第一話 最悪の誕生日
「な、な……何よこれーっ!?」
あまりにも驚いて、伯爵令嬢ミュリエルは叫んでしまっていた。
おそらく、生まれて初めて腹から声を出した瞬間だと思われる。もしくは、赤ん坊のとき以来かもしれない。
とにかく、やんごとない身分のレディにあるまじき大声をミュリエルは出してしまっていた。
でも、それは無理もないことだ。
親が勝手に決めた婚約を破棄するためにその婚約者に会いに行ったら、とんでもない姿で現れたのだから。
人の頭がついているべき場所に、ネコ科の大型獣を思わせる獣の頭がついていたのだ。
自分の知らないところで勝手に婚約されていた上、その相手が野獣のごとき姿だったのだ。
これをとんでもないと言わずして、何をとんでもないと言うだろうか。
そんなひどい衝撃を受け、ミュリエルは絶叫したのち倒れてしまったのだった。
本当ならその日は、ミュリエルにとって最高の一日になるはずだった。
なぜならその日は、ミュリエルの誕生日。待ちに待った十六歳の誕生日だ。
「十六歳になったら、魔術を学ばせてあげよう」
父とのこの約束を胸に、ミュリエルは幼いときから十六歳になるのを楽しみに生きてきた。
十六歳になれば、父のように魔術学校で学ぶことができる。
魔術学校に行けば、父のように立派な魔術師になることができる。
伯爵家当主にして高名な魔術師である父に憧れ、物心ついたときからミュリエルは魔術に興味があった。
幼い我が子を楽しませるために父はよく簡単な魔術を見せていたし、母も使用人たちも魔術師としての父を尊敬していたから、ミュリエルが魔術に傾倒していくのは自然なことだった。
ただ、ミュリエルは伯爵令嬢だ。
ゆくゆくはしかるべき相手のところへ嫁ぐため、淑女としての教養も必要とされる。だから、それがきちんと身につくであろう十六歳までは、魔術学校へ入ることは保留されていたのだ。
だが、立派なレディになったあかつきには、その願いは叶えられる……はずだった。
「お父様、どういうことですか? 婚約って……」
誕生日の朝、朝食の席で父の口から聞かされた言葉に、ミュリエルは驚き傷ついた。
「どういうことって、そのままの意味だよ」
「でも、十六歳になったら魔術を学んでもいいと約束してくださったじゃありませんか!」
父の口から告げられたのは、魔術学校への入学ではなく、クレーフェ侯爵という見も知らぬ貴族との婚約だった。
「大丈夫だよ。お相手のクレーフェ侯爵は優秀な魔術師だから、彼から魔術を教わるといい」
「でも、わたくしは魔術学校に行きたかったんですけれど……」
なんてことないように言い放つ父に、落胆しながらミュリエルは言葉を返す。
制服を着て、同じ年頃の少年少女たちと切磋琢磨するのいうのも、ミュリエルの憧れだった。友と出会い、ライバルとぶつかり、友情や恋を育んでいく――そんな生活を夢見ていたから、社交界デビューをする前にいきなり婚約だなんてあんまりすぎる。
魔術学校には、ミュリエルのような貴族の子弟子女も入学してくる。だから、きちんと交流する相手を選んでいけば、貴族であり魔術師という素敵な将来の伴侶も見つけられる、ハッピーマジカルライフが送れると考えていたのだ。
「そのハッピーマジカルライフとやらを、クレーフェ侯爵とこれから送ればいいじゃないか」
だだ漏れの心の声を聞いて、父はなおもにこやかに言う。
「でも、ご学友との恋と友情というのも楽しみだったんですもの……」
「クレーフェ侯爵だって魔術学校の卒業生だ。学校がどんなものなのか、話していただいたらいいじゃないか。それに、彼は若くして“黄金の魔術師”の称号を持つ方なんだよ」
今にも泣きだしそうだったミュリエルの耳が、称号持ちと聞いてピクッと反応した。
色の名を冠する称号は、本当に実力のある者にしか与えられない。その上、金や銀といった特別な色が入っているということは、国王に認められるような大きな功績を残したということだ。
「……若いって、おいくつですか?」
「たしか、二十八歳だ」
「に、二十八歳? おじさんじゃありませんか!」
引っ込みかけた涙が戻ってきて、ついにポロポロとこぼれだした。年の近い貴族の子息との恋と友情のハッピーマジカルライフを望んでいたミュリエルにとっては、婚約者との年の差十二歳はあまりに大きい。
「せ、せめて二十五歳だったらよかったのに……」
「たかが三歳の違いじゃないか。二十五歳と二十八歳に何の変化があるというんだい」
笑顔でなだめようとする父に、ミュリエルはカッと目を見開いた。怒っている。あきらかに怒っている。
「……お父様。それでは〇歳のわたくしと三歳のわたくしに何の違いもなかったとおっしゃいますの?」
ギロリと大きな緑色の瞳で父を睨みながら、ミュリエルは問う。それまで娘の鋭い視線にたじたじだった父も、愛情が試されるその質問には食い気味に答えていた。
「そんなわけないだろう! 〇歳のミュリエルは天使と見紛う愛らしさで右に並ぶ者はいなかった! 三歳のミュリエルはたどたどしい口調であっても『おとうしゃま、だいすち』とおしゃべりできる聡明な子だった! そのときどきに違った魅力があり、同じだったことなど一瞬たりともない!」
「そうでしょうそうでしょう? それなら、わたくしの気持ちもわかってくださいますよね?」
親馬鹿加減を炸裂させた父に同意を得られたと思い、ミュリエルは涙を流しながら必死に訴える。
しかし、父としても娘に泣かれたからといって、簡単に婚約をなかったことにできるわけではない。
「でもなあ、本当に素晴らしい方なんだよ。人当たりもいいし、魔術師としてはこの上なく優秀だ。会ってみれば、きっとミュリエルも気にいると思うんだけどなあ」
泣いて怒る娘をなだめようと、父は今度は優しく言い聞かせる。それでも、長年の夢が潰えたミュリエルの気持ちが、そんな言葉でなだめられるわけがなかった。
「いやよー絶対にいやー! 二十八歳なんていやー! 婚約なんていや! わたくしは魔術学校へ行くのー! わたくしのハッピーマジカルライフー!! うう……」
いやだいやだと愚痴を並べたあとミュリエルは、ついにえぐえぐと泣きはじめた。母譲りの愛らしさも、これでは台無しだ。
「あらあら、ミュリエル。そんなに泣いてしまったら、せっかくのお誕生日がだめになってしまうわ。早くお父様と仲直りして、にっこりしましょうね?」
ミュリエルにその愛らしさを継承した母は、事情を理解していないのか、のほほんと笑っている。
母がこうしてのほほんとしているのはいつものことで、内心苛立ちながらも母相手にはミュリエルも怒ることはできなかった。
その代わり、テーブルに突っ伏して泣くことにした。
「まったくもう……。そんなにいやなら、自分でクレーフェ侯爵に会いに行って、婚約破棄してもらってきなさい」
いつまでも泣き続けるミュリエルにたまりかね、父はついにそんなことを言い出した。
もう相手にしていられない、根負けだというその態度を、ミュリエルは見逃さなかった。
「わかりました! でしたらわたくし、今すぐにお会いして婚約破棄していただきますわ! わたくしは支度しますので、お父様は鳩でも箒でも飛ばして、侯爵様にわたくしの来訪をお伝えください」
朝食にもほとんど手をつけず、ミュリエルは勢いこんで立ち上がった。
せっかく料理人たちが腕によりをかけて用意した、いつもより豪華な朝食なのに。だが、今のミュリエルにはそんなことに構っていられる余裕はない。
「お父様、無事に婚約を破棄していただけたら、魔術学校へ行っても構いませんわよね?」
朝食室を出ていく直前、くるりと振り返ってミュリエルは父に尋ねる。これはしっかりと言質を取っておかなければならないことだった。
「ああ、いいとも。好きにしなさい」
父は投げやりに答える。もう、どうだっていいという態度だ。
だから、それを聞いてほっとしたミュリエルは気がついていなかった。
疲れきって投げやりになっている父の口元に、かすかに笑みが浮かんでいることを。
父は、ミュリエルがクルーフェ侯爵に会えば必ず気にいるだろうということを、ほとんど確信しているのだ。
夢のために婚約破棄のことしか考えられなくなっていたミュリエルは、御者に頼んでできる限り馬車を飛ばして走らせた。
その甲斐あって、三時間かかる道のりをニ時間半で到着することができた。
ミュリエルがたどり着いたのは、郊外の屋敷だ。といってもカントリーハウスのような大規模なものではなく、タウンハウスを少し大きくしたくらいの規模だ。
こんなところにわざわざ新しく屋敷を建てて住んでいるのかと、そのことにミュリエルは驚いた。だが、婚約破棄するのだからどうだっていいことだ。
「旦那様は事情がございまして、誰ともお会いになられません」
父からの連絡はきちんと届いていたらしく、すんなりと屋敷の中に招かれた。だが、そこからがいけなかった。
応接室に通してくれた執事が、そんなことを言い出したのだ。
「あの……お会いしたいということは伝えていただけたのでしょうか?」
「はい。ミュリエル様のことは応接室にお通しするようにと指示されております。ゆっくりしていただくようにと。旦那様の問題が解決しましたら、面会も叶いますので」
「それは、いつになるのかしら?」
ゆったりとした執事の雰囲気に流されてはいけないと気づき、肝心なことをミュリエルは尋ねた。執事は顔色ひとつ変えず、かすかに首をかしげた。
「私にはわかりかねます。ですが、面会をご希望でしたら、お待ちいただくほかないとのことですので」
「そんな……!」
さっさと婚約破棄して、その足で魔術学院に乗り込むくらいの気持ちでいたから、ミュリエルの気は急いていた。いつになるともわからない、その事情とやらが解決するのを待つことなんてできない。
しばらく逡巡して、ミュリエルは席を立った。
「クレーフェ卿は二階にいらっしゃるのかしら? わたくし、直接お部屋にいきますわ!」
失礼を承知で、ミュリエルは応接室を飛び出した。
この際、無礼も失礼もない。婚約破棄してしまえば、関係のない赤の他人になるのだから。
そう思って、ズンズンと廊下を進み、階段をのぼり、おそらく屋敷の主人がいるであろう部屋の前までたどり着いた。貴族の屋敷の構造なんて家々でそう変わるものではないだろうと、自分の父の部屋と同じような位置に当たりをつけたのだ。
「そちらは書斎です。旦那様は、こちらにおりますよ」
止めるかと思いきや、執事はそんなふうに案内してくれた。主人からの指示を守る気があるのかないのか、いまいちわからない態度だ。
「旦那様、ミュリエル様がお見えです。どうしても、今すぐにお会いしたいということで」
「え? 待つよう言ってくれたんじゃないのかい?」
執事の呼びかけに返ってきたのは、存外若い男の声だった。父のような低く渋い声を想像していたミュリエルは、そのことに少し驚いた。
そんなことよりも拍子抜けしたのは、聞こえてきたクレーフェ侯爵の声が、実に元気そうだったことだ。
もしも体調が優れないなどの理由で面会を先延ばしにしようとしているのではあれば、一旦は引き下がろうかとも考えていたのに。
ドア越しに聞いた声が元気そうだったということで、クレーフェ侯爵への不信感はいっそう強まった。
「はじめまして、クレーフェ卿。ミュリエル・リュトヴィッツと申します。大事なお話があって参りましたので、失礼いたします」
「え? ちょっと待って! 困る困る!」
ドアノブに手をかけると、クレーフェ侯爵の焦った声が聞こえた。焦るというのも、不誠実な感じがする。
解決しなければならない事情とやらも含めて、すべて暴いてやろうという思いでミュリエルは思いきりドアを開けた。
そして、冒頭に至るというわけだ。