第32話 決死の騎士
「さあ、第二ラウンドと行こうじゃねえか。何、心配してくれなくてもいい。足の5本や6本なんぞ奪われてもあんた相手にはちょうどいいハンデだぜ。」
オルガの啖呵を聞きながら、アベルも歯を食いしばりながらようやく動くようになった体を無理矢理立ち上がらせた。
止血されてはオルガの時間制限はない。
彼にはもう逃げることは許されなくなった。
二人の距離はおよそ5メートル。
その背にはそれぞれ炎上した家が彼らの退路を閉ざしたと言わんばかりに燃えている。
アベルには時間が、オルガには体力の限界が刻一刻と迫ってきている。
次にどちらかが倒れたら二度と立ち上がることはもう出来ないだろう。
今、それぞれの真後ろには今か今かと鎌を光らせた死神がその瞬間を待っているのだ。
(どこまでも常識外れなことしやがって……。だが、奴もすでに棺桶に片足を突っ込んでいる。勝負はまだ互角だ!)
アベルは剣を構える。
毎日持っていたそれは今だけはとてつもなく重く感じる。
彼の体はすでに限界を超えているのだ。
もう先ほどまでのような素晴らしい剣技を披露することは出来ないだろう。
(あと、二分……! 保ってくれよ、俺の体……! これが俺たちにとっての最後の戦いだ……!)
アベルの命の灯は残りわずか。
少し息を吹きかけただけでも消えてしまいそうなほど弱く小さなものになってしまっている。
(奴は崖っぷちにいるんだ……。一歩下がれば地獄の底まで落ちていく崖のすれすれに……。俺はそれを少し押してやるだけでいい……。追い込まれているのは奴のはずなんだ……。)
アベルの条件がオルガに劣っているということはない。
先ほどの一撃は今も着々と彼の体を脅かしている。
だが、それでもアベルの心にあの感情が膨れ上がってくる。
(なのに、なんで……。涙が出てくるんだ……。どうして……。)
それは一度は閉じ込めたはずであった恐怖という感情であった。
能力や肉体ではない。
心がここにきて壊れ始めたのだ。
実戦経験の少なさがここにきて響いてきた。
(覚悟を決めたはずだろ……! 死ぬことだって承知していたはずだ……! なのに……。)
通常、オルガを始めとする強き者たちは自らの精神を支える持論、哲学などを持ち合わせている。
それは生死を賭けた戦いの中だけで手に入る物だ。
アベルにはそれがない。
正確には先ほどまではあったが今しがた消えてしまったというべきだろう。
この瞬間まで彼の心を支え恐怖を押しとめていたのは「策がある」という事実があったからである。
弱者でも策次第で強者に勝てる、彼をこの地獄の殺し合いへ招待したクライムのその言葉が皮肉なことに彼を支えていたのだ。
しかしそれを無くした今、彼の心は急激に脆くなる。
大黒柱をなくした家が崩れるように彼すら気づかない深い意識の底から崩れ出したのだ。
(止まってくれよ、涙……。俺はまだ負けていないだろ……。頼むから敗北を認めるようなことはしないでくれ……!)
いくらそう働きかけようともとめどなく涙は溢れてくる。
心はすでに敗北を認めてしまっているのだ。
長き時と多くの戦いによって育て上げられた精神であればこの土壇場で折れることはない。
だが、その代理を『策』というもので支えていたアベルにとっては別である。
弱い心の持ち主にとって手札を無くすということはそれほどまでに恐ろしいことなのだ。
「頼むぅ……!」
感情は心の中だけではとどまり切らず外へと漏れ出してくる。
しかし、そんなことをしても止まることはない。
止められる方法はただ一つ。
代わりになるものを。
新たなる策、この窮地を突破する最後の策を心に与えてやるしかないのだ。
(策なんて……もうないに決まっているだろ……。やれることはすでに全部やったんだ……。後は斬りかかるだけだろ……。)
だが、そんな都合のいいものはもう存在しない。
時間も体力も武器も道具もない彼にできることはもう限られてしまっている。
そう、彼にできることだけは限られているのだ。
つまり、彼以外の第三者からの行動にはまだ突破口としての価値が残されている。
彼がそれに気が付いたのは偶然だった。
いや、ある意味では必然でもあったともいえるだろう。
(あれは……!)
オルガを見つめていた彼の涙まみれの目に最後の希望の光が差し込んできた。
それはまるで絶望という魔物の後ろから輝く後光のようにアベルの目から脳内に入り心を満たしていく。
(しかし、流石にあれは……。いや、もしかして……!)
その光によって絶望が解かされるように消えていき最後の策が彼に与えられた。
(想像、憶測という穴だらけもこの策……! 常時であれば誰一人として実行しようとしないこの策……! だが、今の俺には命を賭けるには十分な話だ!)
正真正銘の最後の策。
鬼を打破する決死の策。
空っぽになっていたアベルの手の中にその最後のカードが滑りこんできた。
それはアベルの命ともいえる能力が解除されるまで残り時間1分という土壇場の土壇場のことであった。
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