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第十話 獣の事情

「先生と呼ばれるのが、こんなに素敵な気分になるとは思わなかった。ミュリエルにとっては不本意かもしれないけど、君のおかげで私は、いろいろなことを体験させてもらっているよ。……この姿になってからは、誰かと親しく交流できるなんて、思っていなかったからね」


 ミュリエルが淹れたハーブティーを飲みながら、メルヒオルはしみじみと言う。

 ネコ科の獣の口元はカップから液体を飲むのに適していないように見えるのに、器用にこぼさず飲んでいる。

(魔術を失敗したって言っていたけれど、どうしてこんなことになってしまったのかしら)

 ミュリエルはこの姿のメルヒオルしか知らないが、彼にも人間だった頃があるのだ。そのことを思いだして、改めて疑問に思った。


「メルヒ先生は、一体どんな魔術を失敗して、今の姿になってるのですか?」


 令嬢としてなら、聞いてはいけない質問だ。立ち入ったことを尋ねるのは淑やかではないし、行儀のいいことではない。

 だが、今のミュリエルは伯爵令嬢ではなく、メルヒオルの教え子だ。先生の気になる見た目のことを尋ねても、きっと少しくらいなら許されるだろう。


「そうだね。ミュリエルには、話しておかなくてはいけないことだ」


 思案顔でメルヒオルは言う。こうしてじっくり見てみると、獣の顔にしては表情豊かだ。とりあえず、何を考えているのかわからないということはない。


「私は元々、自分の顔が好きではなかった。多くの人も、私の顔を好奇の目が嫌悪の目でしか見なかった。その結果生じたある問題によって、顔を変えざるを得なくなって、魔術を使ったところ失敗してしまったんだ」


 ポツポツとメルヒオルは語り始めた。口調は軽いが、内容は重い。軽々しく口を挟めそうにないから、ミュリエルは黙って聞くしかない。


「“人は外見じゃない”なんてよく言われるけど、私は中身を見てもらえたことはあまりないよ。みんな、私を顔で判断するんだ。『お前の顔が好きじゃないから近くに寄らないでくれ』とはっきり言われたこともあるし、学生時代はみんながいる集まりに呼ばれないことなんてよくあった。逆に、そんなふうにみんなに疎まれているからと、利用しようと近寄ってくる人もいた。……好きでこの顔で生まれてきたわけじゃないのに」

「……ひどい」


 容姿による差別をミュリエルは受けたことがないから、メルヒオルのつらさを想像することしかできない。むしろ、そういう悩みを持つ人を傷つけていたかもしれないと気づいて、胸の中に嫌な思いが広がった。


「爵位を継ぐまでは、限られた人間関係の中でひっそりと生きていけばいいと思っていたけれど、社交界に出るようになってからはそうもいかなくてね。嫌悪や好機の目にさらされても、人前に出ることに耐えなければいけなかった。だが、人々に疎まれる顔のせいで逆に追いかけ回してくる人まで現れて……やむを得ず、魔術で顔を変えることにしたんだ。失敗して、人前に出られなくなってしまったけどね」

「……追いかけ回す人が現れなければ、その魔術を使うことはなかったということですか?」

「まあ、そうだね。いくら気に入らない顔でも、夜会などの必要な集まりに呼ばれて参加するという、最低限の義務は果たせるから。魔術を使ってまで変えようとは思わなかっただろう」


 そう言ってメルヒオルは、困ったように笑った。

 事実、彼は困っているのだろう。

 魔術の失敗によって獣の頭になってしまっては、日常生活に支障をきたす。使用人も信用できる者だけしかそばにおけないし、ちょっとした外出すらままならない。

 もし自分が同じ目にあったらどんな思いだろうかと想像すると、ミュリエルは腹が立って仕方がなかった。

 それに、メルヒオルがつらい思いをしているのが悲しかった。生まれてくるときに顔を選べるわけではないのに、見た目のせいで不当な扱いを受けるなんて、あんまりだ。


「ひどい……どうしてそんなひどいことをするんでしょう。メルヒ先生は、何も悪いことなんてしていないのに……」


 怒りと悲しみのあまり、ミュリエルの目から涙がこぼれていた。手の甲で拭っても、次から次へとあふれ出す。


「先生だけ追いやられて、閉じ込められて、きれいなものも見られないなんて……ひどい」


 爪弾きにされ追い立てられ、閉じ込められなければならない理由なんてない。そう思うと、涙はとまらなかった。


「ごめんね。ミュリエルに悲しい思いをさせたかったわけじゃないんだ。……私のために涙を流してくれてありがとう」


 メルヒオルはミュリエルの頭を撫で、もう片方の手で涙を拭ってやった。

 悲しいのは彼のほうなのに、こうして慰めさせてしまっているのが情けなくて、必死で泣き止もうとした。だが、むきになっても涙は止まらない。


「ミュリエルは優しいね」

「……優しくなんて、ありません」

「でも私は、誰かのために泣いたことなんてないよ」


 小さな子供をあやすように、ポンポンとメルヒオルはミュリエルの背中を叩く。物心ついてからそんなふうになだめられたことなどなかったため、恥ずかしさと照れくささでどう反応していいかわからなくなる。


「……きちんとお話をすれば、メルヒ先生がいい人だってわかるのに。そう思ったら、悔しいんです」

「ミュリエルがこうして知ってくれているからいいよ」

「先生も外に出たいときがあるでしょう……? それなのに、こんなのひどい」

「そうだね。街中で見せてあげたい魔術もあるからね」


 泣いているうちにわけがわからなくなって、途中からミュリエルはただの駄々っ子のようになってしまった。そんなミュリエルとは反対に、メルヒオルは笑顔になっていく。

 だが、柔らかい微笑みの奥には諦観や悲しみが隠れてあるのが見えて、ミュリエルの胸はどうしようもなく苦しくなった。


「メルヒ先生が元の姿に戻れるよう、お手伝いします。わたくし、頑張ります。だから、一緒に街中に行って魔術を見せてください」


 どうしてこんなに苦しくなるのか、どうすればメルヒオルの気持ちを楽にしてやれるのかわからなくて、それだけ言うのがやっとだった。言いたいことはほかにもあるはずなのに、うまく言葉が出てこない。

 

「……ありがとう」


 もどかしさも悔しさもすべて受け止めるように言って、メルヒオルはミュリエルを優しく撫でた。


 ***


 ミュリエルをなだめて部屋に帰してから、メルヒオルはフィリの部屋に向かった。

 本当なら、少し身体を休めたほうがいいのだろう。昨夜だけではなく、ここのところずっと寝不足なのだ。魔術に失敗して、この獣の頭になってしまってから、ずっと。

 正直言って、身体は休息を求めているが、心は浮き立つようにして落ち着かない。だからその気持ちを誰かと分かち合いたいと、小さな友のところに向かったのだ。


「メルヒ! メルヒ!」


 ドアを開ければ、その気配だけでフィリは嬉しそうにしてくれる。ふくふくとふくらんで羽を震わす姿は、この世のどんなものより可愛いとメルヒオルは思っている。


「メルヒ、どした? たのしい?」


 友の明るい雰囲気を察知したのか尋ねてくる。フィリが賢いのか、それとも自分はそんなにわかりやすかったのかと考えて、またメルヒオルは笑顔になった。


「ミュリエルが良い子で、私は幸せだなと思ったんだよ」

「ポンコツ高慢ちき?」

「そんなふうに呼んではいけないよ。教えたのはリカだな……。彼女はポンコツでも高慢ちきでもないよ。優秀だし、優しい子だ。気位が高いのは、貴族として己が果たす責務を理解しているからなのだろう」


 出会ったばかりの頃と今とを比べて、印象が変わった部分と代わらない部分を考えて、メルヒオルはしみじみとそう思った。

 魔術師として名高いリトヴィッツ卿の娘だから、魔術の才能があることは期待していた。だから、前途有望な若い女性向けを自分の都合に付き合わせてしまうことだけが心配だったのだ。リトヴィッツ卿の口ぶりでは、彼の娘は必ず父である自分の言うことを聞くからと言っていたのも気がかりだった。

 ところが、ミュリエルはメルヒオルが思っていたような女性ではなかった。

 親が決めた婚約が嫌だからと、それを破棄させるために屋敷まで乗り込んできた。獣頭を見て卒倒したものの、すぐに起き上がっていかに婚約が嫌かを訴えてきた。

 そのくせ、メルヒオルが良心につけこむように頼んでみれば、期限つきの婚約を了承してくれた。

 そして、魔術を教えてみれば飲み込みが良く、ひらめく力もあり、何より学ぶことを楽しむ心を持っていた。

 その上、人の痛みに寄り添う繊細さと優しさまで持ち合わせている。

 ミュリエルが高慢に見えてしまうのは、彼女は自分がミュリエル・リトヴィッツである自覚があるからだと、メルヒオルは今ならわかる。

 リトヴィッツ伯爵家の令嬢であり、有能な魔術師の娘であるという自覚だ。

 兄弟はおらず、血筋を守っていくのは彼女しかいない。だから、周囲に侮られるわけにはいかないのだ。侮られるくらいなら、謙虚であるより気高くあることを選んだのだろう。

 自分には決してないその高潔さが、メルヒオルはまぶしかった。


「メルヒ、メルヒ。それ、ほめすぎ」


 滔々としたメルヒオルの語りを聞かされ、フィリが呆れ気味に言う。


「いいところばっかり。ばっかり見てる」

「そうかな。……そうかもね。ミュリエルは、いいところがたくさんあるから」

「…………」


 指摘されても言い直すことはなく、メルヒオルは満たされたように笑う。優秀な教え子のことを考えると、明るく楽しい気分になるのだ。そんな友を半目で見つめてから、フィリはあくびをした。


「すきになっちゃったんだね。すきなら仕方ないね」


 歌うように節をつけながら言う。それはからかうというより、友を祝福しているようだ。


「……そう、なのかな」


 小鳥に歌われ、まるで自覚がなかったらしくうろたえている。“好き”というのは不慣れな感情で、自分の胸の内にあるといわれても、にわかにはぴんとこない。

 好きになったことがないというより、自分以外の誰かを大切に思ったことがあまりなかった。

 いつだって見た目で好悪をつけられてきたから、誰も心の中に入り込んできたことがなかった。誰かの心の中にも、興味を持ったことがなかった。

 だが、今は違う。ミュリエルがどんなことを考え、何に喜ぶのかを知りたい。楽しませたいし、笑わせたい。


「そうか……これが好きなのか」


 自分の心の動きを改めて観察して、ようやくメルヒオルは腑に落ちた。腑に落ちてしまうと、この気持ちを“好き”と呼ばないのなら、他のどこにも“好き”なんてものはない気がしてくる。


「ミュリエルのことが好きなのか……でも、彼女は獣頭なんて論外だって言っていたな」


 出会ってすぐの、駄々っ子のような主張を思い出すと、幸せな気持ちが急速にしぼんでいく。


「……何を浮かれていたんだろうね。私は彼女よりも十二歳も年上で、おまけにこんな姿なのに」


 自嘲するように呟くと、心配するようにフィリは首をかしげた。


「元の姿に戻れば、あるいは……」


 そんなふうに考えて、怖くなってやめた。

 元の姿に戻ることは、すなわちミュリエルとの期限つきの婚約の終わりを意味する。元の姿のメルヒオルを見てミュリエルが嫌だと言えば、彼女とは何の関わりもなくなってしまうのだから。

(せっかく先生と呼んでもらえたのに、あんなに慕ってくれているのに……それ以上に何を求めるというんだ)

 そう言い聞かせて、ふくらみかけた気持ちに蓋をした。

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