俺は、この世界で2
俺は嫌な予感がした。
ここでのんびりしていたら、取り返しが付かないことになる。
「マリー、ねえマリーってば!」
「え、あ……」
「マリー、あの光は何なの? すぐに教えて!」
「あ、あれは……砦に何か、あった時に出る合図です」
「砦って、ここから一番近いって話の、砦町?」
そこに何かあったからって、この村に直接何の関係があるんだ。
ここまで皆が、何もかも諦めたようになる程の意味があるのか?
「あれが、あの時と一緒なら……」
「魔物が来るのさ」
「あ、ソウさん……」
魔物……そういうのがいると、話だけは少し聞いていたあの魔物か?
「魔物って……。もしそうなら、それが理由で皆へたり込んでるって言うなら、立ち上がって、早く逃げましょう! もう何人かは、ちゃんと荷物をまとめ始めているじゃないですか!」
「皆わかってるのさ……無駄だってね」
「お兄さん、もし本当に魔物が砦を越え、こちらに向かっていたら、私たちにはどうすることもできません。逃げたところで、そのうち追いつかれて……終わりです」
「マリーの言う通りさ。後は精々、砦の奴らが魔物に追いついて、何とかしてくれるのを祈るしかないねえ」
「そ、そんなのおかしいです! そりゃあ、この村に魔物への対抗手段が無いのは分かります。でも、今ソウさんが言ったみたいに、砦の兵士さんとかが、対処の為に頑張ってるかもしれないんでしょう? 俺たちがちゃんと逃げていれば、その分魔物に出会うのも遅れて、助かる可能性も上がります! あきらめないで、動くべきです! そうでしょうマリー!?」
「私も、自分が助かるためには、そうした方がいいって思います。でも、それじゃあ意味が無いんです。だって……村は逃げられないから」
「む、村……? いや、それはそうだよ。でも、それでも自分たちは逃げれる。まず命を守らないと、どうにもならないじゃないか! 少しでも、自分が助かる可能性を上げて、それで助かったら、その後村を立て直せばいい……」
「ニイちゃん、自分で言ってて気付いたかい? だから無駄なんだよ」
村の事に、散々首を突っ込んできた今だからこそわかる。
この村に、1からやり直す余力なんて無い。
仮に村の全員が、全力で魔物から逃げたとして、村が無くなったら、もう生きていく手立てが無い。
「もしかしたら、村も、私たちも無事で済むかもしれません。でも、魔物は人の匂いを追うんです。おそらく、この近くまで魔物が来てしまったら、村は無事では済まないでしょう。匂いは、すぐには消せません」
「でもほら、そもそも魔物がこの村に来るとは限らないじゃない? 砦には町があるんでしょう? そっちに行ってくれて、その間に兵士の人が倒してくれるかも……!」
「どんな理屈かは知らないけど、そう高をくくっていたら、魔物は実際来たんだよ。魔物も自分がやられると分かってる場所より、ここみたいな安全な狩場を狙う頭くらいあるってことかねえ」
「さっきも気になりましたけど……以前にも同じことがあったんですか?」
「ああ、あったねえ……」
ソウさんは、なぜかマリーの方へと視線を向けた。
「はい、一歩間違えば、あの日にこの村が無くなっていても、おかしくありませんでした」
「それに、仮に魔物がこの村に、向かってすらいないなら、それこそ逃げる意味が無いね。まさに無駄ってもんさ。そうだったらいいねえ」
「でも、それでも、皆さんはいいんですか! 確かに絶望的でも、村が無くなっても、町まで行けば上手く職にありつけるかもしれません! 新しくやり直せるかもしれません! その時に自分たちが生きていなきゃ、どうにもならないじゃないですか! 少しでも、ほんの少しでも生きる可能性が高くなるなら、そのために、立ち上がって――!」
俺は、思いついたことをひたすらに叫び続けた。
まだ、死ぬことが決まったわけでも、魔物が来ると決まったわけでも無いのに、諦めてしまっている皆に、それじゃだめだと伝えたかった。
せっかく少しずつ活気が出てきたこの場所を、こんな唐突で理不尽な理由で失いたくなかった。
ここへ来てから、それなりに長い間関わりを持った人たちを、放っておけなかった。
理由ならいくらでもある。だから、たとえ無駄でも、できる限りのことをしよう。
それを、勢いのままに訴えた。
今の俺の言葉なら、市場の皆とたくさん関わった今の俺なら、それが届くかもしれないと期待した。
「何……で……」
俺の言葉に応じて、立ち上がってくれる人は居なかった。
マリーですら、俺の後ろに暗い表情で立ちつくし、両手を胸の前で合わせて俯いたままだ。まるで皆、何かの糸が切れてしまったかのようだった。
「ニイちゃん、あたしたちはね……もう疲れちまったんだよ……」
なんでそんなに……。
「翔、さん……」
「えっ」
「翔さん、たす、けて……」
「アンシア……どうしたの? 話してみて」
振り向いた先には、目に涙を溜めたアンシアの姿があった。
俺とマリーはあの場を離れ、アンシアの家までついて来ていた。
「おばあちゃん、ただ、いま」
マリーは、どこか思いつめた表情のままだ。
一方アンシアの方は、先ほどの涙を引っ込めて、意志の籠った目でおばあさんの方を見つめている。
俺がアンシアに呼ばれた理由、それはおばあさんの説得を手伝って欲しいということだった。
なんとアンシアは、俺と同じように、ここから逃げようと呼びかけていたそうなのだ。
でも、おばあさんから良い返事は返ってこなかった。
それで困り果て、俺を頼ってくれたみたいだけど、さっき村の皆に同じことをして、何の成果も得られなかったばかりだ。
アンシアの頼みであればとついてきたけど、力になれるかどうか分からなかった。
「アンシア……。何度でもいうけどね、私はこの通り動けない。あんただけでも、逃げのびてちょうだい。頼れる人が、今はいるんでしょう?」
「だめ、わたし、おぶっていく、から……逃げよう? 翔さんにも、協力して、もらう、から」
いつか聞いたアンシアの家族であるおばあさん、確か体調が良くないと言っていた。まさか起き上がれないほどひどいとは思っていなかった。
でも、いくらここの人たちの身体能力が高くても、アンシアの背丈で人を背負い、さらに山道を逃げるなんて無理な話だ。
そういうことなら、俺でも力になれるかもしれない。
「あの、お邪魔してます。初めまして、上木 翔と申します。おばあさん、俺がおぶっていきますから、ここから逃げましょう」
せめてたった一人にくらい、何かをしてあげたかった。
例えみんなの説得が無理でも、頼ってくれたアンシアの願いを叶えたかった。
ほんの一人くらい……でも、それで本当にいいのか?
「あなたが、翔さんですか。話はアンシアから聞いてます。本当はゆっくり話でも、と言いたいけれど、それどころでは無いみたいね。だから、単刀直入に言うわ。私を置いて、早く逃げなさい」
「おばあ、ちゃん……!」
「そんなこと言わないでください。ほんの少しでも、生きる可能性が高くなるように、できることをやりましょう」
俺はさっき市場で叫んだのと同じことを、今度はしっかり、語りかけるように伝える。
でも、それに対して返ってきたのは、無言で首を横に振るというものだった。
なぜ、駄目なのだろうか。
確かに苦しい生活が続いて、疲れているのかもしれない。しかしここまで、皆が気力を失っているのはなぜだ。
「翔さん、あなたの声は、さっきここで聞いていました」
「あ、そうでしたか……すぐ近くですしね」
「市場の子たちはどうでしたか。私と同じで、逃げずにいる子が多いのではないかしら」
「……おっしゃる通りです。みんな疲れたと言って、もう、なるようになれといったふうで……何か理由があるんですか」
「特別な理由が有るわけじゃないわ。ただね、あの子たちは、あなたが思っている以上に、ギリギリで踏ん張っていたと言うだけなの。その理由は、きっとそこのお嬢さんもわかってるわ」
「……」
「マリーさん、お久しぶりね。もう、ずいぶん会っていない気がするけど、私のこと覚えてるかしら」
「はい、お久しぶりです……」
「マリーさん、私はここでゆっくり過ごさせて貰うようになって、もう長いわ。私ではなくて、ずっと頑張っていたあなたから、伝えた方がいいと思うのよ」
「……っ」
マリーが何かを飲み込んだような表情になる。それは、不安だろうか、それとも悲しみだろうか。
どんなものであろうと、俺は吐き出してほしかった。
「マリー……教えて。なぜみんな、できることがあるのに、諦めてしまうの?」
「……お兄さんとアンシアさんは、知らないから、耐えられるんですよ」
「知らない……?」
「お兄さんたちは、今の市場しか知らないから! 耐えられるんです! 私たちは、今よりずっと幸せだった頃を知っています! ご飯だってもっとたくさん食べられて! 市場ももっと活気があって! そういう頃を知っているんです。それが私たちにとっての普通なんです。私たちは、ずっとずっとずっと! 今を必死に頑張っていたんです……。もう、これ以上……頑張るのは、無理なんですよ……」
マリーがこれまで溜め込んでいたものを、一気に吐き出すように叫んだ。
そのまま床に座り込み、最後の方は、今の沈んだ心を表すかのように、声も沈んでいっている。
……ああ、まただ。
また俺はわかっていなかった。
俺とアンシアだけが、こうして前向きでいられる理由、それはこの貧困でつらい状況を、そういうものであると受け入れていたからだ。
でも他のみんなは違った。
ずっとこの、普通ではない辛い生活を、歯を食いしばって耐え続けていたんだ。
暮らしている環境が一緒でも、それを普通と割り切って過ごすのと、余裕のあったころと比べて、辛いものだとずっと認識しているのでは、負担がまるで違う。
ここへ来て、なお知らなかった皆の苦悩、そして我慢強さを知る。
この世界はこんなところか、これはかなり大変だと言う程度で、受け入れてしまっていた俺の苦悩とはレベルが違う。
アンシアはきっと、物心つくころにはこの環境だったんだろう。だからこうして今、俺と同じ側に立つことができている。
気がつくと、アンシアがいつの間にか、マリーの近くへと歩み寄っていた。そして、ゆっくりとマリーに寄り添う。そのままアンシアは、マリーの頭を正面から胸に抱え、ゆっくりと撫で始めた。
「マリー、さん、よし、よし……」
「え……」
マリーは困惑しているのか、アンシアにされるがままだ。
「こう、されると、安心、しませんか? わたしは、しました……」
「アンシア……さん……」
マリーが、アンシアに腕を回して、感極まったように抱きついた。
「だいじょう、ぶ。わたしも、ここにいるから」
「アンシア……」
俺はこの姿を見て、思わず涙が出そうになった。
こんなにも、こんなにも必死に生きている人の姿を、俺は初めて見た。
こんなにも優しさに溢れた人の姿を、初めて見た。
その尊い姿が、理不尽な暴力で奪われるかもしれないんだ。
……俺は、このままでいいのか?
気持ちをわかってあげられなくて、そのままなのか?
アンシアみたいに、村に何事も起こらないのを信じて、逃げるのを諦め、マリーに付き添ってあげればいいのか?
この前の事件から、何も成長しないまま……?
「そんなわけないよな……!」
「……お兄さん?」
「みんな、これから作戦会議をする」
「翔、さん?」
「だから、俺に知っていることを全部教えてほしい!」
確かに、俺はここの人たちの苦しみをわかっていなかった。これからも、完全にわかってあげることなんて、できないんだろう。
でも……。
――わかってないからこそできることも、きっとこの世にはある。




