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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
僕の生命の理由は
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僕の生命の理由は

ここ直近では早めにお届けできました!『亡霊×少年少女』第二十三話です!!

最終章である月の都編(と名付けています)は、主にヨルムンガンドさんと鷹乃さんの存在によって年齢層が高めになりがちの内容です……。お若い読者さまにはちょっと「んん?」ってなるかな?

なるべくわかりやすくなるよう努力したいです……!

それではどうぞ!!

亡霊×少年少女 第二十三話『僕の生命の理由は』


《神を信じるか。》

その問いに、今の僕は曖昧な返事をする。

信じるか、信じないか。

そもそも存在するか、しないか。

好きか、嫌いか。

幼い僕は刷り込みのように二つ返事で『信じる』、『存在する』、『愛している』と答えていただろうが、大人になった今は、どれも曖昧な返事をする。

特に真剣で敬虔な信徒ではないことが、一番の理由だ。母が促すままに教典を読み、祈りを、供物を捧げる。母が信じているから、僕もそれに倣う。ただそれだけのこと。

それを苦には思わなかったし、むしろ生活の一部として考えていた。

神という存在は、この太陽の都では人々の生活に無くてはならないものだ。皆が神を信じ、愛している。

————汝、神を愛し、敬い、信じよ。さすれば神は、必ず汝を救おう。————

僕もあの時までは、神様の存在を信じてやまなかった。そんな時もあった。

でも結局、そんなものは弱い人が縋りつくまやかしだって、気付かされたんだ。




父と母が死んでから、一ヶ月くらいあとのこと。カグヤはたったひとりで、どこまでも広がる夜空を見上げていた。

都民による大規模クーデターが、ようやく落ち着いてきた頃だった。

カグヤは結成間もない執政部から釈放されたばかりで、監視の目があるものの、ようやっとわずかに自由が利いてきたときだった。用意された部屋を衝動的に抜け出して、城下町の外れにある小山まで歩いたのだ。

偶然北の空に目をやったら、流れ星が涙のようにゆっくりこぼれた。

流れ星は生まれて初めて見たので、「あんなに遅いものなのか」とただただ驚いた。両親が死んだ悲しみなど、跡形もなく吹き飛んでしまった。

死のうと思って子供の足で宛もなくさまよい、一心不乱にここまで来たはずなのに、その気持ちも風船のように萎んでしまった。

死ぬまでこの脚を止めないと固く決めたはずなのに、いつの間にかゆっくり帰路についていた。秋の夜風は少し冷たくて心地よく、走るように歩いて弾んだ息は、もうすっかり落ち着いていた。

あの流れ星は今でも忘れることはなく、カグヤの中に強く焼きついている。それはずっと残るもの。

神は残酷にも人を選ぶ。

父でもなく母でもなく、カグヤを選んだのはどういったご意思か。いくら考えてみても、さっぱりわからない。

だけどあの流れ星が神のお答えだというのなら、カグヤはそれに従ってみようと決めた。

与えられた運命を信じ、受け入れるわけではない。

誰のためとか、なんのためでもいい。後悔や失敗が、いくつあってもいい。

また今日みたいに、死んでしまいたいとどうしようもなく思う日もあるかもしれない。

あるいはいつか、父と母のように神に見放される時がくるかもしれない。

ただひとつだけ、叶えたい夢がある。

いまこうして生きている自分の命の理由を、いつか自分で決めてみたい。

誰にも……神様にも決めて欲しくない。自分の意味は、自分で見つけるんだ。

それが生まれたときに誰にでも与えられる、最初で永遠の宿題だから。

季節はめぐる。

黙っていても、立ち止まっていても、また秋が来る。

そのときまた、あの流れ星が頭に浮かぶんだ。




城下は今宵も、月光虫の銀光で目がくらむ。

夜は邪悪な太陽の光が遮られ、月の神聖な力が増大される貴重な時間だ。そういった理由から、月の都の生活は基本的に夜型である。

都城クリスタルパレスの地下には、儀式用の立派な広間がある。

しゃん、しゃんと、金属の規則正しい揺れる音。神に届ける鈴の音が、尊ぶべき神の色とされる朱色を基調にした広間に絶え間なく響く。蝋燭の頼りない灯りが、広間を揺らす。

革張りの太鼓の音、横笛の調べ、三線の響き。

その中央には、凄絶な美しさを誇る姫巫女が舞っていた。

舞に合わせて揺れる絹糸のような金髪、力強く確かな足の運び、しなやかな細腕の揺らぎ。すべてが完成された、荘厳な神託の舞。

これらすべての『儀式』から、すべての月の都の都民は生まれる。

そこに《愛》はない。代わりにあらゆる病気や老衰で死ぬことがない。

月の民は、生まれたときから永遠に、《愛》を知らない。それを哀れだとか、悲しいことだとか、思う瞬間もない。そういうものだと、それが当たり前のせかいなのだから。

都で唯一の姫巫女————カグヤも同じだ。魂も両親も名前さえも、この神託ですべて決められたこと。そこに《愛》は介在しない。夫婦となる相手さえも、神託によって決められる。それが当たり前のせかいなのだ。

神託の舞を終えて、汗を流すために湯浴みをしに自室へ向かおうとした、そのときだった。

「おはようございます、カグヤさま」

廊下で呼ばれて振り向くと、文官のヨルムンガンドが赤い薔薇や白い百合、かすみ草などが綺麗に混ぜられた、顔よりもだいぶ大きな、立派な花束を持ってやって来た。

「どうしたのだ、その花束は」

珍しい組み合わせに驚いて、挨拶よりも先にそう尋ねてしまった。だがヨルムンガンドはとりたてて気にしていないようで、いつもの笑顔で答えてくれた。

「お得意様からの頂き物なのですが……私はあいにく、小まめに花に水をやれない不精者ですので、どうしようか迷っていたところです。カグヤさま、いかがですか?頂き物で大変失礼ですが……」

カグヤはふむ、とおとがいに手を当てる。

花は好きだ。花言葉や詳しい手入れの方法はよくわからないが、幼い頃はもう引退してしまった庭師の老人にひっついて庭を回っていた。あの庭師が造る庭と花が、カグヤは大好きだった。

「捨てるのは、かわいそうだよな……侍女に頼んで、どこかに活けてもらおうか。妾の部屋でもいいな」

カグヤの部屋は本棚と小さな円卓、ベッド以外に調度品というものがなにもない。よく仲がいい侍女に殺風景な部屋だとさんざん言われているので、ちょうどいいだろう。

「それではカグヤさま、どうぞ」

ヨルムンガンドから花束を受け取り、匂いを嗅いだ。薔薇と百合の華やかな香りが、鼻を優しくくすぐる。

「う……うむ、ありがとう」

「どういたしまして」

突然気恥ずかしいような、胸がくすぐったくて苦しい衝動にかられた。頬も紅潮し、ヨルムンガンドとまともに顔を合わせられない。

「じゃ、じゃあな!」

その場から逃げるように立ち去って、自室に戻った。滅茶苦茶に走って乱れた呼吸をどうにか整え、まだ上下する胸を押さえる。

————おかしく思われただろうか。

あんな明らかに挙動不審な態度をとって、自分でもおかしいと思う。でもとても、あの場にはいられなくなった。

「……顔を洗おう」

おしろいと汗でぐしゃぐしゃな顔を、火照った顔を冷ます意味も込めて水につけた。洗面台に立って、顔に塗られたおしろいを、きんと冷たい水で溶いた石けんでよく落とす。

少し気分が落ち着いたので、体の汗が気になり始めた。浴場を覗くと、すでに侍女がお湯を張ってくれていたので、すぐに着替えを取りに部屋へ戻った。

ひとりで使うにしては広すぎる、専用の浴場。

カグヤは思い出したように、ぼんやりと呟いた。

「……この世界は、妾はからっぽだな」

《愛》が、こころがない世界。神様が救いの手を差し伸べてくれない、こんな世界が、カグヤは大嫌いだ。

今では両親からの愛も、自分の両親への愛さえも、信じられなくなってきていた。あの愛おしいと思う優しい日々が、すべて誰かに作られたものなのではないかとさえ疑っている。

いま、こうして平和に過ごしていることさえも……。

浴場を静かに出て、体を濡らした水分を手ぬぐいで丁寧に拭き取る。侍女があらかじめ用意してくれた着替えを緩めにはおり、すぐ隣の自分の部屋に戻った。

そこに。

「さきほどの舞は、とても素晴らしかったですよ。カグヤ」

ぱちぱち、と気の抜けた拍手でカグヤを出迎える女。窓際に置かれた、円卓とお揃いの椅子に家主の許可なく優雅に腰掛けている。

月の都では別に珍しくない、銀髪に灰色の瞳をもつ、どこか人の目を引く妙齢の女。

月の女王————なよ竹の鷹乃(たかの)だ。

女王と名乗ってはいても、彼女が都民を生み出す大事な神託に携わることはない。女王らしく執政には深く係わっているが、カグヤが生まれたときから神託だけはカグヤに任せきり。

それを不思議に思ったことは何度もあるが、今日までついぞ尋ねる隙がなかった。それでも問題なく國は回っているのだから、別にいいだろう。

それから、女王と姫巫女の関係で結ばれているが、彼女はカグヤの母親でも身内ですらない。鷹乃はカグヤの両親がクーデターで公開処刑されたすぐ後に、都民の力で再建された執政部によって、ぽっと女王に選ばれたのだ。

あれから幾ばくもの時が流れた。鷹乃がよくこうして無遠慮に交流してくるおかげで、会話はそれなりに親しくできる。聡明で優しい彼女を、年の離れた姉のように慕う気持ちも、わずかながらあるのも嘘ではない。

しかしなぜか、どこかで引っかかるものがある。

鷹乃に限ったことではない。この國に生きている、すべての人に思っていることだ。

《愛》を知らないくせに。ただの恋人選びすら、神託という人任せにするくせに。家族ごっこ、友達ごっこをしているくせに。狂ったように叫んでいる。

それは自分にも当てはまることだが。生まれてからずっとこの國で生きてきてどうしても、斜めに見てしまう癖がついたようだ。

自分を含めて、出会う人すべてに思い、考えること。すぐそばにいる『一番身近な月の民』である鷹乃を見て、ぼんやりと思う。

————この人の【ほんとう】は、いったいなんだろう。【本当の愛】って、なんなんだろう。

「どうかしましたか、カグヤ」

鷹乃の声に、カグヤは浅い思考の海から浮上した。すぐに気持ちを切り替える。

「……なんでもない。それより、なんの用だ」

よくくだらない雑談をする仲とはいえ、鷹乃がこうしてカグヤの自室にまで訪れたことは、数えるくらいしかない。なにか余程、大事な話があるのかもしれないと考え至り、話を進める。

鷹乃はくすっと上品に笑った。

「いえ、特に用事はないのだけど。あぁ、少し、個人的にききたいことはあります」

「なんだ」

カグヤは大判の手ぬぐいで、濡れた髪の水分を拭き取りながら先を促す。話題は、カグヤの予想を超えたものだった。

「貴女はある文官と、非常に親密な関係にあるらしいですね」

「ヨルムンガンドのことか。それがどうした」

いつも思うが、鷹乃の話は物言いが回りくどくて、いまいち要領を得ない。カグヤ自身もどちらかといえば言葉がうまい方ではないが、鷹乃に比べればずいぶんハッキリとしている。

したたかな鷹乃のことだから、それらは全部わざとしていることだろう。そう思わせる匂いがしてならない。

鷹乃は困ったようにまゆを八の字に下げて、わざとらしく頬に手を添える。

「いえね、彼はその、あまり女性関係がよろしくない殿方のようだから。貴女も自分の立場をよく考えた方がいいわよ」

————なるほど。

つまるところ。

素性卑しく無類の女好きと名高い、嫌らしい男との関係は、カグヤの名誉(、、)を傷つけかねないからこれ以上噂が広がる前に解消しろと、そういう話か。

月の都の姫巫女は、純潔の乙女でなければいけない。

その姫巫女が、汚らわしく嫌らしい野蛮な女という噂がたてば、お綺麗な執政部も都民たちも黙っていないだろう。

ましてや相手はあの太陽の都出身の、口にするのもはばかられるいかがわしい噂話ばかりがついて回る成り上がり文官だ。

鷹乃の言いたいことは、つまりそういう次元の話だ。

しかしカグヤは、にべもなく答える。

「心配無用。妾はなんの確証もないくだらん噂話よりも、自分の目を信じる。用事はそれだけか」

いつになく素っ気ない態度と口調のカグヤに、鷹乃は円卓にある花束から、真っ赤な薔薇を一輪手に取り、一時香りを楽しんだ。それからいつもと変わらない優しい微笑みを向ける。

「それだけよ。じゃあ、おやすみなさい、可愛いカグヤ姫」

両開きの扉が静かに閉められて、部屋に誰もいなくなったことをよく確かめてから、カグヤは豪奢な天蓋付きのベッドに、ぱたりと体を預けた。

よく干されたシミ一つない布団に顔を埋めて、横目で円卓に置いた花束を眺める。もぞもぞと居心地が悪そうに呟いた。

「奴と妾は……やはり誰が見てもそう見えるのか……」

薄々は気づいていた。侍女もよくヨルムンガンドとのことについて尋ねてくるし、このクリスタルパレスの中だけでも、よそよそしい空気が流れている。

お國柄と自身の性格、それとこの環境が相まって、カグヤは年頃の女性にしては、最近まではあまり色恋沙汰などには関心がなかった。だがヨルムンガンドがそういう経験があることは、今までのやりとりの中でなんとなく察していた。

彼がかつて生きた太陽の都では、恋人同士の男女が関係を持つ、いわゆる情事というものは当たり前のことだと、ヨルムンガンドから少しだけ聞かされていたこともある。

一方で月の都では、結婚前の情事はご法度。男女ともに、純潔であることがもっとも尊いこととされている。

そういうものをテーマに描いた書物なども、いかに学問的であろうと娯楽的であろうと執政部の検閲係が厳しく取り締まって、市場に出回る作品はオールクリーン。

情事というものは、生涯結婚も許されない姫巫女である自分とは、まるで関係のない世界だと感じていた。だがようやっとというか、カグヤは最近になって少しずつ、少女らしく男女の色恋に興味を持つようになった。

きっかけは、若い侍女が落とした小さめの書物。

それは検閲に通されず、大げさに表現すれば『闇ルート』を通ってきた、男女の恋愛小説だった。

カグヤも初めて見つけたときは「汚らわしい、こんなもの!」と毛嫌いして、元の持ち主に黙って捨ててしまおうとさえ思った。だが誰にも見られないように捨てられる機会をなかなか得られず、冷や冷やしながら一月以上もそばに置いていた。

ある日気まぐれに目を通してみると、想像より案外ちゃんとした話で……主人公の女の子がいじらしかったり、多数登場する男の子との関係がもどかしかったりで……いや、正直にすごく続きが気になる。面白い。

あっという間に虜になってしまった。

今では自分から『闇ルート』を通じて、せっせとたくさんの恋愛小説を集めて、誰にも見つからないように本棚の奥に仕舞ってある。侍女が掃除をしに部屋に入ってくると内心で冷や冷やしたものだが、今のところ誰も気づいていないようだ。

その本棚に移動して、最近で一番お気に入りの一冊を手に取る。

美しさが罪で囚われている亡国の姫君と、吸血鬼(ヴァンパイア)という血を食料に生きる種族の青年伯爵との、儚くも美しい恋愛を描いた作品だ。文章の華やかさはもちろん、挿し絵の美しさにも定評がある一冊である。

しかしそれとは別にカグヤが気に入っている、最大の理由がある。

吸血鬼の青年伯爵がとても、ヨルムンガンドに似ているのだ。

見目麗しくて女性が好きで、一見してチャラついた遊び人だけど、根は誠実で真面目。

最終的には主人公の姫と結ばれ、永遠の愛を誓うのだが、その間のふたりの駆け引きが、とても魅力的に書かれていた。

パラパラと適当に頁をめくり、一番心に残っていて、何度も繰り返し読んでいた青年伯爵の台詞を目で追う。

姫との恋を一度は諦めるが、懸命に想いを伝えてくれた彼女に心を打たれる。そして地位も名誉もかなぐり捨てて会いに行き、告白をする場面だ。

『私はもう、なにも躊躇わない。あなたへの愛を、貫こう』

————あ奴も、こんな情熱的な恋を経験するときが、あるのだろうか。

そのときを想像するだけで、カグヤの頬が次第に紅潮する。なぜか、わからない。

堪らなくなって勢いよく本を閉じて、起き上がって侍女が部屋に来ていないか見回し、またベッドに倒れ込む。本を胸に強く抱いて、深呼吸をひとつ。

ヨルムンガンドがカグヤに見せる普段の姿はおちゃらけた阿呆者だが、誠実で真面目、そして優しいことを知っている。本人は隠しているがほかの誰よりも努力家なことも、知っている。

ただれた恋愛しか経験がない、とは笑って言うが、本当は誰よりも純粋な愛を持っている(ひと)だということも……カグヤは長い付き合いの中でわかっている。

だからこそ、本当に幸せになってもらいたい。もうつらい思いをして欲しくない。

おそらくこの気持ちは、兄を思う妹の気持ち、といったところだろうと想像する。彼の正確な年齢はいまだに知らないが、たぶんそのくらいは離れている。たまに子供っぽいところがあるが、基本的にはそういう印象だ。

外にいる月光虫の光で照らされた、薄暗い天井をあおいで、ふふ、と思わず笑みをこぼした。

「きょうだいとは……こんなにくすぐったくて嬉しいものなのだな」

カグヤに本当のきょうだいはいない。だからだろう、いつも自分のきょうだいを想像する。最近は暇を見つけては小説を読んで、こんな人がきょうだいだったらよかったと想像が膨らむばかり。そのうちそれはヨルムンガンドのことにすり変わり、四六時中彼のことばかり考えてしまう。

でもそんな時間があることが、カグヤは嬉しかった。

それはヨルムンガンドが相手だから。彼だから、そう思えるんだ。きっとそうだ。

気持ちが落ち着いた頃、むく、とベッドから起き上がり本を片付けて、いつものように鈴を鳴らして侍女を呼んだ。音を聴きつけた侍女が、すぐに部屋に来た。

「お呼びでしょうか、カグヤ様」

「うむ、この花束を活けておいてくれ。とびきり綺麗にな」

侍女がてきぱきと花瓶に活けてくれた花束を見つめて、カグヤはにっこり笑った。

冷たい月の民みんなが、大嫌いだ。でもそれ以上に、運命なんかに負けて流される自分のことが大嫌いだ。

だけどヨルムンガンドのことを思い、優しくなれる自分のことが、ほんの少しだけ好きになれた気がした。




「あの子、貴方のことをなにも知らないみたいね」

クリスタルパレスの上階にある自室に、鷹乃は戻っていた。引き締まった裸身を柔らかい檜の浴槽に浸けて、白くなまめかしい脚をこれみよがしに伸ばす。肌を白い湯がなめらかに通る。

どんなに不便でも、使用人は絶対に誰も入れない。————たったひとりを除いて。

手元にあるつやつやと黒光りした徳利を盆ごと引き寄せて、揃いの猪口に酒を手酌する。こうして熱い湯に浸かり、熱い酒をちびちびと楽しむのがここ毎日の楽しみだ。こうしていると、日頃の疲れが吹き飛ぶ。

「貴方の女性の扱いが上手いからかしら……すっかり信用しているようです」

空になった猪口を盆に置いて、この場で唯一の話し相手に手を伸ばし、艷めく妖しい視線で近寄って来い、と暗に命令する。湯に濡れた熱く細い腕で、彼の頭を包み込む。あくまで優しく、妖しく囁いた。

「“プロジェクト”は今のところは予定通りよ。このままカグヤ姫をお願いね……わたくしの可愛いヨルムンガンド」

彼————ヨルムンガンドはなにも答えない。ただ鷹乃に言われるがまま、身体を預けていた。

いつもより一層、素っ気ないヨルムンガンドの顔を持ち上げる。頬を手で挟みこんで、いたずらっぽく彼の美しい碧眼に問うた。

「もしかして、情が湧いた?」

しかしヨルムンガンドが冷静かつ素っ気なく吐き捨てた。

「誰が。あんな女に」

「ふふふ、そうね。馬鹿なことを言ったわ、ごめんなさい」

鷹乃は特に悪びれた風もなく謝ってから、ヨルムンガンドの頬から手を離し、湯から上がる。大判の手ぬぐいを体に緩く巻き付け、備え付けの長椅子に腰掛けた。

「気を悪くしないでくださいね。これでもわたくしは、貴方を高く買っているつもりよ。ただ」

用意してあった、きんきんに冷たい水を注いだ湯呑みを傾ける。湯で火照った身体に、冷えた水がじんと染みる快感を楽しむ。口の端にこぼれた水を紅い舌で舐め取って、潤んだ瞳を流す。

「貴方も太陽の都の男でしょう、この國ではいろいろと大変じゃない?」

巻いていた手ぬぐいをはらりと落として、豊満な裸身を露わにする。

濡れた長く美しい銀髪が肌に貼りつくさまも、熱気に当てられてわずかに上下する白く豊かな胸も、胸から腰にかけての優美な曲線も、誰から見てもとても扇情的な光景だ。

鷹乃が手招きで合図をすると、ヨルムンガンドは無言で着物の帯を緩めた。

蝋燭の心細い灯りの中で、裸の身体と身体が重なり合う。

「楽しみましょう。夜は長いわ」

それは太陽が昇るまで続けられた、誰にも言えない汚れた秘密事。

ヨルムンガンドは鷹乃を抱きながら、美しい姫巫女のことを必死に思い出していた。

誰にも汚されない、美しく気高い月の姫巫女。カグヤ姫。彼女にだけは……

————こんなこと、知られたくない。

ましてや自分は彼女を裏切っているのだ。いや、出会いすら仕組まれたこと。

すべてを知られてしまったら、純粋な彼女が泣くことは目に見えている。それでも。

この世界を変えるために必要なことなのだと、己に強く言い聞かせる。

陽が昇ってきた頃に、ようやく解放された。紅と橙色の朝焼けが眩しい中で、ヨルムンガンドはいつもの中庭を足早に目指した。

陽の光に目を細め、カグヤが愛しているたった一本のキンモクセイを眺める。今日も華やかな香りを振りまいて、美しく佇んでいた。

かつて傷ついたキンモクセイの幹に、そっと指を這わせた。こんなにも儚く美しいのに、力強い生命の息吹を感じる。

このキンモクセイのように、一度折れてしまっても気高く強く生きたい。

でもそれは、永遠に叶わないことだから。

カグヤの温かく美しい横顔が、自然と脳裏に浮かんだ。視線に気づいてこちらを向き、少しはにかむ。その仕草が大人になった今でも、とても様になっていて可愛らしい。

彼女は永遠に、純潔の乙女。

————せめて貴女だけは……僕の夢のままでいて欲しい。

もう絶対に後戻りできないことが、こんなにまでつらいとは思わなかった。

こんなにつらく苦しい思いをしてまで、生きなくてはいけないこと?『生きること』とは、本当にそこまでする価値があるのか。

自分が生きる意味をいくら探しても、どこまで歩いても見つからない。

————僕は……生きていてもいいのだろうか。

自ら死ぬという選択肢は、太陽の都では神に背く大罪だとされていたが、ひとつの正しい選択ではないかとヨルムンガンドは思う。

誰も答えてくれない問いを抱えて、ただぬるく生きていく。

風が木々を揺らす。キンモクセイの香りが甘くどこまでも広がった。




夜の帳がおりてきた。月の都では、これからが都民が活発な時間だ。

今日は久しぶりの非番なので、さきほど城下までひとりで買い物に出てきた。市場で新しい筆や本の他に、いつもと同じ甘味屋で、カグヤがお気に入りのどら焼きを数種類と串団子を買ってきたのだ。

それからカグヤが来る前に、いつものクリスタルパレスの別塔にある中庭に上がった。

中庭はいつも通り、誰もいない。ただ塔と塔を繋ぐ木造の廊下を使用人と文官、武官がたまに忙しそうに通るくらいだ。

ここから見る城下はいつもと同じように、月光虫の銀光に煌々と照らされている。中庭といっても正確には『空中庭園』だから、ここから城下の遠くまでよく見渡せる。

ヨルムンガンドはキンモクセイの木の前で佇んで、さきほどまで自分がいた城下を見下ろしていた。クリスタルパレスを中心に、円を描くように整然と配置された建物群は、みな赤い瓦屋根と白の漆喰で統一されている。

ここは正式な文官としてクリスタルパレスに出入りするようになってから、初めて気に入った場所だ。

特に植物が好きという質ではないし、クリスタルパレスで大事な場所を作ろうと思ったわけでもない。強いて挙げるなら、ここがカグヤと会える場所だからだろうか。

毎日ここでカグヤを待つ時間が、自分の中で一番穏やかなときだった。しかし同時に、彼女に対して後ろめたくて心苦しくもある。

あの《計画》のために、自分はカグヤを欺き騙しているのだという、重い気持ちが降りてくる。今は笑顔でそばにいてくれるが、いつかはその顔が憎悪で歪み罵声をあげて、そして自分は完全に嫌われるのかと思うとやるせない。

すべて自業自得だと、もちろん承知している。それでもいつも、『もしもの未来』を考える。

もしも————あの日鷹乃と出会い、最初の間違いを犯すまえに、カグヤと出会っていたら。もっと違う気持ちで、カグヤと接していられたかもしれない。

今までたくさんの人を裏切り、貶めてきた。それこそ命の恩人でさえも、平気で切り捨ててきた。冷酷で狡猾で汚い、恩知らずの薄情者。そう評価されるのは慣れていたつもりなのに。

カグヤにだけはいい人だと思われたい、なんて。都合が良くて勝手なことだと、百も承知だ。他人からの評価など、今更どうでもいい。でも。

気がつくともう、夜も半分以上過ぎていたようだ。あんなに煌めいていたあまたの星ぼしは、徐々に姿を消している。これまで静寂を極めていた塔を繋ぐ廊下に、喧騒が戻ってきていた。

「おーい!」

声が聴こえた方を向くと、廊下の木材が途切れたところで、普段着にしてはやや華やかな着物をまとったカグヤが屈託のない笑顔で両手を振っていた。紅白の巫女服姿でないということは、どうやら今日の神託の儀式はもう終わったらしい。

ヨルムンガンドが片手を挙げて応えると、カグヤは中庭の芝生に足を踏み入れた。

————いつか……いつかあなたに打ち明けたい。

過去のあやまち、そしてカグヤへのほのかで優しい想い。

この身が抱える罪は、笑い話なんかには決してできないけれど、今より穏やかに話せるときがくるといい。そうささやかに願う。

「今日はなんのどら焼きだ?」

開口一番に、今日のどら焼きを気にするカグヤ。そのそわそわする様子が小動物を思わせ、あまりにも愛らしくて、ヨルムンガンドは思わず苦笑して答えた。

「季節限定、栗かぼちゃです」

「おおおおおうまそおおおおお!!!!!!やったーっ!妾はこのために生きてきたのだ!!」

「そんな大げさな……」

ぴょんこぴょんこと、カグヤはいまだに子供のような仕草で飛び回る。最近少し大人びたと思い始めていたというのに、こういう場面では昔から少しも変わらない。

都民のあいだでは『美しく儚い清純な姫巫女』とまことしやかに噂されていて、いわゆる高嶺の花扱いだが、実際は蓋を開けてみるとこうだ。相変わらず口は悪いし、足癖も悪いし、怒ると口より手が先に出るし、わがままでおてんばなお姫様。

でもどうしようもなく目を引き、包み込みたい笑顔。

可愛くむくれる白い頬、紅をささなくても美しい薔薇色の唇、蒼天の瞳、花の香りが漂う長い髪。

くるくる変わる万華鏡のような表情。

そして初めて出会ったあの日の涙。

ぜんぶぜんぶ、ヨルムンガンドを惹き付けてやまない、カグヤの眩しい魅力。

「おい、どうかしたのか、ヨルムンガンド。ぼーっとして」

カグヤの怪訝な声音で、ヨルムンガンドは現実に戻る。すぐに笑顔を作って対応した。

「……なんでもありません。さ、カグヤさまがお待ちかねのどら焼きを食べましょう。今日はお団子もありますよ」

「本当か!?今日はいい日だなぁ!」

そんなふたりの様子を、廊下から観察している人物がいた。『観察』というより、どちらかというと『監視』といった方が適当だろう。じっくりとふたりを睨んで、ややわざとらしいため息をひとつこぼした。

「……あの子も所詮は人の男、ということですね。予想はついていましたが」

そのまま声をかけることもなく、静かに踵を返す。

誰にも見られていないその表情はほの暗く、底意地の悪い笑みを浮かべていた。

————《ミニチュアガーデン・プロジェクト》は、必ず成功させる……どんな手を使っても。

それは妄執、悲願……とにかく強く固執した願いだ。

このためなら、どんなことをしても、誰が何人犠牲になっても構わないと、鷹乃は本気で思っている。むしろ犠牲を払ってでも叶えたいとさえ、思っている。




翌日も、ヨルムンガンドは市場でどら焼きと、さまざまな庶民向けの甘味を買い込んで中庭に行き、儀式を終えたカグヤとおしゃべりしながら味わった。

昨夜見た夢の話や、仕事中のこと、侍女とのちょっとした出来事など、日常の他愛ないことを話し終えたらどちらともなく、どこまでも広がる星空を観察する。横目でお互いを見て、目が合ったらくすりと笑う。そんな、穏やかで幸せな時間。

爽やかな風にキンモクセイの香りが混ざり、あたりに漂う。

「……このまま、ずっとこの時が続けばいいのに」

カグヤがぽそっと呟いて、ヨルムンガンドの肩にそっと頭を預ける。その呟きに、ヨルムンガンドの喉がぐっと詰まった。

このままなんて、いられるわけがない。自分はいつか、カグヤを見放すときが来るのだ。こうしてそばにいられるときは、いつまで続くかわからない。

いつ命令でカグヤを突き放すのか。最近はこの先ばかり考えて、よく眠れない。いっそのことカグヤにすべて告白してしまえばいいのかもしれないが、明かして嫌われる未来を考えると、いつまでも決心がつかない。

————今は、ただ……。

カグヤの手に、自分の手をそっと重ねる。

ただ、一日一日が惜しくて愛おしいと、感じていたい。

カグヤとのこの時間を、特別で大切に思いたい。守りたい。重ねたい。

季節がめぐり、また新しい秋が来ても。この想いは永遠だ。

「……約束、しませんか?」

「約束?」

思いのほかゆっくりとした流れ星を見て、ヨルムンガンドはぽつりと思いついて言い出した。

カグヤはきょとんとした目で、夜空を眺めるヨルムンガンドの横顔にオウムのように問い返す。

「カグヤさまは、ご自分の生命の意味がわかりますか?」

ヨルムンガンドの問いに、カグヤは小さくかぶりを振った。

「……わからん。考えたことはあるが……。お主は……わかるのか?」

カグヤのわずかな期待が込められた声に、最初に問いかけたヨルムンガンド自身も、苦い笑いを浮かべて首を横に振った。

「私にもわかりません。ずっと、ずっと考えていました。大好きだった母が死んで、代わりに生き残った私に、どんな意味があるのか……」

神様はどうして自分を選んだのか、そこにどういったご意志が込められているのか。これからどうやって生きていくのが正しい道なのか。

いくら考えても、どれだけ勉強しても、それはわからない。

どれだけ傷ついても輝くことが正しいのか、脚が折れても這いずり回ることが偉いのか。死なないことが名誉なのか。

どれも正しいようで、違う気がする。

「だから……お互いにわかるときが来たら、このキンモクセイの下で、そっと教え合いませんか?」

正解は誰にもわからない。出した答えは間違いかもしれない。

だからこれは、賭けだった。

迷路で迷うから、あなたが目的地。

「……あぁ、わかった。約束、だ」

カグヤは微笑んで、右手の小指を差し出した。ヨルムンガンドも微笑み返して、右手の小指を出した。小指と小指が絡み合い、結ばれた。

この小さな約束があるから、明日を生きようと決められる。

そう思っていたのだが。

「明日?」

いつものように鷹乃の自室にお忍びで訪れ、すでに身体を重ねたあとだった。

着物を整えていたら、ベッドで裸のまま横たわる鷹乃が突然、明日の昼間に来いと言い出した。

いつもなら人の往来が多くて誤魔化しの効く夜明け前に来いと言うので、不審に思っていると。

「少し用事があるから……悪いけれどここに来てもらえるかしら?すぐ済むわ」

「…………」

断ろうとも思った。明らかに怪しい。

だが相手が主の鷹乃であり、そうでなくとも彼女に逆らうことは危険を伴う。仕方なく了承し、この場は去った。

翌日の半日は普段と変わらない時間を過ごし、陽が昇ってきた頃になって眠気覚ましに読んでいた書物を片付けて自室を出た。

いつも通りに両開きの立派な彫り物がされている扉を無言で開けて、部屋に滑り込む。

緊張した面持ちで扉を次々に開けると、一番奥の部屋で朝日を浴びた鷹乃が待ち構えていた。朝日が後光のように見える。

「待っていたわ。わたくしの可愛いヨルムンガンド」

手招きでヨルムンガンドを引き寄せて、抱き締める。そしてヨルムンガンドの着物の帯を緩め始めた。

「……用事があるんじゃなかったのか?」

「建前よ。たまには昼間にしてみたいと思っていたの」

ヨルムンガンドのはだけた胸に顔をうずめ、猫なで声でベッドに誘う。そのままふたり揃ってベッドに倒れ込もうとしたとき。

ふいに、扉が軋む音が響いた。

鷹乃の自室に来る使用人は、ヨルムンガンド以外はひとりも許されていない。ならば誰だ。

ヨルムンガンドはベッドから慎重に降りて、扉を開けた。そこには

「……!?カグヤ……さま……?」

普段の着物姿で、青ざめたカグヤが立っていた。ひどく狼狽えていて、ヨルムンガンドと視線を合わせようとはしない。代わりに部屋の様子とヨルムンガンドの乱れた着物を交互に見て、ぼそぼそとまるで独り言のように言い訳を始めた。

「あ……あの、妾……鷹乃に、緊急の用事があるからって……呼ばれて……」

「!!」

カグヤの言葉で後ろのベッドにいる鷹乃に振り返ると、鷹乃はヨルムンガンドに向けてくすくすと意地の悪い笑みを浮かべていた。

「……アンタか……!」

その瞬間に鷹乃の意図に気づいて、ヨルムンガンドは舌打ちと一緒に強く歯ぎしりした。

鷹乃はヨルムンガンドとの関係をわざと露呈させて、カグヤの心を傷つけよう、あわよくばヨルムンガンドとの関係を破綻させようと考えて、ここにふたりを呼んだのだ。

いつもの戯れなのか、それとも《プロジェクト》の一環なのか、このときのひどく戸惑ったヨルムンガンドには判別がつかなかった。ただ感じたことは、結果的にカグヤを傷つけてしまったという後悔が押し寄せた、悲しみ。

カグヤの美しい顔が精彩を欠いていた。青くなった唇はわななき、華奢な肩は震えている。脚は今にも崩れ落ちてしまいそうだ。

恐ろしく静かな部屋。

静寂を破ったのは、カグヤだった。

「ご、ごめんなさい……!!」

堪りかねて叫んで、慌ただしく部屋を出て行った。

「カグヤさま!!」

乱れた着物を整える間も惜しく、ヨルムンガンドは駆け出したカグヤを呼んで必死に追った。

廊下をしばらく走った先で追いついて、カグヤの腕を掴んだ。首筋を汗がつたい、軽く弾んだ息のまま、顔を合わせてくれないカグヤの名を呼ぶ。

「カグヤさま……」

「妾は……なにもわかっていなかった。お主のことも、鷹乃のことも……妾自身のことも」

「カグヤさ……」

言葉になるかならないか。その瞬間に、カグヤの唇が唇に触れた。

「!?カグヤさま……?」

息が苦しい。

今まで何人もの女性を平気で抱いてきた。口付けだって、望まれればいくらでもどこにでもしてきた。

慣れているつもりでいたのに、たった一瞬触れただけで、こんなにも身体が熱くなる口付けは、生まれて初めてだ。

カグヤの美しい顔は、息がかかるほどに近い。青天のような蒼く大きな瞳には、大粒の涙が溜まって、次々とこぼれ落ちる。

ヨルムンガンドの腕を掴んで、カグヤはほとんど叫んでいた。

「妾は……っヨルムンガンドのこと……っ!」

「カグヤさま……その先は……」

————言わないでください。

言われてしまったら、もう自分を止められない。

痛いくらいにわかってしまった、カグヤのこころ。

さらって、奪って、めちゃくちゃにしてしまいたい。

そんな初めての衝動が、ヨルムンガンドを突き動かそうとしている。しかし。

それは突然だった。規則正しい足音が、中庭に近づいてくる。がしゃがしゃとうるさい足音の主たちは、重い鎧をまとった武官たちだった。

あっという間にカグヤとヨルムンガンドを囲う。

「何事だ!」

とカグヤが着物の袖で涙を拭って、毅然と鋭く叫ぶやいなや、屈強な武官たちはヨルムンガンドを軽々と拘束した。

ヨルムンガンドを後ろ手に締め上げると、このクリスタルパレス内では武功以外で有名な武官のギュルヴィが、部下に拘束させたヨルムンガンドを見下ろす。ギュルヴィはヨルムンガンドと同期だが、コネでのし上がり上層部で可愛がられているヨルムンガンドをよく思っていない、その筆頭だ。ヨルムンガンドも、金と地位に弱いギュルヴィを嫌っていて、ふたりはクリスタルパレス内でも犬猿の仲で有名だ。

ギュルヴィが下品な笑みを浮かべ、ヨルムンガンドとカグヤを交互に見て頷く。

「これはこれは……なるほど、その類まれなる美貌と身体で姫殿下を誑しこんだということか、第三位文官ヨルムンガンド殿」

武官数名に組み敷かれたヨルムンガンドは、両腕を絞められる痛みに耐えて、ギュルヴィにあくまで不敵な笑みを浮かべる。

「……どういう意味ですかね、都軍中尉ギュルヴィ殿?」

ギュルヴィはヨルムンガンドの頬を、鎧を着た手で遠慮なく張って、吐き捨てた。

「しらばっくれるな、卑しい蛮族の元皇子ふぜいが!!!」

ギュルヴィの合図とともに、ひとりの武官が群れから飛び出して一枚の書簡を懐から取り出し、高々と読み上げた。

「第三位文官ヨルムンガンド、貴様を『王族に対する不貞行為』で逮捕する」

周囲に集まっていた侍女たちが一気にざわめいた。

月の都では、王族への不貞行為はもっとも重い罪として知られている。特に先のクーデター以降、『純潔の乙女』であるべき姫巫女は厳重に守られていて、死罪以上の苦しい罰を与えられると言われているのだが……。

さらにギュルヴィが嫌な笑みを向け、べたついた声で下品に、決定的な事実を尋ねる。

「カグヤ様をモノにしようとしていたのだろう、成り上がり文官殿?あと一歩ってところか?悪かったなぁ邪魔をして」

ギュルヴィの嘲るような言葉に、カグヤが一瞬だけ青ざめてから激昂した。

「!?そんな……デタラメを言うな、でっち上げだ!妾たちは……」

「いいえ」

カグヤの必死な弁護をも断ち切って、ヨルムンガンドは決意する。

おそらくギュルヴィをけしかけてヨルムンガンドをいたずらに陥れ、一緒にカグヤも処分してしまおうという、鷹乃の思惑だ。ここで間違った選択をしてしまえば、カグヤも巻き込んでしまう。でも。

「いいえカグヤさま。私はあなたに、懸想しておりました」

「ヨルムンガンド……?」

これだけは言わないといけない。

明らかな戸惑いを見せるカグヤに、ヨルムンガンドは息を吸いこんで、この場で出来る一生懸命の笑顔を向けた。

「あなたが好きです、カグヤさま。この気持ちは、もう隠せません」

「…………っ!」

カグヤが息を呑むほど驚いたのがわかった。

声が震えた。笑顔も、頬が引き攣ってうまくできなかった。冷えた汗が、背を伝う感覚。

こんなに緊張することは、これまで一度もなかった。

きっともう、二度と彼女に会うことは許されないから、これだけは口にしないと絶対に後悔する。自分で自分が、また好きになれなくなる。

誰も本気で愛せない自分が大嫌いだった。人を信じるより、先に疑うことを選ぶ自分が大嫌いだった。

でもカグヤに恋をした自分は、好きになれた。

彼女を想うほど、ほんの少し優しくなれる時間が嬉しかった。

カグヤのためなら、今すぐ死んでもいいとさえ思うほどに、愛に狂っていた。

————狂おしいほど、愛していたあなた。生まれて初めて愛したあなた。

「連れていけ」

ギュルヴィの命令を受け、武官たちはヨルムンガンドを乱暴に引っ張っていく。

「ま、待て……ヨルムンガンド……!」

カグヤは武官数人に押さえられながらも、必死にヨルムンガンドを追った。しかし武官の壁はとても厚く、ヨルムンガンドの背中は遠ざかる。

堪えきれない距離。さっきまで、こんなにすぐ近くにいたのに————。

「っ…………ヨルムンガンド!!!」

カグヤの悲痛な叫びを背に浴びて、ギュルヴィは横目でヨルムンガンドに話しかける。

「残念だったなぁヨルムンガンド。おっと、冥土の土産にもっといいことを教えてやろうか?」

「…………?」

ヨルムンガンドのもはや疲れ切った横顔を見たその瞬間、ギュルヴィは最高に面白い劇を観ようとしているかのように顔を歪ませ、声を弾ませた。

「貴様との“不貞行為”で『純潔を失った』あの(カグヤ)はな、王族から貴族に格下げ……俺の妻として迎え入れることになっている」

「…………っ!!」

ヨルムンガンドの喉が引き攣る。その結末は、あまりにも残酷なものだった。

結局、すべて鷹乃の手のひらで踊らされていたのだろう。それに気づけず、この結果を招いてしまった。その絶望だけで、ヨルムンガンドの心はいっぱいになった。

宿敵であるヨルムンガンドの絶望の淵を見て満足したのか、ギュルヴィはにやにやした笑みを隠さずヨルムンガンドの肩を叩いて吐き捨てた。

「貴様のお古というのが癪だが……まぁうまく使ってやるよ。じゃあな、皇子サマ」

先を行くギュルヴィの乾いた足音が、地獄への扉を叩く音のように聴こえた。

熱い涙が頬を伝う。こぼれて、地面を濡らす。

嗚咽とともに、叫んでいた。

「っカグヤさま……!!」

ヨルムンガンドのひび割れた叫びが、あたりに響いて空気に吸収された。

やっと届きそうだったのに、どうしてこんなに遠い。いつまでも届かない手を伸ばし、幻を見る。

すぐそばにいてよと、空が割れんばかりに叫んでいる。

————僕の生命に理由があるとしたら、それはあなたでした。

あのキンモクセイの下でそう言ったら、彼女はたぶん、少し照れてから小さく微笑むだろう。花のように笑う女の子。キンモクセイのように気高い少女。

あの日出会った舞姫は、汚れなき聖女だった。

誰にも汚されない、美しいひと。

今でも思い出せるその真珠のような熱い涙は、朝には泡になって消えてしまった。

————疑うより信じることを教えてくれた、それはあなた。

毎日があの星空のように美しく、明るい日々だった。

行き場のないヨルムンガンドの昏い心を、空に浮かぶ月のように包んで導いてくれたカグヤ。

くれた言葉のすべてを、宝石箱に入れて大事にしている。


————あなたがいないこの世界を生きろと神が言うのなら、僕はこの命を棄てましょう。捧げましょう。


《あなたは神を信じるか。》

神というのは、汚い都民が生み出した偶像だろう。


————世界をいくら(めぐ)っても、僕はあなたに恋をする。


世界の何処に行けば、美しいものが見られるのだろうか。

どこにもないじゃないか。


————あなたのことが、好きだから。大好きだから。


冷たくなった手首に大きな木製の手枷をはめられ、暗く狭い石の牢に入れられた。この日、ヨルムンガンドはすべてを奪われた。


————だからこの日のことは、絶対に忘れない。


静まり返った牢の中、この沸き立つ感情を、余さず魂に刻みつけろと命令した。忘れてはならないと。忘れることは罪だと、頭がおかしくなるほどひたすら繰り返した。

閉じられた牢の中で、ヨルムンガンドの狂気が激しく明滅する。

晴天のように美しかった蒼い瞳に、暗い灰が溶いた絵の具のように混じり、それは曇天になる。

すぐそばでずっと見ていた一覇(いちは)の瞳も、同じように灰色に変わったように感じた。ヨルムンガンドの声が、直接脳に響く感覚。


————神が僕を見放した日。




ヨルムンガンドが幼い頃は、母親が毎朝毎夕欠かさず、絵本代わりに分厚い教典を読んでくれた。もう記憶がだいぶ薄れていてすべては思い出せないが、第一章の最後は、確かこう締めくくられていた。


————汝、神を愛し、敬い、信じよ。さすれば神は、必ず汝を救おう。————


————くそったれ。なにがなにを救うというんだ。

毎日くそ真面目に祈っていた、敬虔な教徒の母は死んだ。ひどい死に様だったことを、幼心によく覚えている。

幼いヨルムンガンドを庇って押し入れに隠し、都民たちに強姦されて襤褸切れになった母の遺骸。その都民たちもまた、敬虔な教徒のひとりであるはずだ。

母の次は、カグヤ。自分が愛おしいと思う人は、次々と蹴落とされる。

だから神は信じない。絶対に信じるものか。

神は二度、ヨルムンガンドを裏切った。

忘れるものか。この怒り、憎しみ、復讐心。炎のように熱く、胸に燃えたぎる熱情。

忘れるな、神は敵だ。神は敵だ。神は敵だ。

魂にこの怨念を、刻みつけろ。刻みつけろ、刻みつけろ、刻みつけろ。

血が滲みこぼれるのも構わずに、ヨルムンガンドは自分の手を強く強く握り締めた。暗い虚空をどんよりとした灰色の瞳で一心に見つめる。仮想の敵を射殺さんと睨みつける。

「神など……いるのならこの手で殺してやる……!」

神はこんなにも簡単に、ひとを地獄へ突き落とす。

残酷なものだ。これほど残酷な現実は、ほかにあろうか。

脳裏に高らかに響くあの声は、女神だろうか。ころころとよく笑う、金髪碧眼の舞姫。

くるくる花のように舞って、眩しく光る。

————あれは僕の、希望だった。僕の生命の理由は、『希望』だった。

キンモクセイの下で約束したのは、遠い過去。もう来ることのない道だった。



これは、魂が幾度もめぐるとこしえのお話。悠久なる神々なんかいない、天国もないせかいのお話。

すべての《はじまり》の物語。




亡霊×少年少女 第二十三話 了


に、二十三話かぁ〜……よくここまで書いたなぁ。

ここまで来たら、絶対に完結させたい!って意気込んでおります。

月の都編は蜷川実花監督の映画作品『さくらん』を観て、「こういう雰囲気にしたい!」とめちゃくちゃ影響されて作りました。

昔からはすっぱな(言わない?)役柄という人物には憧れがあり、土屋アンナさんがすごく好きなんです。かっこいいよねっ!

私自身、悪っぽく振る舞うことが多い人生だったので、強い憧れは大人になっても変わりませんでした。ふ、普段は大人しいんですよ!?

ヨルムンガンド氏はそういった意味では、一覇よりも私の憧れから出来ています。

でもお名前でわかるように、月の都編は北欧神話がベースになっています。北欧神話+かぐや姫+童話イロイロ。

余談ですが流れ星のくだりは私の経験です。初めて流れ星を見たときに、想像よりすごい遅いんだな〜なんて思ったことから入れました。とっても綺麗でした。

相変わらずうまく作れていませんが、続きも頑張りますのでよろしくお願いします。


2016.11 ひなた

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