第25話 前に進む意思
「そうだな、じゃあお前さんの目をつぶっていること、この先の未来についてでも話そうか。」
この男に自分を止めることが出来ないのはアベルも重々承知していた。
だが、不思議なことに再び逃げ出すという気にはならなかった。
せめて話を聞いてからにしよう、そう思えたのだ。
その態度を見てかクライムの顔に笑みが戻る。
あのすべてを見下た愉快そうな笑みが。
「仮にここから無事に逃げられたとしよう。お前は山越え谷越え無事に逃げられた。さあ、どうする?」
突然の質問にアベルは狼狽えながら答えた。
「こ、公爵様の所へ行き相談を……。」
「馬鹿言っちゃいけねえ。お前さんは俺たちのことを知りすぎている。そして、信頼がない。消されちまうぜ。」
理解していたこと、気が付いていない振りをしていたことを指摘されるだけで吐き気がする。
だが、向き合わねばならない。
これはそのための試練なのだ。
「俺たちの所は駄目だ。じゃあ、どうする?」
「知り合いの貴族に匿ってもらえば……。」
「んん~、いいねえ。だが、駄目だ。エオナを殺せなかったのが痛かったな。俺と同じ指名手配になるぜ。誰もお前を守ってくれなくなる。」
心が折れない様に自分の中に用意した考えの浅はかさを理解していくたびに胸が痛くなる。
まるで押しつぶされるかのように。
「じゃ、じゃあどこか遠くに……。」
「逃げればいい。しかし、その手段はお前から安らぎというものを永遠に奪うこととなる。」
分かっていたのだ、最初から。
村から飛び出したあの瞬間からすべて。
逃げたところで先などないことは。
「二人の公爵からの追手。まず逃げられない。田舎で農家の振りをしてもゴミを漁るホームレスになったとしてもな。」
涙が止まらない。
大人が泣くことは女々しいというものもいるだろう。
だが、自分の未来に希望などないことに気が付けばこの反応も致し方がないものである。
「だが、お前は神に愛されていたとしよう。追手を華麗に切り抜けその寿命が尽きるまで生きられたとしよう。どうだ? 想像できたか?」
聞いているだけで見えてくる我が未来。
それは明かりのない地下の如く暗くおぞましいものであった。
「死ぬ直前まですべてに怯えなければならない人生。屋台の店主、隣の席に座る客、すれ違う人間一人一人にだ。耐えられるか?」
耐えられる筈がない。
人間という生き物は絶望の中では生きてはいけない。
わずかでも、か細い光の様な希望でもなければならないのだ。
だが、アベルの先の人生にはそれはない。
どこまでも続く漆黒の闇だけ。
「それに納得できるならこの道をやや左に曲がって走れ。王都への続く街道に出られる。後は好きにしろ。だが、覚えとけ。逃げるような者が辿り着く場所には幸せなんてものはない。幸福を手に入れるのはいつだって前に進む者だけだとな。」
理解した上で絶望に進む者など誰もいない。
しかし、ここに立ち止まっていてもしばらくすればオルガたちに殺される。
まさに出口のない迷路、袋小路の中にアベルはいた。
「……なんで、なんで、なんで! 俺ばっかり! 畜生!」
地面に崩れ落ち力任せに地を殴る。
こんなことをしても拳に痛みが走るだけ、けれどもこうするしかなかった。
心の底から湧き出るような絶望を外に出すには子供のように何かに当たることしかなかったのだ。
「ようやく自分の状況を理解したようだな。見たくはないものを見るのはさぞかし辛いだろう。だが、それは同時に前を向くことでもある。乗り越えろよ。まあ、俺はそんなお前の姿を見て少し楽しんでいるがな。」
クライムの趣味の悪い冗談など気にならない。
ただ叫び、泣き、心が落ち着くまでそれを続けた。
それからどれほど立ったのだろうか。
声も涙も枯れるころ、アベルの精神は落ち着きを取り戻し始めた。
落ち着けば次第に周りのことが理解できてくる。
「……俺はどうすればいい。」
「お、ようやく正気に戻ったか。もう少し待ってくれ。今、暇つぶしにやっているクロスワードパズルがいいところなんだ。」
この男がわざわざ時間をかけて話をしに来たにはなにか訳があるはずだと踏んだ。
彼はふざけた態度を取ってはいるがこれでも巨大なテロリスト集団のトップなのだから無意味に時間を浪費しに来たわけがない。
「どうすればいい。」
「んん~、しょうがないな。続きは後でやるか。さて、質問はどうすればいいかだな。」
クライムは立ち上がり人差指をピンと立てアベルに近づいてくる。
「いいか、お前は今崖の下にいるようなものだ。深く暗い崖の底にな。だから、俺が上からロープを垂らしてやる。それを掴むかどうかはお前さん次第だ。」
訪れる、希望への綱が。
はるか底の底まで落ち切ったアベルにそれは垂らされてきた。
だが、それはロープと呼ぶにはあまりにもか細く脆いものだった。
「今、村長邸を狙う砲台の内4門に俺の部下を向かわせた。俺かお前が合図を出せばすぐに撃てるように仕込んだ奴らをな。それを脅しにエオナと交渉をするのさ。」
「……交渉?」
「ああ、その内容は実にシンプルだ。お前が一対一の真剣勝負であの鬼と戦うのさ。」
それを聞いて行くうちに再びアベルの顔が青くなる。
当然だ。よほどのことは想定していた。
辻斬りになれと言われればなるぐらいの覚悟はできていた。
しかし、これでは何一つ好転してはいない。
「ふ、ふざけるな!」
「ふざけてなんかいないさ。見ている限りではエオナの連れている女冒険者もかなりの手練れだ。それも同時に相手にすることを考えれば随分いい話だと思うがな。」
「なら俺の相手をそいつにすればいい! あんたの言う話が本当なら主導権はこっちにあるはずだ! なのに何で鬼を選ぶ必要がある!」
アベルの言い分はもっともであった。
確実な勝算がありながらそれをあえて選ばない。
無能でないのなら気が狂っているとしか思えない判断である。
「お前のためだよ、アベル。こうでもしなきゃお前は殺されちまうのさ。」
へたり込んでいるアベルの目の前にしゃがみ顔を近づけてくる。
「俺が何でここにいると思う? 答えは簡単だ。お前を消しに来たのさ。」
「え……?」
「実はこの作戦はすでに放棄されている。鬼が出た瞬間にな。アレとまともにやり合うほど俺たちは馬鹿じゃない。だから、俺たちに繋がる情報をすべて消さねばならない。つまりそういうことだ。」
一度落ち着いた頭の中が再びこんがらがり始めた。
確かにクライムの言っていることは理に適っている。
彼には頭領たちのような呪いは欠けられていない。
クライムたちにとってのアキレス腱ともいえる情報を握っているのだ。
殺されるというのは当然のことであろう。
だが、それでは今までの行動との整合がとれない。
「わけが分からないって顔をしているな。まあ、続きを聞け。さっきも言ったがこれは俺の暇つぶしついでの救済処置なんだ。恐れることはない。」
まるで子供をあやすように優しく話す彼だが全くやすらがない。
「公爵はお前を切り捨てた。しかし、俺はまだお前に牙が残っていると思ったのさ。鬼の喉笛に食らいつける牙がな。」
「牙……?」
「そうさ、牙だ。それを使い鬼を殺せれればお前は晴れて俺たちの仲間入りだ。公爵の奴には……俺が説得しておこう。なに、心配することはない。あいつも鬼の首を見れば納得するさ。」
そんなことを言われても勝てる気は全くしてこない。
なにせ相手は史上最強の種族、鬼なのだから。
単独での撃破など山の中に落ちた針を探す如く困難な話である。
「無理だ……。できるはずがない……。人じゃ奴には……勝てない!」
「勝てるさ! なぜなら、人だから!」
珍しく大きな声を上げクライムは更に大きく笑う。
「確かに俺たち人間は弱い! 獣人族のような爪もなければ、蛇人族のような呪術もない! エルフのように魔法を使えなければ、鬼人族のような力もない! だから、俺たちは強い!」
感極まったかの如く両手を大きく広げ愉快そうに話し続ける。
「なぜか? 弱者だが前に進む意思があるからだ! 爪の代わりに剣を作り、呪術の代わりに能力を得た! 魔法の代わりに科学を手に入れ、そいつを使い鬼に匹敵する威力の大砲を作り上げた! そうやって俺たちは弱者でありながら今まで奴らと対等に立ち会ってきた!」
まるで指揮者のように激しく手を振り回しクライムは自慢げに声を響かせる。
そして、一度息を吸い込むといつもの声より少し小さな声になる。
「確かに奴は強い。だが、お前なら勝てるだけの能力と知恵と勇気がある。奴とて一匹の生き物。完全無敵の神じゃあない。諦めなければ必ずつけ入る隙があるはずだ。」
確実に安全な場所から無責任に飛ばされる激。
どの言葉も彼を救うために吐かれている言葉ではない。
ただ面白そうだから煽っている、彼はそんな男だ。
だが、それだからこそいい。
善人ぶった人間が自らの満足のために吐く薄っぺらい励ましの言葉に比べればはるかに心に響く。
なぜなら、慈悲や優しさなどという意味のない物が混じっていないからだ。
「後ろを向いてひたすら逃げればきっと心は楽だろう。だがな、そんな生き方は必ず後悔を生む。それがお前の望む生き方か、アベル? 違うだろ。」
正論と煽りを織り交ぜたクライムのささやきが耳元で響く。
その相手をたきつけるような野次こそが今のアベルには求められていた。
ほぼ確実に死ぬと分かっている勝負へ出られない彼にはまずは勢いこそが必要だったからだ。
「女、力、権力、地位。そのすべてを手に入れたいからここまで来たんだろう? なら、戦うしかないのさ。勝ってすべてを掴もうぜ、アベル。」
故にあえてアベルはその勢いに身を任せ何とか自分を奮い立たせようとする。
(くそ……! 分かっているんだ、俺だって……! 進まなきゃならないってことぐらい……!)
いかに細い糸であっても掴まぬ限り登ることは出来ない。
アベルはつい先ほどまでその糸に触れることすらままならなかった。
しかし、クライムの言葉にあえて乗りそれを掴むところまで進むことが出来たのだ。
(行く……! 行くんだ……! この勢いのまま……!)
だが、所詮はそこまで。
確かに掴むまでは勢いで行けるが地を離れ、全てを糸にゆだねることは出来ない。
ここから先は死神が背後に常に付きまとう、本当の恐怖が待ち受けているからだ。
偽物の覚悟では進むことなど不可能。
アベルにはこの手にした偽物を本物に変えなければならないのだ。
(でも……死にたくない。心のどこかで泥水をすすってでもいいから生きたいと思う自分がいる……。)
生にしがみつく弱い自分が決断を鈍らせる。
掴んだその先にある自らの未来を想像すると恐怖で手が震えてしまうのだ。
情けなさか、恐怖からかは分からない涙が頬を伝う。
(立ち上がらなきゃダメなんだ……! 先に進むにはそれしかないんだ……!)
頭の中では分かっている。
しかし、足が地面に吸いつけられたように動かない。
しゃがんだまま立ち上がれないのだ。
(動けよ……! 動いてくれよ、俺の足……! 分かっているだろ……! 立ち止まっていても何もないじゃないか……! 進むんだ、先へ……!)
涙を流せばそれだけ心も軽くなる。弱い自分がそれと共に出ていくように。
まるで生まれての小鹿のようではあるが剣を杖にしながらふらふらと立ち上がる。
「まだ、迷いがあるな。それじゃあ、俺からの最後のアドバイスだ。悩んで動きが取れない時は頭も心も空っぽにしな。足にすべてをゆだねるんだ。そうすれば必ず本当に進みたい方向に動いてくれるぜ。」
それだけ言うとクライムは木漏れ日のように揺らぐとその姿を消した。
うるさかった男が消えると音がなくなったように静かになった気がした。
(無責任な奴だ……。消しに来たとか言いながら俺を置いて自分が消えやがった。ならば、俺も無責任に生きてやろう……。)
少しだけ自嘲気味に頬を緩める。
ずっと表情を強張らせていたためか、顔の筋肉が急に軽くなった気がした。
アベルにはそれが自らに纏わりついていた鎖が外れたように感じられた。
「さあ行こう、プロメッサ・アベル。俺が進むべき未来へ。」
彼は静かにそう呟やき自らの足に全てをゆだねた。
この時、彼はどちらの方に歩き出してもそれに従うつもりでいた。
ただ、この場所にとどまり続ける自分が嫌だったからだ。
(ここに止まり続ければ必ず後悔するだろう……。それなら、いっそどんな道でも進んでやる、死に物狂いでな!)
自棄にも思える感情だがこれこそが本物の覚悟。
死を受け止めてもなおも前向きに生きようとする意志から生まれた真の覚悟である。
それが決まるとまるで最初からそのつもりであったかの如く、自然に足が進みだす。
「自分の中では決まっていたんだろうな、この行動は……。俺は少し言い訳をしすぎていたようだ。」
彼が向かう先は当然王都へ続く道ではない。
絶望の象徴、鬼がいる村の方である。
だが、その目には先ほどまでの弱い男の面影はどこにもなかった。
覚悟を決め、死地に赴く者の目でもない。
そこにあったのは勝者になるための強き者の目であった。
***




