第十七話 さようなら、メルヒ先生
どのくらい呆然としていただろうか。
怒りのあまり顔は熱いのに指先は冷たくなり、混乱しすぎてしばらくの間、何も見えず何も聞こえなくなっていた。
そんなミュリエルの意識を引き戻したのは、ずっとそばにひかえていたハインツの呼びかけだった。
「ミュリエル様……先ほどは、ありがとうございました」
初老の執事は、深々と頭を下げている。感謝をしているというより、申し訳なく思っているのが伝わってきた。その姿を、冷めた目でミュリエルは見つめる。
「そんなこといいわ。当然のことをしたまでだもの。それより、馬車の用意をしてちょうだい。わたくしは、自分の支度をしてくるから」
ハインツがハッと顔を上げるのがわかった。だが、それを無視して屋敷に戻るためにミュリエルは歩きだす。
本当は、今すぐ叫びだしたかった。思いきり足を踏み鳴らして地団駄を踏みたかった。
それを押し留めていたのは、人一倍高い矜持だ。それがなければきっと、恥も外聞もなく暴れ回していただろう。
実際に叫ばないまでも、心の中では大声をあげていた。
(……みんな、みんな、今日までわたくしを騙していた……! 誰も、本当のことを言わずに秘密にしていた!)
部屋に帰り、上等なドレスに着替えながら怒りに震える。頭に浮かぶのは、リケ、リカ、ハインツ、それからメルヒオルの顔だ。
メルヒオルは、夫のいる女性と道ならぬ関係にあった。その相手は、リケとリカの母親だ。
メルヒオルを追い回していた“怖いもの”とは、カミラの夫であるファルケンハイン公爵だろう。その彼の目を誤魔化す婚約者として、ミュリエルは必要とされたに違いない。
婚約者がいると言えば、言い逃れができるから。実際に結婚すれば、目くらましになるから。
そのために、頑なにメルヒオルはミュリエルと婚約破棄をしたがらなかったのだ。
すべてがわかれば、納得がいく。納得がいくと、怒りを通り越し、どっと疲れが湧いてくる。心が冷え冷えとしていることから考えると、悲しんでいるのだなとも感じる。
「母親があんなふうなら、逃げ出したくもなるわよね。でも……あの二人も知っていて、何も教えてくれなかった……」
リケとリカには、心底同情する。
自分の母親が不倫をしていて、その上自分たちに関心を示さず守ってもくれないのなら、逃げ出したくなるのも当然だろう。
そうは思うのだが、許せそうにはなかった。
自分だけが何も知らなかった、欺かれていた、という事実が、ひどくミュリエルを打ちのめしている。
「さあ……メルヒ先生――クレーフェ卿のところに、話しにいかなくては」
気を抜けば泣いてしまいそうだから、ミュリエルは気持ちを引き締めた。
泣いてはいけない。泣くだけ惨めになるだけだ。そう言い聞かせて、鏡の前に立つ。
大きな姿見に映るのは、伯爵令嬢らしい姿をしたミュリエルだ。久しぶりに、きっちりとしたドレスに身を包んでいる。
少し苦戦したが、何とかコルセットはつけられた。凝った髪型はできないが、元々緩くウェーブのかかった髪は片側に流してリボンで結ぶだけでも見栄えは悪くない。
何とか淑女として格好がついているのを確認して、気合いを入れてうなずいた。
「よし。これで、大丈夫だわ」
意を決して、ドアを開けた。メルヒオルのところに行くために。行って、話をして、終わりにするのだ。
そんなふうに思っていたから、ドアの外にメルヒオルが立っているのが見えると、驚くと同時にほっとした。
「ミュリエル……」
「ちょうどいいところにいらしたんですね、クレーフェ卿」
「……っ」
他人行儀な呼びかけに、メルヒオルが傷つくのがわかった。獣の顔が、悲しげに歪められる。
だが、呼び名が変わったくらいなんというのだ。
こうして部屋の前に来ていたということは、先ほど誰が来て、何があったのか知っているということに違いない。
白けた気持ちで、ミュリエルはメルヒオルを見た。
「カミラ様という方が、クレーフェ卿を訪ねていらっしゃったんですよ。ファルケンハイン公爵夫人が」
「……そうみたいだね」
「とても会いたがってらしたのですが、今日のところはお帰りいただきました。……そのお顔では、会いたくないだろうと思いまして」
「違う。そういうのじゃないんだ……」
ひしひしと伝わるミュリエルの静かな怒りに、メルヒオルがうろたえているのがわかる。
ここで開き直られても当然腹が立っただろうが、そうしておどおどされるのも癪にさわる。
それでも、怒りが爆発しそうになるのを、やっとのことで抑えた。
「わたくし、お話があってクレーフェ卿のところへ行こうとしていたんです。だから、ちょうどよかった」
にっこりと笑顔を作ってミュリエルは言う。
女の武器は笑顔だと、母に教えられたのを思い出したのだ。
笑顔とは、とても便利なものだからと。
本心から笑えば、相手に喜びを伝えることができるし、内心では面白くなくても笑えばそれを隠すことができる。そして、過酷な場面で笑えば、それは防御にも威嚇にもなると母は教えてくれた。
防御でも威嚇でもある笑みに、メルヒオルがたじろぐのがわかった。
「クレーフェ卿、わたくしとの婚約を、破棄してください」
一語一語はっきり区切るように、ミュリエルは発音した。それを受け止めて、メルヒオルの顔が歪む。
人は絶望したとき、こんな顔をするのかななどとミュリエルは思った。
「この場合は、破棄ではなく解消というのでしょうね。どちらかが一方的に破るわけではなくて、双方の合意で取り消すんですもの」
「ミュリエル、待ってくれ……」
「待ちません。わたくし、もう十分にあなたに協力しましたから。……真実を知らされず、欺かれた状態で」
ミュリエルが口を開くたびにメルヒオルがどんどん傷ついていくのがわかった。だが、それに構う余裕はなかった。ミュリエルにとって、今一番傷ついているのは自分自身で、その他のことはどうだってよかったのだから。
「わたくしがこの屋敷に来て半年近くが過ぎました。その間、わたくしはあなたから丁寧に魔術を教えていただきましたから、この時間についての不満はございません。ですが、これ以上は無理です」
言いながら、ミュリエルは目を伏せた。
メルヒオルと過ごした時間を思い出すと、猛烈に悲しくなったのだ。魔術を教わりながらのこの半年は、穏やかで、それでいて刺激的で、とても楽しかったから。それだけに悲しみも深い。
何事かトラブルを抱えているメルヒオルを助けるつもりで承諾した、期間限定の婚約。期限はメルヒオルが人間の姿に戻るまでという曖昧さで、最初の数ヶ月はどうなるのだろうと不安だった。
だが、魔術を教わるのが楽しくて、メルヒオルのそばが心地良くて、ようやく最近になって「まあいいか」と思えるようになってきたのだ。
「……まさか、不倫の偽装工作こための婚約とは知りませんでしたから。知らなかったから、無邪気に引き受けることができたんです。困っているあなたを助けられればと、引き換えに魔術を教えていただければそれでいいかと、思うことができたんです。でも、知ったからには、もう無理です」
「ミュリエル、違う! 違うんだ……!」
「聞きたくありません!」
弁解しようとするメルヒオルに苛立って、ミュリエルは初めて声を荒らげた。悲しそうにしているが、その顔がさらに苛つかせる。泣きたいのはこっちだと、叫びたくなる。
「何も言わないでください。聞きたくありません。……聞けば聞くだけ、惨めになりますもの。ファルケンハイン公爵夫人と会っただけで、彼女からクレーフェ卿のことを聞かされただけで、もう十分わたくしは惨めです。どうか慈悲の心がおありなら、これ以上はおっしゃらないでください」
「…………」
泣くのをこらえて必死に言うのを聞いて、メルヒオルは唇を引き結んだ。もう何も言わないと、言えないと思ったようだ。
「偽装のための婚約者が必要だとおっしゃるのでしたら、すべての事情を話した上で納得してくださる方を探してください。わたくしとの婚約解消については、父と手紙でも直接でも構いませんので話してください。それでは、今日までお世話になりました。――さようなら、メルヒ先生」
「……!」
何か言いたそうにしていたメルヒオルの横をすり抜けて、ミュリエルは廊下を歩きだした。
はしたないとわかっているが、つい足早になる。つらくて苦しくて、泣いてしまいそうだから。涙はギリギリのところでこぼれずにいるだけだ。あふれてしまう前にこの屋敷を出て行くには、早く歩くしかなかった。
「ミュリエル! 待てよミュリエル!」
階段を降り、玄関ホールへたどり着いたところで、追いかけてきたリカに呼び止められた。だが、立ち止まることも振り返ることもできない。そんなことをしたら、泣き顔を見られてしまうから。
「待ってくれよ! ごめん、うちのババアが……」
「放して……!」
止まらなくても、走って追ってきたリカのほうが早い。追いついたリカはミュリエルの腕を掴んで、振り向かせた。その直後、焦っていたリカの顔には、さらに困惑の表情が加わる。
「なあ、行かないでくれよ。俺が、あのババアをやっつけるから。だから、メルヒのこと……」
言い募ろうとして、リカは途中でやめた。ミュリエルが激しく拒否したのだ。いやいやと大きく首を振ると、涙の粒はまるで真珠のように宙に踊った。それを見て、リカはどうしていいのかわからないという顔になる。
「もう、いいの。終わりにするから」
ポロポロと涙をこぼしながらミュリエルは言う。一度堰を切ってしまうと、もう止めようがなかった。本当はずっと泣きたかったのだ。裏庭で、カミラと対峙したときからずっと。
カミラを前にして、彼女がメルヒオルの何たるかを知ったときから、激しい敗北感に苛まれていたから。
絶対に敵わない。恋敵にすらなりえない。これまで欺かれていたということ以上に、そのことにミュリエルは傷ついているのかもしれない。
「結局は許せるか許せないかという話で、わたくしが許せなかったというだけなの。……わたくしがまだ子供で、その上、自分に自身がないから……」
高慢ちきなくせに、なんて弱いのだろうと情けなくなる。何かひとつでもカミラに対して「負けない」ということができたらよかったのに。
もしくは、欺かれていても都合よく利用されているのだとしても、それでもいいと貫く強さがあればよかったのだ。
そのどちらもないミュリエルは、負けを認めて立ち去るしかできない。
「……好きにならなければよかったのに……!」
胸が苦しくてたまらなくて、ミュリエルは服の下に隠していたペンダントを握りしめた。メルヒオルが、ミュリエルのために徹夜して作ってくれたペンダントを。
恋をしたばかりに、ミュリエルは魔術の師匠まで失った。もしメルヒオルを好きになっていなかったら、カミラの存在を知っても多少腹を立てるだけで受け流すことができたに違いない。
そのことに気がついて、ミュリエルは絶望した。
「ミュリエル……!」
リカが掴んだ手をゆるめた隙に、ミュリエルは玄関の扉に向かって走り出した。
リカはもう、追ってこない。メルヒオルも、誰も。
ミュリエルも、振り返ることはなかった。