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第十五話 忍び寄る不穏な

『メルヒオル先生』


 甘えるような声で、ミュリエルが呼んでいる。

 はにかむような、初々しい笑顔を浮かべて。

 可愛いなと思って距離をつめると、彼女の口元は妖艶な笑みに変わる。いつの間にか、その唇には媚びるようなべにが差されている。

(これは、夢だな)

 様子の違うミュリエルの姿に、これが現実ではないと気がついた。


『メルヒオル先生……ねえ』


 期待するような眼差しで、ミュリエルは見上げてくる。しなを作って、誘っているのがわかる。

 本物のミュリエルが決してそんなことをしないのは理解している。彼女はまだ咲き初めの薔薇のように清らかで、妖しさよりも可憐さが魅力なのだから。それでも、目の前のミュリエルの色香には抗いがたいものがある。


「ミュリエル」


 名前を呼んで髪を撫でてみると、ミュリエルは気持ち良さそうに目を細めて頭をこすりつけてくる。


「可愛いね」


 手のひらを髪から頬へ移動させても、何の抵抗もしてこない。それどころか、うっとり微笑みかけてくる。その目は潤んで、メルヒオルだけを映している。

(これは夢だ……だから、少しくらい触れても……)

 ミュリエルの様子に欲が刺激され、メルヒオルは目の前の唇に触れた。形を確かめるように指先でなぞっただけで、ミュリエルは嬉しそうに笑みを深くした。そして、目を閉じる。


「ミュリエル…」


 期待に応えるため、メルヒオルはゆっくりとその唇に自分の唇を近づけていった。



  『メルヒオル様』


 あと少しで唇と唇が重なるというとき、ふいに彼女がメルヒオルを呼んだ。だが、すぐに違う(・・)と悟った。


『ねえ、メルヒオル様』


 細くしなやかな指先が、メルヒオルの腕を掴む。その指が妖しい動きをしているわけではないのに、ぞわぞわしたものが這い上がってくるように感じて思わず仰け反った。


『ふふ……メルヒオル様、照れてらっしゃるの?』


 目の前のミュリエルは、いつの間にか別の女性に変わっていた。

 目も眩むような美女だ。

 メルヒオルが恐れ、逃げ回っている相手。


『好きよ。メルヒオル様』

「離してください」

『ねえ、優しくして』

「いやだ……」


 目の前の女性は美しくたおやかなのに、メルヒオルはまるで捕食者を前にした小動物のようになっている。逃げなくてはと思うのに、怖くてそれができない。身体が震える。その身体に、美女はしなだれかかってくる。


『メルヒオル様……愛しいあの方によく似ているわ。大好きよ。――あの方によく似たその顔が』


 悪いとは欠片も思っていない様子で、美女はメルヒオルに微笑みかける。唇は花の蕾のようで、触れてくる指先もいっそ儚げなほどしなやかなのに、メルヒオルには牙と爪が見える。

 恐怖というよりも生物的危機感を、この女性に対して覚えてしまうのだ。


『ねえ……わたしに触れてください』

「いやだ」

『わたしを欲しがらない殿方なんておりませんわ』

「むりだ」

『一度だけで構いませんの……ね?』


 美女は背伸びをして、両腕をメルヒオルの首に回した。それから、ねっとりの耳に息を吹き込むように囁いた。


  『抱いて。――あの方と同じ顔で』



「……いやだ!」


 まだ夜も明けきらぬ部屋の中、自分の叫び声で目が覚めた。

 じっとりと汗をかいている。呼吸も荒い。まるで高熱にうなされたときのようだ。

 実際に悪夢にうなされていたわけだが。


「……最近めっきり、見なくなっていたと思っていたんだが」


 手の甲で汗を拭いながら、自嘲まじりに呟く。

 恐ろしい夢であっても、メルヒオルにはなじみのあるものだった。嫌な話だが、なじむほどに見てしまっているのだ。

 克服できたとまで言わないまでも、常に頭から離れないという状況からは脱したはずだった。

 引きこもることで外界と距離をおくことができたし、何よりここ最近は毎日楽しかったから。

 ミュリエルのおかげで。


「きっと、罰が当たったんだな」


 夢の内容を思い出して、メルヒオルは自分が嫌になった。

 年甲斐もなく若いミュリエルに心惹かれ、その恋慕の念から劣情をふくらませたゆえに見た夢だ。ミュリエルを都合よく歪め、その挙句、けがそうとしていた。邪魔が入らなければ、きっとあのまま思いを遂げていただろう。

 夢だとわかっていたから好き勝手にしていいなどと思った、己の浅ましさに嫌気が差す。ミュリエルの姿があの女性の姿に変わったのは、きっとその報いだ。

(慕ってくれるあの子に、私は何を考えてしまったんだ……)

 誘惑してくるあの女性と同じ欲望が自分の中にも渦巻いているのだと知って、自分に失望する。


「旦那様、いかがされましたか?」


 ドアが開き、執事のハインツが入ってくる。目覚めの叫び声は思ったより大きかったらしく、かれにも聞こえてしまったようだ。


「少し夢見が悪くて、うなされてしまっただけだ。だから、大丈夫」

「さようでございますか。何か、冷たい飲み物をお待ちいたします」

「……すまない」


 ハインツの登場によって、ようやく完全に現実に引き戻された。

 薄暗がりのこの部屋が現実だとわかるのに、手放しに安堵することができない。胸の中に、ざらりとしたものが残っている。

 ハインツが戻ってくるまでの間少し眠っていようと考えたが、目を閉じても眠ることができなかった。



 ***


 昼下がりの裏庭を、薬術の本を片手にミュリエルは歩いている。

 今日はメルヒオルの授業がないため、自習するしかない。

 朝食の席でハインツから、今日はメルヒオルの体調が優れないと聞かされた。だから、どうせなら彼に薬を作ってやろうと考えたのだ。


「ミュリエル、どうしたの?」

「薬草を採りに来たの。メルヒ先生に薬を作ろうと思って」


 声をかけてきたのはリカだった。お仕着せを着崩しているところを見ると、今日もきっと樹妖相手に鍛錬をしていたのだろう。懲りないなあと、ミュリエルは苦笑する。


「薬って、ノミ取りとか?」

「そんなわけないでしょ」

「でも、頭が獣だからノミとかダニに噛まれたりするんじゃないかなって」

「……じゃあ、一応作ってみる」


 リカのことだからてっきり意地悪やふざけて言っているのかと思ったが、意外なことに真面目な顔だ。そんな顔で言われると心配になって、ミュリエルはあわてて手元の本をめくる。


「今日、メルヒの授業ないんだな」

「そうなの。ハインツが言うには、あまり眠れなくて体調が優れないらしくて」


 ミュリエルの隣に腰をおろして見様見真似で草を摘んでいるリカが、ふと考え込むような表情になった。


「……そっか。たまにうなされたりとか眠れなかったりとか、そういうことがあるんだって。そういう日は大抵、部屋で落ち込んでる。夢の中で怖いもの(・・・・)に追い回されて、憂鬱な気分が抜けないらしいよ」

「怖いもの……」


 リカの口から“怖いもの”という言葉が発せられたのが、ミュリエルは気になった。もう立派な大人であるメルヒオルに怖いものがあるというのも不思議だったのだが、リカの言い方も気にかかったのだ。

 きっと、リカはその“怖いもの”について知っているのだろう。


「あの、リカ」

「ノミ取りの薬と元気になる薬でもつくって持っていってやったら? メルヒ、ミュリエルの顔を見たら、少しはマシになるかも」


 “怖いもの”について尋ねようとすると、リカはパッとミュリエルの手から本を奪った。それからパラパラとめくって、「これこれ」とあるページを指差す。


「風邪薬とか疲労回復の薬とかじゃなくて、この薬がいいと思う。じゃあな」


 言うだけ言うと再び本を押しつけて、リカはそそくさと去っていった。尋ねられたくなかったのだろうと引っかかったが、薬のことも気になった。


「これを作ればいいのね……?」


 名前からして、何だか元気になりそうな薬だった。

 使う材料が特殊だし、少しおっかないものが含まれているが、頑張ってみようとミュリエルは決めた。



 作りたい薬に必要な材料は、とある根菜、油の取れる小さな種、スパイスの一種である球根、毒蛇の内臓だった。

 最後のひとつだけどうしても庭でも森でも発見できず、ハインツに尋ねてみたが入手できなかった。だから仕方なく、入手できたものだけで試みてみた。

 少しずつ様々な薬を作る練習をしているミュリエルだったが、今回作ったものは扱い慣れない材料ばかりで、その予測外のにおいに心が折れかけた。それでも、メルヒオルに元気になってもらいたい一心で、決められた色になるまで鍋をかきまぜ続けた。

 そうして薬ができあがったのは、すっかり日の落ちた夜になってからだ。


「メルヒ先生」

「……ミュリエルかい?」

「はい」


 もしかしたら夕食にも降りてこないのではと思い部屋を訪ねると、メルヒオル自らドアを開けて迎えたくれた。

(……こういうとき、顔色がわかりにくいから獣頭は困るわ)

 弱々しくも微笑みかけてくれる彼を見て、ミュリエルはそんなことを思った。


「先生のお加減が優れないからとハインツから聞いたので、お薬を作ってきたんです。ノミ取りと、元気になる薬です」

「ありがとう」


 クスッと笑ってから、メルヒオルは渡された瓶をしげしげ眺めた。てっきり、ノミ取りの薬に対して反応があると思ったのに、眉間に皺が寄ったのはもうひとつの薬のほうだった。


「ミュリエル、これが何の薬か知ってる?」

「元気になる薬ではないんですか?」

「……まあ、言ってみればそうだが。名前は何と書いてあった?」

「精力増強剤と……」


 ミュリエルが答えると、メルヒオルは深々と溜息をついた。「ミュリエルは知らなくて当然か」とか「こんなことを教えたらリトヴィッツ卿に叱られるんじゃ……」などとブツブツ呟いている。


「あのさ、ミュリエル。精力増強剤っていうのは、その……男の人が元気になるための薬なんだ」

「男の人が?」

「そう……主に夜に、ベッドの上で必要になると言えば、わかるかな……?」

「あ……!」


 メルヒオルの説明で、ようやくミュリエルは理解したらしい。理解した途端、顔を真っ赤にする。


「わたくし、何てものを……! 庭でリカと会ったときにこれがいいんじゃないかと言われて、よく効能を読みもせずに……」

「あいつか」


 あわてるミュリエルに、メルヒオルは苦笑しただけだった。元から、ミュリエルがきちんと薬の効能を理解していたなどとは思っていない。だから、ただ困って、おかしくて笑っている。

 だが、ミュリエルのほうはすっかりしょげでしまっている。せっかくメルヒオルを元気にしようと薬を作ったのに、これでは何の役にも立てない。


「怖いものに追われる夢を見たんじゃないかとリカから聞いて、せめて薬を作りたかったんです。わたくしでは、怖いものをやっつけて差し上げることができませんから……」


 しょんぼりと言うミュリエルに、一瞬メルヒオルはハッとなった。だが、すぐに表情を引き締めてミュリエルの髪を撫でる。


「その気持ちだけで、十分だよ。……私の“怖いもの”は悪いものだから、絶対にミュリエルには近づいてほしくないんだ」

「先生……」

「じゃあ、私はそろそろ眠るよ。明日の授業は、いつも通りできるから」

「はい」


 言外に帰るよう促されているとわかって、ミュリエルは素直に引き下がるしかなかった。

 本当はもっと話したいし顔を見ていたいが、体調の悪い人に無理強いはできない。



「どうだった?」


 寂しい気持ちで夕食の席につくと、リカが面白がるように尋ねてきた。この顔は間違いなく、薬の効能を知っていたのだ。


「……恥ずかしい思いをしたわ。ひどいじゃない」

「ふたりの仲がいい感じになればいいと思ったんだよ」

「よ、余計なお世話よ……」


 リカに冷やかされ、ミュリエルはまた顔を赤くした。そんなふうに言われるとメルヒオルの顔が頭に浮かび、ドキドキして仕方なくなる。しかも、それがどうしてなのかわからない。


「あのさ、その薬なんだけど、俺がもらっていい?」


 赤くなっていると、真剣な顔でリカが言う。


「何に使うの? あの、これ……あれな薬なんだけどだよ!?」

「俺が使うんじゃない。……この薬があれば、メルヒの“怖いもの”を退治できるかもしれないんだ」

「そうなの……?」


 ふざけている様子もからかっているふうもなく、リカは真面目に言う。

 だから、ミュリエルは不思議に思いながらも瓶を手渡したのだった。

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