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第十八話 それからの日々

 クレーフェ家の屋敷からミュリエルが逃げ帰ってから、滞りなく婚約は解消された。

 メルヒオルからミュリエルの父・リトヴィッツ伯爵に向けて、丁寧な手紙が届いたそうだ。

 本来ならきちんとリトヴィッツ家の屋敷を訪問するべきところを書面にて済ませることについての謝罪から始まり、現在外出がままならないことと、それに伴うメルヒオルの一方的な事情によってこの婚約を解消せねばならないことが事細かに書かれていたらしい。

 手紙の中で、メルヒオルは徹頭徹尾、己に責任があると記していたという。だが、ファルケンハイン公爵夫人との関係については、言及されていなかった。

 だからミュリエルも何ひとつ、父の耳には入れなかった。

 言えば、きっと父は怒ってくれるだろう。父も、メルヒオルに詳しく事情を聞かされず、騙されていたようなものなのだから。

 怒ってくれるのがわかっていたからこそ、ミュリエルは言いたくなかったのだ。

 結婚後の不貞ならまだしも、婚約段階の裏切りだ。そもそも、婚約する前からメルヒオルとカミラの間に関係があったのだから、裏切りというよりミュリエルが知らずに片思いをして、敗れただけということになる。

 恋の敗北に親が出ていく事態になったら、それこそ惨めすぎる。

 ミュリエルが口をつぐんでいたことで、婚約の解消は滞りなく行われた。

 元々、リトヴィッツ伯爵とメルヒオルとの間の口約束のようなのものだったそうだ。正式な公表は、ミュリエルが社交界デビューをしてからの予定だったらしい。

 だから、メルヒオルの申し出をリトヴィッツ伯爵が受け入れることで、婚約の話はなくなった。

 そして、ミュリエルの恋も終わったのだった。誰にも知られることなく。

 

 それでも母にだけはこっそり、自分の気持ちを打ち明けた。


「ねえ、ミュリエル。もう、いいの?」


 クレーフェ家の屋敷からミュリエルが残してきた荷物が送られてきた日、母がそう尋ねてきた。

 実家に戻ってきてから泣くことも取り乱すこともなく淡々と過ごしていたつもりだったが、母にだけは気づかれていたらしい。


「あなた、クレーフェ卿のことが好きだったのでしょう? 魔術学校に行くことよりも彼のそばにいることを選んだということは、うまくいっているのだとばかり思っていたのだけれど」


 サロンでお茶を飲みながら、静かに母は言った。

 屋敷に戻ってきてから、放っておくとミュリエルが自室にこもって魔術の勉強ばかりするから、折を見て息抜きに誘ってくれるのだ。


「……そうですね。とても素敵な方でしたから。穏やかで、魔術の教え方が上手で、優しい方でした。わたくしのために杖やペンダントを作ってくださったり、楽しい授業を考えてくださったり、可愛がっていただきました。でも……好きな方がいらしたんです」


 ミュリエルの告白に、母は少し驚いた顔をした。だが、すぐに淑女らしい柔らかな笑みを浮かべた顔に戻る。


「それは、悲しかったわね」

「はい、とても。最初から、わかっていた上での婚約だったなら、好きにならずに済んだのですけれど……」


 ミュリエルも、母を真似て微笑んでみる。涙は出なかった。クレーフェ家の屋敷からの帰りの馬車の中、さんざん泣いたのがよかったようだ。

 どんなに胸が痛くても、もう泣かずにいられる。そのうちきっと、胸が痛むこともなくなるはずだ。


「貴族の結婚なんて、そんなものだと割り切るべきなのはわかっています。結婚前に潔白でも、結婚後に恋人を作るかもしれない。恋愛が結婚の外側にあることなんて、貴族社会では当たり前なのかもしれない。それでも、我慢したり割り切ったりするほどには条件の良いお相手ではありませんでしたし」


 言いながら、本当に父はどういうつもりでメルヒオルとの縁組を考えたのだろうと思ってしまった。カミラのことを知らなかったとしても、別にとびきり条件の合う相手ではない。

 ミュリエルは貴族の次男以下を、向こうは兄か弟のいる令嬢と結婚するのが一番望ましかったのだ。破談になって惜しいことはない、お互いに。


「まあ、条件が合うことも大切だけれど、私はミュリエルがうんと幸せになる結婚をしてほしいと思うわ。お父様も、そう思っているはずよ」

「そうですね」


 家に戻ってきたミュリエルを、父は責めることも問い詰めることもしなかった。ただミュリエルの言い分を受け入れて、メルヒオルからの手紙を読んで納得してくれたらしい。

 それに責任を感じているようで、仕事で忙しいはずなのに、時々時間を見つけて魔術を教えてくれようとする。最初に魔術を使ってみせたときに筋が良いと褒め、ほかにも何か言いたそうにしたが、やめてただ笑っていた。だから代わりにミュリエルが、「教えてくださった方が良かったのですよ」と言っておいた。

 メルヒオルに師事させてくれたことだけは、深く父に感謝している。そして、父はメルヒオルとカミラの関係を知らなかったのだろうとミュリエルは判断した。


「クレーフェ卿に好きな方がいたということは、お父様には内緒にしてくださいね」


 焼き菓子に手を伸ばしながら、いたずらっぽく笑ってミュリエルは言う。年頃になって母と内緒話ばかりするようになったなあと思って、おかしくなったのだ。


「あら、いいの? 耳に入れたら、きっとお父様はあなたのために怒ってくださると思うけど」


 目を丸くする母に、ミュリエルは首を振った。


「真実を知っても知らなくても、クレーフェ卿とお父様の関係は続いていくでしょう? それが貴族の社会だから。それなら、きっと知らないほうがいいと思うの」

「そうね」


 少し考えてから、母も納得したように頷いた。

 生きにくい世を生きやすくするためには、嘘も秘密も多少は必要だ。悲しみを乗り越えてそのことを知ったミュリエルは、少し大人になった。


「それだけ落ち着いているのなら、社交界デビューも大丈夫そうね。ダンスの練習をしたり、新しいドレスを仕立てたり、しっかり準備をしていきましょう。そして、あなたが少しでも幸せになれるお相手を見つけなくてはね」

「はい」



 母に告白したことで、ひとつの区切りがついたミュリエルは、それからは社交界デビューに向けて力を入れることにした。

 未婚の令嬢にとって、夜会は戦場だ。そこで戦い、勝ち抜いていくには着飾ることだけではなく、ダンスや話術という技能も武器にしていかなければならない。だから、ミュリエルはせっせとステップを覚え、家庭教師を相手に世間話を学んだ。

 あまり運動神経がよくないため相手の足を踏まないこと、小生意気に思われないように相槌はほどほどに笑顔でいること、それだけを忘れなければ乗り切れるということを、そのうち言われるようになった。


「いいもの。ダンスは上達しなくても美しい姿勢を保つための筋肉が身につくし、家庭教師の先生とおしゃべりするのは楽しいし、ためになるから」


 戦闘準備中だというのに、そんなことを言ってミュリエルは気楽なものだ。

 なぜなら、ミュリエルには容姿というそこそこの武器があるし、家柄も悪くない。入り婿で伯爵家当主になれるという条件をぶら下げて、候補者が寄ってこないことは考えにくい。

 踊れることよりおしゃべりが上手なことよりミュリエルにとって大事なことは、自身が愚かではないことだ。釣書に寄ってきた者の中からきちんと条件に合う好感の持てる相手を、きちんと賢く選び取ることが肝要ということである。

 できたら美形であればいい、と考えてはいるが。


 技術スキルを身につけることを周囲に半ば諦められたミュリエルは、代わりにドレスに気合い入れることにした。

 張りきっているのは主に母なのだが、屋敷に仕立て屋を呼び、様々な生地を運び込み、色や細かな意匠まであれやこれやと相談した。

 デビューに相応しく初々しさを全面に押し出し、それでいて周囲に埋もれぬ華やかさを演出するのだと言って、母はとことんこだわり抜いていた。

 ドレス作りは何週間にも渡って続き、装うのが人並みに好きなミュリエルでも途中からは飽きるほどだった。

 おっとりした母がこれほどまでに何かに血道を上げる姿は初めて見たため、驚くような、新鮮な気分だ。

 そんな母を見ていると、ミュリエルもいくらか気が紛れた。


 ドレス作りに忙しい間、リケから手紙が来た。

 メルヒオル以外の近況と、リケとリカの母であるカミラの振る舞いに対する謝罪が書かれていた。「いろいろとごめんなさい」と書かれていたから、もしかしたら知っていることを黙っていた件についての謝罪も含まれているのかもしれない。

 それから、メルヒオルのことについても、少しだけ触れられていた。

『クレーフェ卿は弱虫です。とても弱い方で、それゆえあなたに言えなかったことがたくさんあるようです。そんな弱い彼を受け入れろとはとても言えませんが、どうか許して差し上げてください。彼ではなく、あなたのために』

 丁寧な、とても美しい文字でそう綴られている文面を読み、ミュリエルの心はほんの少しさざ波が立った。だが、それだけだ。

 そこに込められたリケなりの祈りのようなものを感じ取って、ただ静かに書かれたことを受け止めた。

 リケの手紙の追伸に、リカからは『何も心配するな。悪者は何とかやっつける』と書かれていた。彼の性格がよくわかる、荒々しく元気の良い文字を見てくすりとしたが、よくわからなかったからこれは忘れることにした。

 ふたりからの手紙の返事には、メルヒオルのことには一切触れず、元気でいることと、社交界デビューのドレスは淡い緑色にしたことなどを伝えた。

 彼らにはまた会いたいと思っているし、年の近い貴族の子息子女として、今後も交流できればと考えている。

 またリケから手紙が来たら、王城で開かれる舞踏会に参加するのか尋ねてみようと思っていたが、結局返事は来ないまま当日を迎えてしまった。


 

 襟ぐりが深く開いて大人っぽい意匠ながらも、袖や裾が薄布を幾重にも重ねてふんわりとしているため愛らしさも兼ね備えているというドレスを着たミュリエルは、扇子の下に不機嫌を押し隠して会場にいた。

 王城についてすぐは、父と母に連れられて挨拶をしていたからよかった。誰かが寄ってきたとしても、相手は父にどこそこ家の某かを名乗り、父がその相手にミュリエルを紹介してくれるから、そのあとに淑女らしい笑みを浮かべて淑女らしい礼をすればいい。女性に声をかけられれば、それと同じことを母がしてくれた。

 デビューの日は言ってみればお披露目のようなもので、顔と存在を知ってもらうのが目的だ。だから、積極的に誰かとおしゃべりをする必要はないらしい。

 ダンスも、父が見繕ってくれた相手何人かと踊れば、今日のミュリエルの任務は果たされたようなもののはずだった。


「まあ、そうなのですか」


 ミュリエルは本日何度目かになる、超絶適当な相槌を打った。ちらと横を見るが、母は少し離れたところで知り合いとのおしゃべりに夢中で、ミュリエルの視線には気づかない。

 ミュリエルに今話しかけているのは、子爵家の三男を名乗る男性だ。どうも魔術学校の卒業生とかで、少しだけ父の知り合いらしい。父が一緒のときに挨拶は済ませたのだが、父が顔見知りの誰かに呼ばれた隙に戻ってきて、それ以降ミュリエルの隣にベタ付きなのだ。

 どうも、ミュリエルの最初のダンスの相手を狙っているらしい。

 夜会において、一番最初に踊る相手はそれなりに重要な意味を持つ。特にデビューの日は。だから普通なら父母が選んだ信頼できる相手と踊るものなのだが、おそらくこの男性はこうして隙をついて近づき、音楽が始まるまでミュリエルのそばを離れないつもりなのだろう。そして、なし崩し的に踊る気だ。

(もーお母様ー! おっとりしすぎよ! 早くこの男性むしを追い払ってー!)

 心の中で必死に助けを求めるが、母は気づいてくれない。その間も、男性は楽しそうに自慢話を続ける。

 この男性は、ミュリエルが魔術師として名高いリトヴィッツ伯爵の娘でありながら非魔術師だと思っているらしく、いかに魔術学校が素晴らしいところで楽しいかを語ってくるのだ。それに頻繁に上から目線と自慢が加わる。

 自分の血とリトヴィッツ家の血が混ざれば生まれてくる子供が魔術の素質に困ることはないだろうとまで言われ、ミュリエルは怖気おぞけ立つ思いだった。

(別にわたくし、魔術の素質に困ったりなんてしてませんー! その証拠に今すぐその前髪、燃やしてやりましょうか!? 何を勝手に子作りの話にまで発展しているの? あなたみたいな臭い人、無理なんですけど!)

 心の中で思う存分悪態をつきながら、どうやって目の前の男性とその悪臭をやりすごそうかとミュリエルは悩んでいた。

 家柄も顔も経歴も及第点だが、自慢好きと体臭は耐えられそうになかった。特に右から左に聞き流せばいい自慢話とは違い、体臭は容赦なく鼻に攻撃を仕掛けてくるし逃げられないから許せなかった。


「お嬢さん、大丈夫ですか?」


 もうこれ以上は無理だ、父のところへ走って逃げようかと淑女らしからぬことを考えてうつむいたとき、そう声をかけてきた人がいた。

 ミュリエルが救いを求めて視線をあげると、そこには目元を仮面で覆った紳士が立っていた。

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