約束の日2
寮から出て、少し迷いつつも力を借りる。何度か外壁を経由しつつ、屋根まで跳んだ。
今のところ…ここの周囲は静かなまま。いつもの早朝の町だ。
でも油断はできない。
ノートは何もない場所から、滲み出るように現れる。地方の村や町では、ここ数年の間に何度か出現もあったが、ここ王都では未だに無い。
以前起きた大雨の時と同じ。もしノートが現れれば、この町の人にとって初めての事態となる。
あの時の教訓を活かして、迅速な行動をとれる人が少しでも多ければいいけど…。
探索の範囲を広げる為、静かに町中を走り、いつかの塔へとたどり着く。それを上って、再び町を見回していく。
ここからも…現状異変は見当たらない。
こんな一か所から確認出来る範囲など、全体からすればたかが知れている。でも確認しないよりはマシだ。
死角だらけとはいえ、この高さならそれなりには………っ!
その時、まだ半分寝静まった町から、甲高い悲鳴が上がった。
方向を確認し、すぐさま塔から跳んだ。
騎士隊が警戒態勢に入れば、あとは任せればいい。俺が力技で防がないといけないのは、それまでの数十分…!
聞こえた声から当たりを付け、急ぎ駆けつけたのは、町の市場がある区画。
こんな…普段人の多い場所に…?
でも見えた。一画だけ、小さな騒ぎになっている。数は少ないけど、様子を見に出て来た人達だろう。
しかも……一人子供が転んだ。このままでは、引き返してくるノートに喰われる。
大人でも寝たきりになるほどだ。あんな小さな子が触れてしまったら、命に関わるかもしれない。
このまま止まらず突っ込む…!
「退いて下さい!」
事前に声を掛け、道を作る。
こちらの速度が速く、大したスペースは出来ていない。でもこれで緩めずに行ける。
そうしている間に人の隙間を抜け、俺は子供の身体を抱きかかえていた。ほぼ同時に、不気味な塊が後ろを通過していく。
間一髪、ノートに触れることなく救出に成功した。
「うぇ…ぇ…」
さっきの悲鳴を聞いて、出てきてしまったのだろうか。
近所の子なんだろう。まだ寝巻から着替えても居ない女の子が、恐怖からか、それとも安心したか、今にも泣きそうになっていた。
でも、事態は何も終わっていない。
「全員ここから離れて!」
そう言いながら、俺は抱えている女の子を預ける相手を探す。このまま一緒では動きづらい。
「翔さん…!?」
「!」
あの人、昨晩無理を聞いて貰った…ちょうどいい。俺の事を知っている人なら、預けやすい。
俺は戻ってきたノートをそのまま一度躱し、一気に店主の奥さんとの距離を詰める。
「この子、お願いします」
「あ、あいよ――」
返事を聞く事無く、俺は再び距離を空けた。近くに居ては、ノートのターゲットがそこへ向いてしまう。
人が居ない方向へ誘導する。
しかし…。
相変わらずの、“何も無い”が動き回っているような不気味な感じ。
そしてここは、立地が悪い。周りに建物が多すぎて、それを擦り抜けるノートを見失う。視線さえ切れなければ、今なら避け続けるくらい容易なはずなのに、なかなかきつい。
ここが人が集まる前の市場で良かった…。日中だったり、居住区だったりしたら、成すすべなく被害が拡大し続けただろう。
避け続ける中、周りを確認すると、しっかり距離を取り続けてくれるのがわかった。今もふらりと出て来た人を、こちらへ行かないよう誘導してくれている。
こういう時に、自分で判断できる人…。その割合が、間違いなく増えている。全員そうなる事が難しくても、こうしてそこに住む人達が、自分達で声を掛け合い、行動を始められるなら充分だ。
死んだように同じ事を繰り返していた数年前なら、こうはいかなかったかもしれない。
ここ数年、この国全体が考え、様々な発展してきたのは無駄じゃない。自分のやりたい事を求めて、工夫するようになった事も…。
これなら、目の前に集中できる。
そうは言っても、俺はノートを消滅させる事が出来る訳じゃ無い。
それを行う為の魔術具は作り続けていたし、俺も持とうと思えば持てた。でも、そもそも俺はあれを使えない。
専門家…騎士隊を待つしかない。
あの周りの様子なら、もう呼んでくれてる人も居るはずだ。あと数分で済むのだろうけど…そのたった数分でも、何が起こるかわからない。
俺はノートの動きを知っているから、単調な避ける動作を繰り返すだけで済むように誘導している。
その単調さを見て、大した事は無いと近づかれても困るし、何か出来るかもと不用意に近づかれるのはもっと困る。ノート自体が、俺を通り過ぎた後、他の人を捕捉してそっちに行ってしまうかもしれない。
この急な事態で、偶然近所に住んでいた人達に、周囲を封鎖しろと言うのはさすがに無理がある。いくつかの道ならともかく、町はここから360度広がっているし…っ。
考えてる傍から!
ノートが今までよりも行き過ぎたとは思った。その先に偶然近づいて来ていた人が居たのか、こちらへ引き返さず、あらぬ方向へ向かって行く。
すでに走り始めてはいるが…追い抜くのは難しい。そもそもこの先は壁。おそらく人はその向こうだ。無理やり突破するとしても、こちらはさらに遅れる。
人に反応するなら、こうして近づく俺に再度反応して欲しいところだが、やはり単純な動きしかしないのか、この突進が終わらない限り、軌道は変わらないみたいだ。
なら…追いついたこの瞬間、軌道を変える。誰かが吸われるより、消費は少なく済むはずだ。
借りた力を、そのまま自分の身体の外に纏う。
これ自体は何でもないはずの力。でも、ノート相手なら…。
さすがに都合よく現物で試したりは出来ていない。ぶっつけになるけどやるしかない。
弾くなら方向は?
左右は論外、その方向に別の人が居たら切りがない。
下も駄目だ。こいつを完全に見失ってしまう。何の音も出さないノートが視界から外れ、次に見えるのがゼロ距離では、さすがに避けられない。
この瞬間は、上しかない…っ。
歩法の一つを使い、俺はノートの進行方向に鋭く踏み込んだ。
俺ではおそらく、こいつの力に逆らう事は出来ない。やる事はいつもと同じ。この力に逆らう方向を避け、上向きのベクトルに乗せる!
「――ふぅぅ!」
纏った力がノートに触れる。そのまま俺は、なんとか進行方向を変える事に成功した。
でもまだここからなんだよな…。
俺は斜め上へとかち上げたノートを追う。
まずあのノートが、ちゃんと次に俺を狙ってくれるかどうか。その為にも、真下に入りに行く必要がある。
そしてそれに成功したとして、ノートが今上に居ると言う事は、次を避けた後、結局下からの突撃を躱す必要がある。なら再び弾くか? そうするとしても、また同じ事になる可能性が高いし、そう何度もあれに触れて平気なものかどうか…。
厳し…なんだ?
一本の光が見えた。
一瞬だった。まさに一閃…その光は上空でノートを貫き、後には何も残っていなかった。
その光が消えた先を、目線で追う。
少しだが、落ちていく人影のようなものが見えた。
金髪だった。おそらくカインか…いずれにしても救援と考えていいはずだ。さすが、良いところで決めてくれる。
…安心してる場合では無いな。
カインだったなら、こちらに様子を見に戻ってくる。来なくても、丸猫屋で合流すればいい。そっちには寄ってくれるはずだ。
俺は、さっき現場に居た人達のケア。
混乱が始まるにはまだ早い。場を収めておくべきだ。
足早に元の場所へと走る。すると、向こうからも何人か駆け寄って来ていた。
「翔さん無事かい!?」
「大丈夫ですよ」
「…。さっきのって……」
俺は、何でも無い気楽さを演じながら答える。
「あれが噂のノートですよ。別の村で見た事があったんですけど、ここでは初めてですねー」
ざわつきが広がって行く。
こんな事があったのだから、町に広まっていくのは時間の問題。
なら、得体のしれない何かに対する恐怖、混乱が無秩序に広がる事だけでも抑えておく。俺がどれだけ気楽そうに言ったところで、ノートが現れたと言う緊張感は、間違いなく町に広がって行く。そしてその程度の警戒心なら、広まるのは歓迎だ。
「でもほら、見て下さい」
指を指して、周りの視線を誘導した。その方向には、駆け付けた騎士隊の姿がある。
「ああして専門家が居る訳ですし、きっと今日は警戒を続けてくれます。大丈夫ですよ」
ちょうどいいタイミングで来てくれた。あとは予定通り、この現場を引き継げばいい。
「あ、それからこれ…昨日の代金です。ありがとうございました」
「あ、ああ…」
一日動き回る可能性が高いから、お金も持って出ていたんだ。このやり取りも、何でもない日常を演出出来て、過剰な不安を和らげてくれるだろう。
次は…一度丸猫屋に戻ろうか。




