番外編1 踏み出す一歩の舞台裏
第十八話と同じくらいの時間軸の、メルヒオル視点のお話です。
クレーフェ家の屋敷に、どんよりとした空気が漂っている。別段天気は悪くないのに、屋敷の中はまるで長雨が続いているかのような雰囲気だ。
原因は、この屋敷の主であるメルヒオルだ。
誤解され、婚約者に逃げられてから数日、毎日泣き暮らしている。
「……ミュリエル……ミュリエルぅ……」
悲しいからと伏せっているわけにはいかず起き出してみるが、そうするとミュリエルの不在を思い知らされてより悲しくなる。
ミュリエルはメルヒオルにとって婚約者で、友人で、可愛い弟子で、恋しい女性だった。
ファルケンハイン公爵夫人・カミラの秋波から逃れるための仮初の婚約だったはずなのに、メルヒオルはいつのまにか本当に好きになってしまっていた。
ミュリエルは、初めてメルヒオルときちんと向き合ってくれた女性だったから。
物心ついたときから、メルヒオルは顔だけで他人に差別されてきた。同性からは疎まれ、異性からは勝手に期待される――それが当たり前だった。
人目を引く美しい容姿に似合わず、メルヒオルは本を読んだり草花を愛でたりすることが好きな地味な人間だ。それなのに同性には女を誑かすいけ好かない野郎だと決めつけられ、異性からは自分たちに夢のような体験をさせてくれる素敵な王子様だと思い込まれている。
よく似たはとこ、ファルケンハイン公爵がそういった人物だからメルヒオルもそうに違いないと思われているのだろうが、そういった体験はおとなしい性格のメルヒオルを人嫌いにするには十分だった。そのせいで、人間関係はボロボロだ。
そんな人生を送ってきたから、獣頭でも逃げ出すことなくそばにいてくれたミュリエルは、メルヒオルにとってまるで救いの女神のように思えたのだ。
そのミュリエルに逃げられて、メルヒオルは生きる気力を失いかけている。
「メルヒ、げんきだしてね。フィリちゃんがいるよ。ぴゅるるる」
「そうだね……フィリちゃんがいるね……うぅ」
ペットの小鳥に励まされながら、膝を抱えてメルヒオルはうめいている。少しでも気が晴れるだろうかと愛鳥とおしゃべりしに来たはいいが、ここでもやはりミュリエルのことを思い出してしまう。
胸にぽっかり、穴が空いてしまっているのだ。
涙はいつか涸れるのか、傷はいつか癒えるのか。そんなことを考えていると、這うようにして退屈で苦しい時間が流れていく。
「馬鹿なんですか、クレーフェ卿」
「いや、間違いなく馬鹿だろ」
昼なのか夕方なのかわからぬまま、メルヒオルがフィリの部屋で過ごしていると、突然ドアが開いた。そして、よく似た親戚二人に罵られた。
「もー、メルヒがそんなふうにうじうじしてるから、屋敷の中にカビが生えそうだよ。てか、そのうち苔が身体に生えて、自給自足できるんじゃないの?」
最近あまり着なくなったメイド服に身を包み、リカが容赦のないことを言う。だが、こちらはまだ励ましてくれようとしているのがわかる。問題は、もうひとりのほうだ。
「そんなにうじうじするくらいなら、どうして引き止めなかったんですか? なぜ今も連絡を取ろうとしないんですか?」
冷ややかに見えるほどまっすぐな眼差しでメルヒオルを射抜き、リケは問うてくる。丁寧な物言いなのに、リカが言ったことより、よほど胸に刺さる。
「……もう、リトヴィッツ家にはお断りとお詫びの手紙を書いてしまったよ」
リケが言いたいのはそういうことではないとわかっていても、つい言い訳のように言ってしまった。
「なぜその手紙で、リトヴィッツ卿へ弁明し、助けを求めなかったのですか? 誤解であると書いていれば、リトヴィッツ卿の口からミュリエルにそれを伝えていただけたのでは? どうして、誤解を誤解のままにしているのですか?」
声を荒らげることはないが、リケが憤っているのがよく伝わってくる。それに、彼女の言っていることはすべて自分でも考えたことで、それだけに胸を抉ってくる。
なぜ、あの日引き止めなかったのか。なぜ、誤解を解こうとしなかったのか。なぜ、手紙で伝えようとしなかったのか。
「……怖かったんだ。私は、これ以上自分が傷つくのを、ひどく恐れていたんだ」
情けないと思いつつも、メルヒオルは本音を口にした。これが、行動すべての理由だった。
「それでは、ミュリエルが可哀相だわ! あの子はクレーフェ卿が好きで、だからうちの母の登場に傷ついて……あなたに騙され、恋心を踏みにじられたと思って去っていったんです。それなのに、クレーフェ卿は自分が傷つくのが嫌だからと、何もしないおつもりですか? ミュリエルを、傷つけたままにしておくのですか?」
「それは……!」
メルヒオルは、ガンと頭を殴られた心地だった。怒りの表情に涙を浮かべたリケを見れば、自分がいかに恥ずかしい大人なのかわかる。
二十八歳にもなって、まるで子供のようにいじけて、膝を抱えていただけだ。十二歳下のミュリエルが自分と同じか、あるいはそれ以上に傷ついているとは考えもしないで。
「……差し出口が過ぎました。失礼いたします」
感情をあらわにしたのを恥じたのか、リケは踵を返して去っていった。
残されたリカが、気まずそうに頬をかいている。
「あのさ、俺もリケも、ただメルヒとミュリエルに仲直りしてほしいだけなんだよ」
毒舌と気ままさが売りのようなリカが、めずらしくなだめてくる。自分の半分しか生きていない少年にそうしてなだめられ、メルヒオルは更に情けなくなった。
「そうだね。私も、許されるのなら仲直りしたいと思う」
許されることに少しも期待していない口調でメルヒオルは言う。そんな願いを持っても、ミュリエルに「さようなら」と言われたことを思い出すと胸が痛んで仕方がないのだ。
「許されるかどうとかじゃなくて、まずはメルヒがどうしたいかが大事だと思うんだよ。仲直りしたいだろ? また婚約して、結婚したいだろ?」
「それは、そうだけど……」
「あーもー」
この期に及んでまだ煮えきらないメルヒオルを見て、耐えられなくなったらしいリカが髪をかきむしりだした。きれいな顔をして、姉も弟も気性が荒い。
「あのさ、うじうじするのもいいけど、現実見ないと一生後悔することになるよ? ミュリエルはわりと可愛い。家柄も悪くない。爵位を継ぐ兄弟がいないとあって、貴族の次男以下や実業家とかにとっては格好の結婚相手だ。一度夜会に出たら、あっという間に相手が見つかるだろうね。誰かのものになってもいいんなら、そのままうじうじしてたらいいけどさ。後悔するってわかってるなら、する前に行動しなよ! 全力を尽くしてから後悔しなよ!」
髪をかきむしりながら、リカは吠える。その声に、メルヒオルは今まさに目覚めたかのように目を見開いた。
「後悔、したくない……何もせずに、後悔したくない!」
メルヒオルは叫んだ。
ミュリエルが誰かのものになってしまうなんて、想像するだけで耐えられなかった。
あの笑顔や、気の強い物言いや、楽しいことに出会ったときの無邪気にはしゃぐ姿が、自分以外の誰かのものになるだなんて、受け入れられるはずがなかった。
「だったら、やることは決まってるだろ!」
メルヒオルの目に力がこもったのを見て、リカがニッと笑う。
「まずは人間の姿に戻ること! それから、かっこよくミュリエルに求婚することだ! 元に戻るのは自分で頑張れ! かっこいい演出は、俺に任せろ!」
親指を立て、キラキラの笑顔でリカは言う。それに頷き返したことで、メルヒオルの努力の日々が始まった。
それまで取り組んでいた元の姿に戻るための研究を、より一層腰を入れてやるようになった。
これまで、“獣頭をどうにかしなければ人前に出られない”という問題だったのが、“獣頭をどうにかしなければ人前に出られないから、ミュリエルに会いに行けない”に変わったのだ。
取り組む意欲がまるで違う。
それに、こんなことになるまでは獣頭から本気で元に戻ろうと思っていなかったことにも気づかされた。人嫌いのメルヒオルには、獣頭になってしまったことは外出を避けるちょうどいい口実だったということだ。
だが、元に戻らなければならない強い理由ができてからは、メルヒオルの行動力は変わっていった。
思いつく方法を机上でこねくりまわすだけでなく、片っ端から試していったのだ。失敗するかもしれないとか、今よりひどい状況になるかもしれないという言い訳は、もうしなかった。
そのかいあって、ほどなくして人間の姿に戻ることができた。
無事に元の姿に戻ってからは、今度はリカによるスパルタ演技指導が始まった。
「違う! もっと身体の力を抜いて、ちょい悪な余裕のある感じで『こんばんは、お嬢さん』って言うんだよ!」
身振り手振りを交えながら、リカはメルヒオルに指示を出す。
プロポーズ大作戦は、ミュリエルの社交界デビューである王城での夜会に決行することになった。
見知らぬ仮面の男としてミュリエルの前に現れ、颯爽と心を奪ったあと、実はメルヒオルだったと明かすという筋書きだ。
正体を明かすまでの間には、魔術で出した花を贈ったり、夜空を飛んだりと、これでもかというほどロマンティックを追求している。
というのも、リトヴィッツ家に送り返すミュリエルの荷物の中から、巷で若い娘たちの間で流行っている恋愛小説を見つけたのがきっかけだった。
それをリカが読み込んだ結果、砂糖を男性陣にはちょっと信じられないくらいくさくて甘い演出をしたほうがいいという結論に至った。
「その、ちょい悪っていうのがよくわからないな。こう、もっと紳士的なほうがいいんじゃないのか?」
「わかってないなー。女はさ、品行方正で面白みがない男より、ちょっと悪くて危険な感じに弱いんだよ。な、ハインツ?」
「そうでございますよ。ロマンス小説のヒーローに、クソ真面目なんて出てきませんから」
首を傾げるメルヒオルに、リカとハインツがわかったようなことを言う。
執事のハインツはミュリエル役として、ノリノリでここにいるのだ。
「はい、じゃあもう一回やってみるよ」
リカに合図され、再びメルヒオルとハインツは決められた位置に立つ。そして、出会いのシーンを演じるのだ。
「や、やあ。こんばんは、お嬢さん」
「……ハインツ。今の、ときめいた?」
「いいえ、全く。わたしの中の乙女は、ぴくりとも反応いたしません」
「だよなー。はい、じゃあもう一回!」
恥じらいながらの演技に、監督と主演女優(代理)のダメ出しが容赦なく入る。
こんな大根な演技では、ミュリエルの心はつかめない。それは明白だったから、どんなギザな台詞も仕草も恥ずかしがらずにやれるようになるまで、メルヒオルは徹底的に指導されるのだった。




