墓参
2011年
「隼人」
仏壇の引き出しを開け、線香やら蝋燭やらを取り出していたら、兄貴が眠たそうな顔を仏間に突き出して訊いてきた。
8月16日の、午前10時頃である。兄貴は今日まで研究室が盆休みで、思い切り惰眠を貪っていたのだ。
「墓参りか? お盆やもんな。っていうか、お盆て今日で終わりやんな?」
「……ああ」
「随分ぎりぎりに行くんやなあ。まあ、ええけど」
行かん俺よりましか、と兄貴は自嘲気味に嗤う。
お盆やから、と兄貴は思っているが、それは違う。今日墓参りに行くのは「彼女」の命日だからだ。親父の墓も「彼女」と同じ墓地にあるもんだから、兄貴は親父の墓参りだけだと思っているに違いない。「彼女」が亡くなった2年前から、俺は道中で二人分の花を買って墓参りに行くようになった。けれども兄貴と一緒に墓に行くことはなかったから、兄貴は何も知らない。
兄貴は親父が死んでから一度も墓参りをしていなかった。
俺たちの親父は30半ばくらいで死んだ。親父が死んだ時は俺も兄貴も小さくて、あまり親父のことは覚えていなかったけれど、たまに親父について語ることがあった。
そしてある時、二人して、自分たちは長生きしないと信じていることを知ったのだ。
俺なんかはロックばかり聴いていたからだろうか、27クラブに入るんじゃないかとすら思っていた。ブライアン・ジョーンズもカート・コバーンも27歳で鬼籍に入った。永遠の27歳のクラブ――割と真剣に相談したのだが、兄貴は笑い飛ばした。お前はそんな会合に名を連ねるほどの人間ちゃうやろ、と言った。でもその後に、真面目な顔でこう言った。
「けどな、俺も親父の年を超えるんは想像つかへん」
俺はぎょっとして兄貴の顔をまじまじと見つめた。
「嘘やろ」
「え、何やねん、その反応」
「兄貴は死ねへんやろ。元不良やし。図太そうやん」
「ジミヘンも死にそうには見えへんかったと思うけど」
「それは、そうかも」
思わず同意したけれど、兄貴はそれ以上何も言わなくて、沈黙が流れた。俺はその沈黙に耐え切れなかった。だから、苦し紛れにこう言ったのだ。
「兄貴が、親父が死んだ歳の次の誕生日を迎えたら、祝ってやるわ」
「28歳になったらは?」
「兄貴はブルースにもロックにも縁ないやんか」
「ま、そうやけど」
「兄貴には長生きして稼いでもらわなな」
俺はにやりと兄貴に笑いかけた。
兄貴は医学部の学生だ。
「兄貴のすねかじりて、恥ずかしないんか、お前は」
「別に」
「俺のすねかじって、お前は気楽に売れへん映画監督か。ええなあ」
「売れへん、って何やねん。決めつけんなや」
「お前みたいな、映画好きで映画撮りたいけど、まだ一本も撮ってませんみたいな奴はな、売れるわけない。だらだらやらんと、何年でけじめつける、って言うてみい」
「兄貴にはわからんねん、映画のことなんて」
映画のことも、「彼女」のことも。
俺は中学生くらいから映画の世界にどっぷりはまっていたが、兄貴は典型的なワルだったから、放課後の遊び場が全然違っていた。兄貴は中学をサボりまくり、高校には行かなかった。
一緒に映画を観たことなんてなかった、と思う。記憶が定かではないけれど。少なくとも俺は高校時代、「彼女」とくらいしか映画館には行っていなかったはずだ。不良と言っても兄貴は、遅くまで外で遊び呆けているだけと言えばだけで、家で暴れたりするようなタイプではなかった。だから俺と兄貴と母親は、これといって不仲になることもなく暮らしていた。
そんな兄貴が不良から足を洗ったのは、やくざに刺されたかららしい。それを初めて聴いた時、俺はさすがに青くなった。兄貴はどこまで深く不良の道に踏み込んでいたのか、と。死ぬほどの怪我ではないと電話で聞かされた後に病院を訪れることになったから、兄貴に会う時は気分も落ち着いていた。あいつ、ちょっとは反省してるやろうか、ってなもんだった。
病室のドアを開けると、兄貴は難しい顔で本を読んでいた。俺は心底仰天した。心底仰天なんて、映画監督志望としてはボキャブラリーが貧困と思われるかもしれないが、そこは勘弁してほしい。本当に驚いたし、明日は大雪やな、なんていう定番の軽口すら思い浮かばなかった。兄貴が本を読んでいるところを見たのなんて、いつ以来だろう。まだ起き上がれないらしく、寝転がったままで、舐めるように読みふけっていた。ベッドサイドに近づくにつれて本のタイトルが視認できるようになる。それは生物の教科書だった。
それから兄貴は高卒認定を受けるために必死で勉強し、医学部受験なんていう高すぎるハードルにも挑んだ。今までの兄貴なら有り得ないぐらいの努力をした。一体どういう心境の変化なんだろう、と俺と母親は呆気にとられたけれど、今までの不良生活を返上して勉強に打ち込んでみれば、兄貴はかなりの秀才だったようだ。
「映画のことはわからんけど、お前、映画監督が夢なんか? それとも――」
「一本でもええねん。まあ、兄貴が言うように売れんかもしれん――それでも、撮りたい映画があるんや」
「ほお、どんなん?」
「俺が、おもろいって、本気で思える話」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日の高くなってきた頃に訪れれば、墓地はあまり怖くない。
俺は、実は結構怖がりで、ガキの頃は兄貴によく馬鹿にされていた。けれど、兄貴も親父の墓参りに未だに来られないあたり、かなり怖がりなんじゃないかと思う。
軽自動車を閑散とした駐車場に停めて、車内で一服してから親父の墓に向かった。
霊園の手桶と柄杓を借りて、水道で水を汲んだ。さっき一服したばかりなのに、また煙草がほしくなる。
山崎家之墓と記された墓石に辿り着く前に、いくつかの墓を目にする。何処の誰かも知らないけれど、墓がご近所の人々。何度も通過するから覚えてしまった並び。墓を建てた人の名前が白くなっていると、縁もないのに何だか寂しい気持ちになる。
山崎家には、月命日に欠かさず墓に足を運ぶようなまめな人間もいなくて、雨ざらしで朽ち果てた仏花がそのままになっていた。墓石に水を掛け、持参した柔らかいスポンジで丁寧にこする。そうしていると、ただただ無心になっていくだけだ。心の中で父親に話しかけよう、なんて感傷は生まれない。
花を供えて線香を上げる。いつかここに入るんか、俺は、寒そうやから嫌やな、と考えて、生きたまま入るわけでもないのに、と笑えてきた。
朝戸家之墓に足を向けると、そこからでもはっきりと人影が見えた。女性だ。朝戸家の誰かだろうか。帰ろうかとも思ったが、花を持ち帰ったら兄貴が訝しむだろうし、捨てるのも勿体無い。少し緊張しながら、近づいていく。
足音に気づいて女性がこちらに顔を向けた。
驚いた、というふうでもなく、ただ硬い表情でこちらを向いている。そのまま、俺も女性も暫く動かなかった。
「朝戸、さんですか」
沈黙に耐えかねて切り出すと、「彼女」にあまり似ていないその女性は俺の問いに答えずに、
「――ゆりかの、お友達ですか」
と問いを返した。
「友達というか、知り合いというか……映画の話を、ようさせてもろてました」
と言うと、はっとしたように俺の顔を見直す。
「ほな、もしかして映画部の」
「……では、ないんですけど。俺は同じ学校ちゃうかったから」
「そうですか。わざわざありがとうございます。毎年、来て下さってますよね」
「え」
「お花が、少し増えてるから。私ら、命日とか月命日以外も来るのでね」
折角供えられた花を捨ててしまうのは忍びなくて、俺はいつも自分の買ってきた花を足すだけだ。
「いや、わざわざってわけでもなくて」
俺は少し言い淀む。
「……親父の墓も、あるんで」
「お父さん? そう……」
ばつの悪そうな顔をされて、いつものことだけど、こっちが何だか居たたまれなくなる。
「ゆりかさんは、SF映画を撮りたかった、て言うてました」
話を変えようと思って呟くと、女性は怪訝な顔で俺を見上げた。
「……サイエンス・フィクション?」
「ええ」
「スパイとか、ギャングものばかり観ていた印象やけど」
「そうですね」
「あんなものを観てたから、おかしなことになったんやろか……きっと、違うんでしょうね」
「……わかりません」
映画のせいだかわからないというのも、勿論あった。
けれど俺には、「彼女」が監督したあの結末がわからない。おかしなことなのか、わからない。
「ありがとうございました」
「え?」
「あの子を見つけてくれて」
女性が目をしばたいた。俺は息を飲んだ。
睫毛が、長かった。
「彼女が見ていたものは、俺にもようわかりません」
それでも、朝戸は、俺に見送られた。それが朝戸にとっても、俺にとっても、きっと意味あることだった。そう思っても、いいだろうか?
「でも、彼女も、俺を見つけてくれたんです」