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第十二話 伸びゆく芽

 クレーフェ侯爵の屋敷に来てから、早三ヶ月が経とうとしていた。

 初めのうちは魔術の基礎を身につけるための授業が多かったが、最近では薬術の授業が増えている。

 メルヒオルは毛生え薬をはじめとした薬の精製をし、それを様々な店に卸していてなかなか繁盛しているようだから、その手伝いをさせられている気もしない。

 そのことを指摘するとメルヒオルは目を泳がせながら、「私が元の姿に戻るためにはどんな魔術が必要になるかわからないから、幅広く学んでくれると助かるんだけど」などと言っていた。

 彼が日々夜遅くまで研究していることを知っているから疑っているわけではないが、ミュリエルはここ最近、ふと不安になっている。

 メルヒオルはいつ元の姿に戻るのだろう――と。

 季節は春が終わり、夏がやってきた。夏が過ぎれば秋が来て、その後は冬、つまり社交界シーズンの到来だ。

 本来なら、十六歳になったミュリエルは今年の冬が社交界デビューだ。だが、それもこのままではどうなるかわからない。期間限定の、仮初の関係とはいえ婚約者がいるのだから。

 この屋敷に来たときのような、激しく婚約破棄したいという感情はない。それは、何らかのトラブルから逃げていたいというメルヒオルの事情に協力してやりたいという思いもあるし、条件通り魔術を教えてもらっているからというのもある。

 ただ、このままでいいのだろうかという不安もあるのだ。

 メルヒオルが元の姿に戻るまで、一年も二年も、あるいはそれ以上、今のままでいるのだろうか。

 そんなことをしているうちに、ミュリエルも年を取っていくのに。

 社交界における女性の結婚適齢期は驚くほど短い。ほとんどの令嬢たちが遅くとも二十歳くらいまでには相手を見つけようとする。より良い相手のところへ嫁ぐために若さというものが強力な武器になるからという理由もあるし、大切な跡取りを産むために若く体力があるほうがいいと考えられているからだ。

 優雅な社交の場である夜会は、令嬢たちにとってみれば戦場みたいからものだ。

 その戦いに遅れをとるかもしれないというこの状況が、ミュリエルとしては非常に気がかりだった。


「それにやっぱり、熱烈なラブロマンスへの憧れも捨てられないしね……」


 本にしおりを挟みながら、ミュリエルはぽつりと呟いた。読んでいたのは火に関する魔術の本で、ラブにもロマンスにも全く関係ないのだが。

 魔術を学びたいという理由のほかにミュリエルが魔術学校に行きたかったのは、同年代の異性と知り合えるからという理由もあった。共に学び、切磋琢磨し、友情を育み、やがてそれが恋に発展して……なんて憧れ(妄想)を抱いているのだ。そしてそれを、まだ捨てきれていない。

 魔術を学ぶことに関して現状に不満はないが、誰かと熱烈な恋をするということは簡単にあきらめられそうになかった。

 だから、早くきれいさっぱり婚約破棄して、まっさらな状態で社交界デビューしたいという気持ちでいる。

(メルヒ先生が嫌いとかでは、ないんだけど。ときめきのない人生なんて、絶対に嫌なだけ)

 心の中で、ついそんなふうに言い訳してしまう。それはどこかで、メルヒオルと婚約破棄したがっていることに対して罪悪感を持っているからだろう。

 メルヒオルな優れた魔術師で、尊敬できる。穏やかだし、理性的で優しい人だ。威張っていないし、声を荒らげることもない。

 声を荒らげる人間は弱虫で、そういう人は簡単に女子供に手を上げるからだめだと父が言っていた。そういった点から見ても、メルヒオルは夫にするのに問題のない人物だとは思う。

 だが、それだけなのだ。一緒にいて楽しいし、苦になることはない。その代わり、ときめきもない。

 この婚約がせめて、メルヒオルが熱烈に求めてくれたものだったらよかったのにと、思わずにはいられない。


「……早く、先生が元に戻る方法を見つけないと」


 机に積んだ目ぼしい本の山を見て、気合いを入れ直した。

 魔術によって姿形が変わるということがいまいちわかっていないため、まずはそのあたりのことを学ぶつもりだ。

 動物などに変身するのは元々、魔女や魔法使いと呼ばれる人たちの専売特許らしい。彼らと同じ方法で動物になろうとしても無理な話で、別の角度からアプローチしていった方法が魔術の中にもいくつかある。

 ただ、魔術の場合は自らが必要に応じて動物に姿を変えるのではなく、誰かを嫌がらせで動物に変えてしまう呪いの側面が強い。俗にいう、黒魔術という類のものだ。ゆえに禁術とされ、詳しいやり方について記された本も簡単には手に入らない。

 ミュリエルが読んでいるものも、そういった禁術があると書いてあるだけで、やり方までは載っていない。


「まあ、普通は自分を動物にしようだなんて思わないものね……」


 なぜよりによって獣の頭になっているのかと、考えずにはいられない。しかも、失敗してあの姿になっているというのだから、ますますわけがわからない。


「私がもし、魔術で姿を変えるなら、もう少し鼻を高くして、もう少し睫毛を長くして、顎もお人形さんみたいにツンと尖らせて、うんと美人にするんだけど……そもそも、そうやってきれいになる魔術が見当たらないのよね」


 やや童顔なのが悩みのミュリエルはどうやれば美しくなるかと考えてしまうが、魔術の世界ではあまり重要視されていないようだ。

 そういえば、若い女性向けの化粧品の煽り文句にも、“魔法の輝き”とか“魔法の香り”なんてものはあっても、“魔術の〜”というものは見たことがない。あっても購買意欲を刺激されない。どうしても、魔術には泥臭さや仄暗さがつきまとうからかもしれない。


「魔法だって魔術と同じように“呪う”という側面もあるのになあ」

「え? なになに? 誰かを呪いたいの?」


 ひとり言を言いながら難しい本とにらめっこしていると、ノックもなしにドアが開いた。興味津々に目を輝かせて、リカが部屋に入ってくる。


「もう、勝手に入ってこないでよ!」

「執事とかはノックなしで入ってもいいらしいよ」

「使用人らしいこともしないくせに」

「クッキーとお茶、持ってきたのになあ」


 意地悪な顔をして、リカは手に持っていたトレイをひょいと隠すようにした。そうやって悪い顔をしても様になるのだから、美形はすごいなあとミュリエルは感心する。


「リカは本当に、きれいな顔をしているわよね」

「大丈夫だって。ミュリエルみたいな十人並みでも、ちゃんと結婚できるよ」

「…………」

「十人並みは言いすぎたな。十人並みよりちょい上。ちょっと可愛いから安心しろ」

「……それはどうも」


 ミュリエルが頬をふくらませると、満足そうに笑ってリカはトレイを机の上にセッティングしてくれた。そしてポリポリと、勝手にクッキーをつまんでしまう。


「昼間もメルヒと勉強して、夕方もこうして自分で勉強して、疲れるだろ。何読んでんの?」

「姿を変える魔術についての本よ。少しでもメルヒ先生の役に立てればと思って。……って言っても、魔術を学び始めたばかりのわたくしには、手も足も出ないわね」

「ふーん」


 しばらく本を見つめてから、リカは視線をミュリエルに移した。その視線はするどくはないが、どこか身の内を見透かされているようで、ドキリとする。


「メルヒの事情は聞かされてるんだ?」

「大体は。元々自分の容姿が好きではなかったことと、ある人に追いかけ回されるようになって、それで姿を変えようとして失敗してしまったということまでは。……どこの誰に、なぜ追われているのかは、聞いていないけれど」


 聞くのが忍びないというのもあったし、ミュリエルの立場上、聞かないほうがいいというのもあった。

 メルヒオルを追いかけ追いつめたのは、社交界で顔を合わせる人間だろう。つまり、ミュリエルも今後は会うかもしれないし、父は顔見知りかもしれない。

 メルヒオルとその人の問題を解決してやれる確証もないのに下手に首を突っ込まないほうがいいだろう、というのがミュリエルの判断だった。それに知ってしまったら、その人物の前で平然としていられる自信がなかった。


「そっか。それで、ミュリエルはどう思ったの?」


 さりげないふうを装いつつも、探るようにリカは尋ねてくる。この問いにミュリエルが何と答えるか、気にしているように見える。


「ひどいと思ったわ。何で先生がこんなに追いつめられなくちゃいけないんだろうって。だからこそ、早く元の姿に戻してあげたいとも思うわ。誰が何と言おうと、先生にだって堂々と外を歩く権利はあるもの」


 心の中をすべて明かしたわけではないが、本音ではあった。それを聞いて、リカは何だか安心したように笑った。


「面食いのわたくしが言うのは間違ってるのかもしれないけれど、容姿だけで人間の優劣を決めて攻撃するなんて、ひどいわよね」


 メルヒオルのことを話題にしたことで憤りが蘇り、ミュリエルは少し感情的になってしまった。


「まあ、何を好いて何を嫌うかなんて人それぞれだからな。自分の容姿を気に入るかどうかもそうだ。俺の知り合いにすごい不細工がいるんだけど、信じられないことに自分のことを俺の次に美男子だと思ってるんだよ。俺のことが美形だってわかるのに、自分が不細工だってことには気づかないんだ。そのせいか自信があるし、ひねくれてないから男女どちらからも受けは悪くない」

「す、すごい話ね」

「つまりさ、世の中にはよくわかんないことがたくさんあるってこと。メルヒがいじめられるのも、その不思議でよくわかんないことだと俺は思ってるわけ」

「……そうね。納得いかなくて、理不尽なことだって思うわ」


 リカの話は言いたいことがわかりづらかったが、彼もメルヒオルのことを心配していて、彼の身に起きたことを憤っているのだということが伝わった。

 身を寄せている親戚というだけでなく、メルヒオルのことがすごく好きなのだろう。それがわかって、微笑ましく思った。


「何をニヤニヤしてんの」

「いえ……リカは、メルヒ先生のことが好きなんだなって思って」

「何だよ! 自分はどうなんだ! メルヒに早く元の姿に戻ってほしかったら、キスでもしたらいいだろ?」

「キ、キス……!?」


 からかうつもりはなかったのに反発され、しかも驚くようなことを言われてミュリエルは戸惑った。そんな反応をすれば思うつぼだとわかっているのに、頬が赤くなってしまう。


「何照れてんだよ。ほら、おとぎ話の中でもあるだろ。醜い動物にキスしたら元の姿に戻って、それが美しい王子様とかお姫様だったってやつ。あんな感じでさ、元の姿に戻るかもしれないだろ?」

「そんな……軽く言わないでよ」

「軽くじゃないよ。真剣だ。まあ、やるもやらないもミュリエルの自由だけど」


 言うだけ言って気が済んだのか、それとも飽きたのか。クッキーをまたひょいとつまむと、リカはさっさと部屋から出ていってしまった。

 残されたミュリエルは、赤くなったままの頬を持て余すしかない。


「メルヒ先生と、キスだなんて……」


 呟いてみて、さらに頬は熱を持つ。心臓も、どんどん早くなっていっていた。

 ただ想像しただけなのに、どうしてそんなにドキドキしてしまうのか、そのときのミュリエルはまだ、わかっていなかった。

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