第二話 野獣侯爵の懇願
どのくらいそうしていただろうか。
ミュリエルはぱちりと目を開けた。
目を開けて、まず最初に視界に入ったものに、ミュリエルはまた絶叫した。
「野獣ー!? 獣人ー!? そんなの無理ー!! 破棄よ破棄! 婚約破棄よー!!」
「び、びっくりした……」
抱きとめてくれていたクレーフェ侯爵を押しのけて、ミュリエルは飛び退った。またまた、レディにあるまじき振る舞いだ。幼い頃から淑女らしくと教育されたものの数々は、忘却の彼方へいってしまったのだろう。ここにミュリエルの母がいたら、「あらあらミュリエルったら、お行儀が悪いわ」と嘆いたに違いない。
「あの、はじめまして、ミュリエル嬢。そんなに急に動いてはいけないよ。気を失ったばかりなんだからね」
どうどう、と暴れ馬か何かでもなだめるようにクレーフェ侯爵は言う。自身が野獣頭なのに、だ。
その野獣頭という見た目と聞こえてくる爽やかな声とのギャップに、ミュリエルは頭がクラクラしてきた。そういえば、朝もろくに食べていないし、ここに来るまでに何も飲んでいない。よく考えれば、倒れるのも無理はない。
「椅子、お借りしますわね……」
「どうぞどうぞ」
とりあえずまた倒れるわけにはいかないと、ミュリエルは長椅子に腰を下ろした。そして、落ち着くためにゆっくりと部屋を見回す。
その部屋は、様々な道具が並べられた雑多な雰囲気だった。壁には何か紙があちこち貼られているし、床にもかすれた文様が書かれている。昼間なのにカーテンが締め切られ、やや数の多い燭台が室内を明るくしていた。
その異様な雰囲気に、ここは魔術を行うための部屋なのかとミュリエルは思い至った。
「……父とは、どういったお話をしてわたくしと婚約することになったんですか?」
少し冷静になったミュリエルは、この問題の起こりについて尋ねてみる気になった。婚約破棄するにしても、責任の所在についてはっきりさせておきたいと思ったのだ。
もしかしたら、クレーフェ侯爵も父に押しつけられたのかもしれない。
「困っていることがあって、婚約でも何でもすればどうにかなるんじゃないかと思っていたら、君の父上から『うちの娘をどうか』と言われて、それでトントン拍子に決まったんだ」
「…………」
予想に反してふたりの間で利害が一致していたことに、ミュリエルは言葉を失った。クレーフェ侯爵も巻き込まれた被害者だったのなら、怒りの矛先を父だけにしぼればよかったのだが。
「ミュリエル嬢……その、婚約についてだけれど、破棄というのは思い留まってもらえないだろうか……?」
こめかみに手を当てて目を伏せるミュリエルに、クレーフェ侯爵はおそるおそる声をかけた。また叫ばれないかとか、そういうことを危惧しているのだろう。
そんな彼を、ミュリエルは不機嫌を隠すことなく見つめ返す。
「嫌です。わたくし、婚約破棄するために今日は来たんですもの。勝手に婚約された上、相手が獣頭だなんて……聞かされてませんし」
ミュリエルはツンツンと鋭く言い放つ。できれば、この生意気な物言いに嫌気がさして、侯爵もこの婚約をやめたくなるようにと願いながら。
だが、クレーフェ侯爵はしおしおと弱った様子を見せるだけだ。
「それは、その……たしかに君の父上にも話していなかったけれど、こうなってしまったのは最近のことで、隠そうとかごまかそうとかは考えていなかったんだ」
「まあ! うちの父にも話してらっしゃらなかったんですの? 不誠実ですわ! ひどいですわ!」
期を逃してなるものかと、ここぞとばかりにミュリエルは騒いだ。不誠実だ、ひどいと繰り返す声に、今度はクレーフェ侯爵がこめかみをおさえる。
「私もまさか、この姿で君に会うことになるとは思わなかったんだ。だが、これはちょっと魔術を失敗してしまっただけで、元に戻ることはできるはずなんだ。……獣頭でなくなれば、婚約を思いとどまってくれるんだよね?」
「嫌です。獣頭が論外なだけで、そもそも婚約自体が無理ですわ」
「そんな……」
「二十八歳だなんて、おじさんじゃありませんか!」
「お、お、おじさん……」
ミュリエルは包み隠すことなく、言葉の暴力を浴びせつづける。切れ味抜群のその言葉は、容赦なくクルーフェ侯爵の心をえぐった。
「……たしかに、今は年の差を大きく感じるかもしれないね。でも、ミュリエル嬢が二十歳になったときに私は三十二歳だし、二十八歳のときは四十歳だ。ほら、だんだん気にならなくなってくる気がするだろう?」
「全然。まったく。むしろ、百年経っても百五十年経っても、わたくしとクレーフェ卿の年の差は十二歳なんだなーと実感いたしました」
「…………」
何とかミュリエルをなだめられないかと、クルーフェ侯爵は獣の顔に友好的な表情を浮かべていた。だが、またしても一刀両断され、その顔を引きつらせるしかない。
「その……貴族社会において、このくらいの年齢差なんてよくあるじゃないか。大人になってみれば、ちょうどいいと感じるかもしれないよ」
「大人になったときのことなんて、今は考えられません。わたくしは、今のためにこの婚約を破棄しに来たんですもの。わたくしは魔術学校に行って、そこで年の近い方々と恋と友情を育むハッピーマジカルライフを送るんです」
「ハッピーマジカルライフ……」
ツンとした口調でありながら言っていることは夢見がちという何とも言えないミュリエルに、クレーフェ侯爵はめまいを覚えた。
たしかにこの年齢差は大きいぞと、思わずにはいられない。だが、そのくらいのことで引き下がるわけにはいかないのだ。
婚約者という存在は必要だし、リュトヴィッツ伯爵は理解のある良い人だ。これを逃せば、事情を飲み込んだ上で娘との婚約を勧めてくれる人など現れないのはわかっている。
「私も精一杯、年の差を感じさせないように頑張るよ。ピチピチ、フレッシュな感じを前面に出していくからさ」
「無理していただかなくても結構です。いくらピチピチに振る舞っても、おじさんはおじさんですもの」
「……おお」
取り付く島もないとはこのことだ。
おじさんという言葉の持つ力に圧倒され、ついにクレーフェ侯爵は膝から崩れ落ちた。うら若きご令嬢の口から発せられる“おじさん”という言葉は、まるで遅効性の毒のように心を蝕んでいく。しばらく、立ち直れそうになかった。
そんなふうに落ち込むクレーフェ侯爵の姿を、ミュリエルは冷めた目で見つめていた。
言いすぎたかなと思うが、後悔はしていない。むしろ、これでもまだ婚約破棄に応じないのはどうしてだろうという感じだ。
「クレーフェ侯爵は、どうしてわたくしとの婚約にこだわるんですか?」
気になったから、率直にミュリエルは尋ねてみた。
毒にやられて弱りきっているクルーフェ侯爵は、しおしおとミュリエルのほうを見る。
「さっきも言ったけれど、私は今、少々困った状況にあって、それをうまくやり過ごすには婚約するのが一番都合がよかったんだ」
「そうなんですか」
「私を助けると思って、どうかこの話に応じてくれないだろうか……」
切々と訴えかけるようにクレーフェ侯爵は言う。膝をついているから、ちょうどミュリエルを見上げる体勢になっている。少しでも憐れを誘えるようにと、クレーフェ侯爵は両手を組んでみせた。
「そんなの、あなたの都合じゃありませんか……」
ツンツンとしてわがままに見えるミリュエルも、人の好いリュトヴィッツ伯爵の娘だ。やはり、良心に訴えかける作戦は有効だったらしい。気持ちが揺らぎはじめたのが見てとれた。
「だが、君が私を助けてくれるというのなら、私は自分の持ちうるすべての魔術を君に伝授しよう。見てごらん? これは上級の魔術で、入学してすぐには教わらないものだよ?」
何とか興味を惹かねばと、クレーフェ侯爵はとっておきの魔術を繰り出した。
手のひらの中で花びらを作り出し、風の魔術で舞わせるのだ。光の演出をそれに加えれば、あっという間に女性が喜ぶロマンティックな光景になる。
狙い通り、ミリュエルは目を輝かせて見入っている。生意気さもわがままさも鳴りを潜め、ただの愛らしい女の子になっている。
「どうかな? すごい? 気に入った? 私は、こう見えてもわりと優秀なんだ。だから、そんな私に魔術を教わるというのは、なかなか名誉なことなんじゃないかな」
目がキラキラしているうちに売り込もうと、クレーフェ侯爵は必死にアピールする。ネコ科の獣頭が、懸命に愛想を振りまいている。
こう見えてってどう見えているつもりだろうと内心ツッコミながらも、ミュリエルの気持ちはぐらついていた。
魔術学校で学ぶのもやはり魅力的だが、優秀な魔術師から直接手ほどきを受けるのも心惹かれる。
「でも……婚約するってことは、いずれ結婚するってことですよね……?」
心惹かれて気持ちがかたむきかけたミュリエルだったが、すんでのところで乙女心が顔をのぞかせてきた。
仮に魔術学校に行くのをあきらめてクレーフェ侯爵から魔術を教わることは納得できても、結婚するのは無理だ。いやだ。
生涯の伴侶が獣頭なのはちょっと……というのが、どこまでいってもミュリエルの本音だった。
女心と秋の空。つかみかけたと思ったミュリエルの心がふわふわと飛び立つのを感じ取って、クレーフェ侯爵は焦った。
婚約者が必要だというのももちろんあるが、このままミュリエルの心が飛び立ってしまったらリュトヴィッツ伯爵との約束が果たせない。
伯爵には、「娘を魔術学校に行かせないでくれ」と頼まれている。どうも、在学中の生徒か教師の中に女子生徒と浮名を流すプレイボーイがいるらしい。ミュリエルは魔術と同じくらい美男子に弱いから、父である伯爵は心配でたまらないのだ。
というわけでリュトヴィッツ伯爵との間では利害が一致している上、若干恩を感じているため、クレーフェ侯爵はこの約束を反故にはできないのだ。
「普通の婚約ではたしかにそうだが! これは……そういう契約だと思ってくれたらいい……」
どうにかせねばと困り果てたクレーフェ侯爵は、ついに十六歳の少女に拝み倒していた。