕がさらに一言付け加えるまでは。


「魔術学校に行きたかったって聞いたけど、そんなんで学校生活送れるわけ? 自分の世話も自分でできないで」


 よほど虫の居所が悪かったらしく、黙っているミュリエルに従僕はさらにひどい言葉を投げかけた。


「てかさ、お嬢様気分はたっぷりなくせに、貴族としての自覚が足りないんじゃない? 貴族に生まれたのなら、家のための結婚は当たり前。よっぽど相手が悪くてごねてるとかならまだしも、メルヒ相手にごねるなんてただの我が儘でしょ。魔術学校に行きたい、婚約は嫌だ……あんた、我が儘なんだよ」

「なっ……」


 ただお茶を頼んだだけでここまで言われなければならないのかと、ミュリエルのはらわたは煮えくり返る。

 だが、それ以上に傷ついた。


「……どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ! 学校のことも婚約のこともわたくしの問題で、あなたに言われることじゃないわ!」


 叫ぶように言って、ミュリエルは席を立った。

 本当は、もっといろいろ言い返したかった。いろいろな感情があふれていた。そのせいでうまくまとまらず、身体の中でグルグルうずまいて吐き出すことはできなかった。

 朝食は途中だったが、そのまま朝食室を出て行く。腹が立って仕方なかったから、従僕のことは視界に入れないようにした。

 廊下の途中までは怒りの表情を作ることができていたが、部屋まではもたなかった。こらえようとしていたのに、ポロポロと涙が出てくる。

 泣きたくなんてない。泣いているところを誰にも見られたくない。こんな姿を誰かに見られるなんて、それこそ淑女としての恥だ。

 部屋まで無事に戻れそうにないと判断し、ある部屋に駆け込んだ。自分の部屋に帰る途中に誰かに泣いているのを見られるかもしれないことより、この部屋で涙が引くまで隠れていたほうがマシだと思ったのだ。


「泣いてる? ポンコツ高慢ちき、泣いてる?」


 部屋に入るや否や、そんなふうに問いかけられた。さすが賢い子だなと、ミュリエルは苦笑した。


「ポンコツ高慢ちきじゃなくて、ミュリエルよ」

「みゅー、泣いてる?」

「ええ。泣いてるわよ」

「泣き虫、泣き虫」


 鳥籠の近くまで行くと、小鳥のフィリも止まり木からぴょんと格子に掴まった。ミュリエルの泣き顔をよく見てやろうという考えだろうか。キャッキャと笑いながら繰り返し「泣き虫泣き虫」とフィリは言う。

 これが何でもないときなら、ミュリエルはひどく腹を立てただろう。だが、従僕にあんなことを言われたあとだから、フィリの悪口なんてどうということはない。


「あのね、クレーフェ卿は教えてくださらないかもしれないけど、泣いている人を笑ってはだめなのよ。わかる?」

「なんで?」


 虫が木にとまるかのように器用に格子に張り付いたまま、フィリは小首をかしげる。くりくりとしたその黒目を見ると、意地の悪さや邪悪さとは無縁だ。悪意があって言っているわけではないとわかる。


「泣いてるってことは、悲しかったり痛かったりしたってことなの。フィリ、あなたが止まり木からもし落ちてしまって、それを見て私が笑ったら嫌でしょ?」

「いじわる! だめ!」

「それと同じことよ。私のこと、笑うのは意地悪よ」

「ごめんね」


 鳥籠越しにフィリがじっと見てくるのが可愛くて、ミュリエルは手の甲で涙をぬぐった。


「なんで泣いてた? 痛かった?」


 怒りや悔しかった思いがぬぐえなくて、まだじんわりとミュリエルの目から涙はあふれる。

 何から口にすればいいのだろうと、まずそこから考えなくてはいけない。


「……お茶が飲みたくてお願いしたら、嫌だって意地悪なことを言われたのよ。『お嬢様生活をしたいなら実家に帰れば』とか『自分の世話もできないで、どうやって学校生活を送るつもりだったんだ』とか」


 まずひとつめの怒りを吐き出してみた。だが、口にしてみると何だかこれに腹が立っていたのではない気がしてくる。


「のどかわいた?」

「そう。だから、お茶がほしかったの」

「のんでいいよ」

「……ありがとう」


 賢いといっても、おそらくフィリの言語能力は人間の子供でいうと二、三歳くらいなのだろう。伝わったのは、ミュリエルがお茶を飲みたいことだけのようだ。

 お茶の用意を拒まれたことも、意地悪を言われたことも、フィリにはわかっていない。それでも、喉が渇いたと言うミュリエルに「のんでいいよ」と言えるということは、フィリは優しい子なのかもしれない。


「……そうね。お茶くらい、自分で用意できたほうがいいわね」

「できる?」

「やってみるわ。お茶を淹れたら、この部屋で一緒に飲んでもいい?」

「いいよ」


 フィリと話しているうちに、ミュリエルの気持ちは少し落ち着いていた。うまくできるかどうかわからないが、自分でお茶を淹れてみればもっと落ち着くかもしれない。

 従僕の言葉に傷ついたのは、言われたのが気にしていたことだったからだ。

 実家を離れ、こまごまと世話を焼いてくれる人がいないとこんなにも生活しづらいのかと、しみじみと感じている。もし魔術学校に行っていたらそこでは寮生活で、自分で何もかもしなければならなかったのに。

 だから、自分の考え方や姿勢が甘かったことも理解できている。

 それに、貴族に生まれれば家のための結婚が当たり前ということも、わかっていたつもりだ。ミュリエルと同じくらいの歳で嫁ぎ先が決まっている子も珍しくないし、いずれ自分もしかるべき相手を見つけなければならないという自覚もあった。

 だから、こうして魔術を学んでいられることが他の令嬢たちにない猶予期間だということも、どこかではわかっていたのだ。そのことを我が儘と言われても、たしかに仕方がない。

 だが、従僕のあの物言いや態度を認めるわけにはいかない。彼女は、ミュリエルの世話をすることも仕事なのだから。



「いいわよ。お茶くらい、自分で淹れられるようになってやるんだから」


 気持ちは落ち着いたが完全に怒りが冷めたわけではなく、ぷりぷりしながらミュリエルは厨房へとやってきた。


「茶葉にお湯を注いだら……お茶は淹れられるはずよね」


 まずは食器をしまってある棚を物色して、カップとソーサー、それからティーポットを取り出した。あとは茶葉さえ手に入れられればお茶が淹れられると思ったのだが、なかなか見つからない。

 はしたないと思いつつも、ひとつひとつめぼしい戸棚を開けていくしかなかった。

 本来なら入ってはいけない場所で、無断で戸棚を開けて回るというのは非常にドキドキする。厨房に料理人の姿はなく、もし見られても事情を説明すれば怒られないだろうと怒られないだろうと頭でわかっていても、内なるミュリエルの良心がこの振る舞いを咎めていた。


「茶葉を入れて、お湯を注いで、あとは待つだけよね……」


 開けていった戸棚の中から茶葉の缶を、コンロに置きっぱなしにされていたケトルの中にお湯を見つけ、何とか形だけはお茶を淹れる用意を整えることができた。

 だが、お湯はぬるい気がするし、茶葉の適量がわからない。

 

「……私って、本当に何も自分でできないんだわ」


 茶葉をポットに放り込み、その上から湯気さえ出ていないぬるま湯を注ぎながら、ミュリエルは悲しくなってきた。

 落ち葉の浮かぶ水たまりになったようなありさまのポットを見れば、これが正解ではないとわかるから。

(お茶ひとつ満足に淹れられないなんて、あの従僕に言い返すこともできないわ。これを飲み干すのが、せめてもの意地ね)

 げんなりしつつも、ティーセット一式をトレーに載せ、フィリの部屋へと歩きだした。

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