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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
裏腹な絶園のイヴ
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裏腹な絶園のイヴ

こんばんは!

皆さん、シルバーウィークをいかがお過ごしでしょうか?

私は寝てくさって今は頭痛に悩まされています……寝すぎは禁物!

そんな秋の夜長に『亡霊×少年少女』第二十一話をどうぞ!

亡霊×少年少女 第二十一話『裏腹な絶園のイヴ』


その日、彼は彼女と約束した。

雨がざんざん降り注ぐ、冷たい春のことだった。

梅の花が開ききり、雨のせいもあって匂いが落ちてきた。シロツメクサがもうもうと生え始め、地面が青々としてきた。

わずかな春のにおいに似合わない、重たい灰色の雨空のした。

時雨(しう)の父親である草介(そうすけ)が亡くなり、葬儀が執り行われている綺麗な市民ホールの隣に、小さな公園があった。ベンチとわずかな植え込み以外になにもない。できてから何十年と人が訪れた気配のない、小さな薄汚れた公園。

普段なら絶対に泣かない彼女の涙が、土砂降りの春雨にまぎれて光っている。

「時雨さん……葬儀が始まってますよ。奥様が探していらっしゃいました」

おずおずと告げる基の耳に、時雨の押し殺した声が聴こえた。

「わたくしのことは、放っておいてください」

はいそうですか、と言う通りにするわけにもいかず、(はじめ)は愚直にもしばらくその場を離れようとしなかった。

ぐしゃぐしゃに濡れた長い黒髪が身体に貼り付き、少し震えている時雨。肌もやけに青白い。春のはじまり、寒いのも当然だろう。思い切ってそっと手を差し伸べ、

「中で温かいコーヒーでも飲みましょう」

と誘う。しかし、その手は勢いよく弾かれた。

鋭く睨む、時雨の瞳。まるで基が仇だとでも思っているような、深い憎悪が満ちていた。

差していた傘を投げ出して、びしょ濡れの彼女の柔らかく小さな手を握る。その手は恐ろしく冷たくて、世の不条理に激情する彼女の気持ちと裏腹だった。

「絶対……永遠に、時雨さんを独りにはしません。僕がずっとおそばにおります。だから……」

家族がこの世からいなくなった悲しみは、誰よりも知っているつもりでいた。

家族になってくれた喜びを、誰よりも知っているつもりでいた。

だから。

「けっして、死のうと思わないでください」

大切な人が死んだら、きっと自分もこの世に用はない。

それでも基が今を生きているのは、間違いなく草介のおかげだった。だから今度は、彼が大切にしていた人の、そういう存在になろう。なりたい。

よく報道で出てくる、【尊い犠牲】なんて大仰な言葉は嫌いだ。犠牲は犠牲。その人という存在は唯一無二のものであるが、また同時にあまたいる人間のひとりである。

人の死はなにも、特別なものではない。たったひとりが死んでも、世界は当たり前に回っている。嫌になるくらいに、普通に世界は動くんだ。

人の思い出、記憶は、いったいいつまで色褪せないものなのだろうか。

基はとうの昔に、両親の声を温もりを忘れていた。これからも思い出すことはないだろう。愛が消えたわけではない。きっとそういうものなのだ。

だからこそ、この人のことだけは忘れまいと、この手をきつく握り締めた。

それは小さな約束だった。

忘れられても文句は言えない、一方的に固く結んだ約束。

それでも彼女とのわずかな絆のように頭に響くのは、このひとつ年上の少女を一瞬でも『愛おしい』と思えたからだ。

この気持ちを、一生大事にしていこうと決めた。

彼女の澄んだ黒い瞳が、自分を見つめている。自然と抱き合い、体温がひとつになる。

雨は止むことを忘れたように、ざんざんと叩きつけるように降り続ける。

この温もりを、お互いに忘れることはなかった。




一九七五年、十月三十日。

神奈川県横浜市中区にあるオンボロアパートに、東雲基(しののめはじめ)は妊娠中の妻と暮らしていた。

二十五歳。癖のある黒髪に黒い瞳、同年代の男性と比べると少し長身だが割と筋肉質。特段目立つ容姿ではない。

高校を卒業してすぐに始めた工場(こうば)の仕事は順調だ。一つ年上の妻・時雨との仲もよく、私生活も文句一つない。

それでも特筆すべき点といえば、その生い立ちであろう。

基は幼い頃に両親を事故で亡くして、十二歳まで児童養護施設で育った。中学校に上がる直前に、江戸時代以前から続く大名家の矢倉家(やくらけ)に使用人として引き取られた。そこで妻と出会った。

時雨は矢倉家の長女で、気位が高く、出会ったばかりの頃は喧嘩ばかりしていた。

ふたりの距離が縮まったきっかけは、父の草介が交通事故で亡くなったことだった。

当時十五歳だった時雨は、これまで身近な人が死ぬという経験がなく、慣れない悲しみに打ちひしがれていた。そんな時期を基が支えたことで、時雨は彼に惹かれ、基もまた時雨を愛おしく思うようになった。

ふたりが結ばれるのは、時間の問題だった。

自身も箱入りお嬢様だった時雨の母の強い反対を押し切って、ふたりは基が高校を卒業するとともに駆け落ちした。基の二十歳の誕生日に入籍し、貧乏ながらも慎ましやかな幸せを噛み締めている。

そんな生活が続いていたところに、時雨の妊娠が発覚し、基も仕事に熱がこもってきた。時雨のために、生まれてくる子どものために……基は身を粉にして働く毎日を送っている。

午前中の仕事をこなし、一時間の昼休憩に大きな愛妻弁当を平らげる。同僚と軽く会話を交わしながら仕事に戻り、残業がないことを確認してから定時で上がる。

汗臭い色褪せた藍色の仕事着上下を着たまま、帰宅ラッシュで混み合う電車に乗り、四つ先の駅で降りる。

賑わう駅前商店街をゆっくり歩き、夕飯の匂いが漂う住宅街へ。茶色い壁の年季が入ったボロボロアパートの、一階真ん中。ドアプレートには手書きで『105 東雲』と書かれている。鍵を回して開けると、左手に狭い台所。二口のガスコンロには、小さな鍋がふたつ、コトコトと音を鳴らしている。

腹が膨らんできて重いはずなのに、エプロンを羽織った時雨は小ぶりのシンクの前に立って包丁を持ち、手馴れた様子で人参を切っていた。

「おかえりなさい」

帰ってきた基に気付き、笑顔で出迎える。基は鍵を締めて、妻に微笑む。

「ただいま、時雨さん」

上がりかまちの玄関で靴を脱いで、1Kの狭い我が家に上がった。

風呂で汗を流して、時雨お手製の夕飯に手をつける。里芋の煮っ転がしに、ししゃも焼き、豆腐の味噌汁、茶碗いっぱいのほかほかご飯。決して豪華ではないが、人の温かみのある食事。知人から譲り受けた古いラヂオから、今どき流行りのフォークソングが流れている。

ビールの代わりに安い緑茶で酌み交わし、今日あった出来事を語り合う。ご近所の夫婦がまた喧嘩をしただの、お腹の子どもが動いたような気がしただの、小さな他愛ない笑い話をいくつも続ける。

夕飯を平らげると、時雨が台所を片付けている間は、窓際に寄りかかって夜空を眺める。小さな窓から、切り取られたような藍色の空が見える。下弦の月が、町を優しく照らしている。

目を閉じると、一日の疲れからウトウトしてしまう。それを見かねて、時雨が押し入れから夏掛けを引っ張り出して掛けてくれた。柔らかい、よく干したおひさまの香りが鼻腔をくすぐる。

なんでもない一日のはずなのに、「あぁ、幸せだな」と噛み締める。この世界が永遠に続けばいいのに。

風呂から上がった時雨に促され、押し入れから布団を出して川の字に敷く。電気を消して、二十二時には就寝した。

基は夢を見ていた。自分が十七歳の少年になり、不思議な能力で同年代の仲間とともに戦う日常。兄弟がいて、幼なじみがいて、親友がいて、好きな子がいて、それらが当たり前の毎日。苦しいこともあるけれど、幸せな瞬間もある。

静まり返った横浜の町を、月が今日も監視している。




翌日もいつも通りに仕事をして、時雨が待つ自宅に戻ったときだった。

玄関の前に、見知らぬ少女が立っている。年の頃は十六くらい、ボサボサに伸びた長い髪は見事な金色だが、顔は明らかに日本人である。しかし大きな瞳は、これも見事な碧眼だった。細い肢体を、よれたシャツと短パンで包んでいる。

————孤児か?

戦争孤児こそもはや時代遅れだが、発展する都市に比例して孤児は多い。

しかしそれにしては、風呂に入っていないようには見えない。少女が持っている小さな鞄には荷物が詰められているし、もしかしたらご近所さんのお客様かもしれない。

どちらにしろ、このまま玄関前にいられては困るので、基は思い切って声をかけることにした。

「あの、えーとお嬢さん。そこは僕の家なので、どいてくれるとありがたいのだけど……」

基に気づいた少女は、瞳を輝かせる。そして

「はっじめちゃーん!!会いたかったよーん!!」

と、大声を上げて基の胸に抱きついてきた。

すりすりと基の胸に顔をこすりつける少女。

「え、あの……君は……」

戸惑う基に対して、少女は今度はスーハーと匂いを嗅ぎ始める。

と、ドアが開き、エプロン姿の時雨が怪訝な顔を出した。先程の少女の声に反応したのだろう。基と、基にすり寄る少女を見て、時雨の顔が一気にひきつった。

「…………あら基。そちらの可愛らしいお嬢さんは、どなた?」

「え、時雨さん……っ、あのっ」

狼狽えてしまったことが、よくないことだった。時雨は空のフライパンを持ち出して、ゆらりと構えた。その仕草は歴戦の勇士もさながらで、表情は笑顔なのに夜叉のよう。

「さぁ基、素直に答えなさいな」

基が答える前に、少女が元気よく答えた。

「あたしと基ちゃんは、ニャンニャンうふふな関係だよ!」

「違う!違うから時雨さん武器を構えないで!」

問答はしばし続き、基は結局フライパンでコテンパンに絞られた。


「……で、貴女の名前は?どこから来たの?」

夕飯の支度を一時中断して、少女にマグカップで牛乳を振る舞い、ボロボロにした基の隣で時雨が少し不機嫌に尋ねた。少女は牛乳を啜り、答える。

「あたしは東雲ミル……ってジョーダンジョーダン!一ノ瀬ミルカ、ピチピチの十六歳です!基ちゃんとはぐんずほずれつ、あはんうふんなカ・ン・ケ・イ」

「とりあえず冗談はやめてくれるかな?奥さんが怖いから」

クネクネと身を揺らす少女と、とうとう包丁を持ち出した時雨に挟まれて青ざめる基。

ミルカと名乗った少女は、再びマグカップを手に取り、牛乳のおかわりを催促する。時雨がパックから注いでやると、嬉しそうに飲み干した。

「それでミルカ……さん?うちの主人とはどういう関係なのかしら?」

「いや、時雨さん。この子と僕は……」

無関係だ、と基が訴えようとしたとき。ミルカがマグカップをちゃぶ台に置いて、ハッキリと答えた。

「無関係です!……この世界ではね」

その言葉に、夫婦は互いに目を合わせる。『この世界では』?どういう意味だ?

ふたりが不思議な少女の言葉の意味を測りかねていると、ミルカは鞄から大きく古めかしいアルバムを取り出す。パラパラとあるページをめくり、見せてきた。

その写真には、男性が数人並んで写っていた。全員が鍛え抜かれた身体に、古めかしい軍服をキチッと着ている。

その中心に金髪で、同じように軍服を着ている若い基がいた。十五歳くらいだろうか。瞳の色も薄い。

もちろん軍に入った覚えも、髪を染めたこともない。だが紛れもなく、写真の中にいるのは基なのだ。

基が不思議と見入っていると、ミルカが静かに言った。

「これが、別の世界のアナタ」

「別の世界……?」

基がぼんやりとオウム返しをし、ミルカを一瞥してから再び写真を見つめる。少年の基が見つめ返してくる。

ミルカが十六歳の少女とは思えないような、なぜか諦観な表情で懐かしそうに、そして熱を帯びて語る。

「この世界でのアナタは、とても勇敢だった……そう、まさに物語の勇者(ヒーロー)だった」

「…………」

自分が物語のヒーローだなんて、想像もつかない話だ。なにせ生まれて二十五年間、自分が人より特別優れている点なんて見つけたことがない。ちょっと生い立ちが不幸なだけの、ごく一般的な青年だと自己評価する。しかし、それは見知らぬ少女によって否定された。

「《パラレルワールド》って、知ってる?」

ミルカの質問に、基は首を横に振った。代わりに時雨が答える。

「並行世界……様々な可能性の数だけ無限に存在する、未来の世界ね」

意外にもSFやファンタジー小説を好んで読む時雨には、ピンとくる言葉だったようだ。

あり得るかもしれない現実、もうひとつの歴史、タイムパラドックス。多くのフィクション小説で取り上げられている題材のひとつだ。

しかし物理学の観点から、「本当に存在するのではないか」とも言われている。実に夢が広がる話である。

「そう。この世界の他に存在する世界。その世界では全く同じ地形、同じ人物があって、選択肢ひとつの違いで生まれる、無限のループ。例えば『一ノ瀬ミルカ』という人物は、違う世界では普通の女子高生かもしれないし、大金持ちのお嬢様かも。幼女かもしれないし、マッチョなオジサンってことも……。その選択肢の数だけ、数え切れないほどある未来。そして同時に、創造者と言われるカミサマが作った世界(はこにわ)なの」

今度は『神様』ときた。十六歳の少女が語る話にしては、なかなかスケールの大きな話になってきたなと、ふたりは舌を巻く。

ミルカが時雨から牛乳パックをひったくり、手酌で牛乳を注いで、ごっごっと飲み干した。

「それで、君の目的は……?どうして君がこんな話をしているの?この写真が本当に僕だとして、なぜ別の世界であるものがここに存在できるの?」

矢継ぎ早に質問を飛ばす基に、ミルカは笑った。

「まぁまぁ。一気に解決しようとしないで、基ちゃん」

ミルカはガサゴソと鞄からノートと鉛筆を取り出し、なにやら図を書き始めた。

月と地球、棒人間。それらを鉛筆の先でつんつんと指し、世界の仕組み……秘密を語る。

この世界は、月の住人によって造られた箱庭である。

月の住人————支配者たちは、この箱庭に十二人の鍵となる創造者を配置して、管理させた。失敗しては、巻き戻しを繰り返された世界。

あるとき支配者は、鍵の創造者が十三人に増えていることに気がついた。巻き戻しを繰り返した結果、同じ次元に同じ複数の魂が焼き付いてしまったのだ。それはいつしか【ドッペルゲンガー】という名で呼ばれ、都市伝説としてこの世界に定着した。

同じ魂たちは自己の存在を壊さないよう、殺し合うことで自己の保存を安定させていた。支配者たちは、うっかり生まれてしまった十三人目の創造者を消去するために、再び箱庭に手を加える。

箱庭の人間たちが作り上げた技術を根こそぎ奪い、もう一度世界を創造した。

ミルカは自分の胸と基の胸をつつく。

「その十三人目がアナタ。いえ……あの世界に焼き付いたアナタの魂。あたしは箱庭の生まれ変わる歴史を保存するために造られた、一番目の鍵……《一ノ瀬》の名を継ぐ唯一の生き残り」

その世界は幽霊や妖怪などの、超常現象というものが科学技術として証明されており、それらを利用して争っているらしい。通常は家名に数字がつく血筋に、鍵の創造者が生まれる仕組みだそうだ。しかしそのシステムも狂いが生じ、《矢倉》、《日向(ひゅうが)》などの特別な家が次々に誕生した。

その世界の基はその霊障術(れいしょうじゅつ)という技術において、日本トップクラスの軍人だった。しかし。

「やっぱり、運命というものには、抗えないのかしらね……」

ミルカが口惜しげにぼそりと呟いた。

「どういうことなの……?」

その言葉の意味を理解できず、基に代わって思わず時雨が尋ねた。ミルカはとても言いづらそうな、苦しそうな表情で答えた。

「親友と義理の妹が、その【ドッペルゲンガー】だったカラクリで、アナタは死んだ。生まれ変わって別の人間になっても、その運命は変わらず、支配者が世界を巻き戻したのよ」

そしてこの世界が生まれた。途方もなく長い年月をかけて世界は再び構築され、似通ったシナリオを通って、今に至った。その羽ばたこうとした翼をもがれて、今の『無能な人間たち』が生まれ、生かされた。

「……その世界の人たちは、どうなった?」

大きすぎる恐怖を抑え、基はそれだけ口にした。ミルカはできる限り率直に答える。

「今は仮に保存され、完全消去のときを待っているわ。それも時間の問題ね」

「…………」

基はちゃぶ台に両肘をつき、うなだれる。ミルカの説明でことの大きさを理解して、必死に考えた。どうすることができて、どれが正解か。自分たちの……ひいては別の世界の自分たちのためには、なにをしたらいいのか。

どちらにしろ、この世界が『失敗作』だと支配者に見限られたら、その瞬間にすべてが終わる。

ミルカが基にこの話をしに来たということは、なにか解決策があるはずだ。

巨大な世界の仕組みの穴。それさえ見つかれば、世界は守れる。

————……いや、待てよ。

物事が複雑に絡み合う仕組みだが、実は非常に脆弱なものではないか。繰り返しただけで生まれた【ドッペルゲンガー】という致命的な欠陥の存在。ミルカを通じて繋がる世界。

「……そうか」

気がついた、はじめから答えは全部出ていた。簡単なことではないか。箱庭のすべてと唯一関われるミルカという存在が、文字通りに答えをくれた。

基は至った結論を、口にした。

「世界は繋がっている。完全には塞がれていない。復活させるんだ……消去される前の、特別な能力を生み出した世界を」

それは消去されていない世界の基たちにしか、できないこと。

もう一度、世界を大きく動かすのだ。

基がはじき出した結論を、しかしミルカは否定的に見ていた。

「で、でも世界を動かすということは、また新たな欠陥が生じて、この世界が支配者に消されちゃうかも……。それにあの世界を復活させるということは、基ちゃんが、同じ人物がふたり生まれるということで、それこそ『タイムパラドックス』……自己の保存を巡って殺し合いになって……」

「小難しいお話はそこまで!」

ぺしっと一撃、基はゴチャゴチャと言い出したミルカの額を指で小突いて止めた。

「オレはあいにくバカでね、自分が信じたことしか信じないことにしてるのさ」

親指を突き立てて力強く笑う基と、かつての世界の『東雲基』がミルカの中で重なった。無駄にポジティブというか、たくましいというか、変なところで自信家なところ。

思わず涙がにじみ、指で拭った。

「やっぱり……基ちゃんは基ちゃんだね」

基は心の中で数え切れない弱音を吐く自分を、強く鼓舞した。

————世界を守るんだ。

————カミサマだからって、この世界を決して汚させやしない。ここは僕たちの世界なのだから。

ふたつの世界を揺るがす人間(にんぎょう)の逆襲劇は、ここから始まった。




「しかし……あなたもずいぶん大きく出ましたね。『世界を救う』だなんて」

話を終えて、夕飯をたらふく食らってから、丸くなって眠るミルカに布団をかけてやりながら、時雨がくすりと笑って漏らした。

いつもの基は少し頼りなくて、子供っぽくて、イタズラ好きな普通の青年だった。とても物語の中にいる、世界を背負って立てるような、英雄(ヒーロー)にはなれない。そう思っていたのに。

「こことは違う別の世界で英雄だったからかしらね?」

「からかわないでよ、時雨さん……」

洗濯物を片付けながら、基はわずかに頬を上気させる。時雨の言っていることが、三割くらいは当たっているからだ。

少年時代の誰しもが憧れる、『英雄の自分』。抑えてはいたが、高揚感が生まれていた。会ってみたい……でもミルカによると、同じ魂の存在はタイムパラドックスを生み出し、世界を平行化するために殺し合うという。

「ちょっとくらい……見たかったな。カッコイイ僕像」

ぼそりと呟いたら、時雨がまたくすくす笑い出した。

「そうですね。今のあなたよりは、断然かっこよかったかもしれません」

「ひど……っ!今の僕、そんなにカッコ悪いの!?」

家族のために、毎日休まず汗だくで働いているのに!

するり、と。時雨の薄い胸に優しく頭を抱かれた。

時雨の心臓の鼓動が、どくんどくんと、規則正しく基の頭に響く。

「これだけは約束してください。この先にどんなことがあろうとも……あなたはあなたでいて。最後にはかならず、わたくしたちのところに帰ると」

柔らかな温もりに顔をうずめる。やがてその優しさに、すべてをあずける。

————ほんとうはね。

世界がどうのとか、別の自分とか、そんなよくわからないことを言われて、怖かった。ミルカの望みは基が戦うことだから、なにとも知れない力で潰されて、死んでしまうんじゃあないかと、身体がすくんだ。

押し潰された心が悲鳴を上げるように、涙がつぎつぎとこぼれる。

「こわい……こわいよ」

子供のように、我慢せずあえぐ。

ここに戻ってこれなかったら……時雨さんをひとりにしてしまったら……。そんな不安がつぎつぎと押し寄せる。

世界を守らなくては、という決意に嘘はない。でも恐怖に嘘はつけない。

このまま……このままたったひとりの家族とともに、素知らぬふりができたなら。

でも自分は夫であり、父親になるのだから。————守らなくちゃ。家族を。

かつての世界で自分が守ったものも、また家族なのだとしたら。もし英雄と同じ自分であるのなら。

————戦わなくちゃ。僕たちが生きるために、命を賭して世界(かぞく)を守らないといけないのだ。

泣き疲れて眠り始めた基の頬を撫でて、時雨はそっと寄り添う。

新たな英雄の誕生を、母のように優しく寄り添い、見守ることにした。

ミルカの話によると、別の世界の基と時雨は、一度は結ばれたものの死に別れたのだという。基は生まれ変わるが、年老いた時雨と再び結ばれることはなく、新たな人生を歩んでいた。

————それでもいいわ。

基が幸せであることが、時雨にはいちばん大事なこと。たとえふたりが結ばれずとも、お互いに最期のとき、幸せを噛み締められる生活ができるなら、なんだって構わない。

小さな寝息をたてる基の髪を撫でて、時雨は呟いた。

「たとえあなたがわたくしを忘れても……あなたを愛したこの気持ちは、けっして消えません」

静かに夜が更けていく。月はなにも知らずに、人間たちを観察している。




翌日。

基はいつも通りに仕事をしながら、どうやってふたつの世界を繋げるかを考えていた。

ふたつの世界が繋がっていることは、ミルカが持っていた写真で証明されている。あとは方法……方程式を解かなくてはいけない。

数学の証明問題と同じだ。問題と解があって、あとは公式を当てはめる。それだけのこと。それだけのこと。それだ……け……。

「公式がわからん!!」

夕方になり、帰宅ラッシュの電車を降りて、商店街を歩きながら瞳をくわっとさせて叫んだ。

八百屋のオヤジと買い物中の奥様、はなたれ小僧に「なんだあのニーチャン」と不審がられるも、基は脳が爆発するのではないかというくらいに思考を巡らせていた。

月の住人なる<ヤツら>が操るシステマティックでハイカラな、この世界の仕組み。いくつもの細かな部品を組み合わせた、テレビジョンのような繊細な機械(はこにわ)

確かに基は機械工場(こうば)の若き班長である。だが工場は、発明家の意図などを考えて組み立てるわけではない。アレをココに組み込んで、コレを……と、頒布された設計図通りに置くだけだ。そこに自分たちの意志は介在しない。

————もう一度、ミルカちゃんにいろいろきかないとな。

『追われている』というミルカは家に帰れないと言って、しばらく東雲家に居候することになった。誰に追われているのか、ここまで来て言おうとしない彼女をふたり共にひどく不審に思うも、いたいけな少女を放り出すわけにもいかず、受け入れた。

ふと、夕焼けの反対側に浮かぶぼんやりと薄い月を見上げ、思った。

————月の住人たちは、いまも僕たちを見ているのだろうか。

彼らはこの世界を見て、いま、なにを思っているのだろうか。「理想通りの世界ができた」と満足?「早く新しい世界を完成させねば」という焦燥?それとも……。

基の視線は、空に浮かぶ神々の世界から、この世界に移る。

子供が母親と手を繋ぎ、笑っている。八百屋のおじさんが、元気に客を呼んでいる。女性が犬と散歩に出ている。夕方の鐘を聴いて、家族の待つ家まで駆け足で帰ろうとする子供たち。仕事帰りのサラリーマン。

それらを眺めているはずの神様の気持ち。理解できるはずがない。しようとも思えない。人間の歴史を、ひとりの人生を、簡単にねじ曲げる者の思いなど。

「許されないことだ……!」

拳を強く握り締めて、怒れる自分を鼓舞する。

なんの能力も無い自分に出来ることなど、たかが知れている。それでも、もし。

出来ることがゼロではないのなら、そのわずかな可能性に賭ける道理。『僕の世界(かぞく)を守る』。たったひとりの《彼女》のために、自分のすべてを投げ打つと決めたあの日を思い出す。

あの頃、自分は今より無力で脆弱な少年だった。

それでも。父を突然喪って泣き崩れる、彼女自身の手を取り、誓った。

『絶対……永遠に、時雨さんを独りにはしません……僕がおそばにおります。だから————』

「……帰ろう」

《彼女》が待つ家に。家族の待つ家に。

基はゆっくり歩き出した。




「また見ていらっしゃるのですか、我が君」

銀色の煌めきが、御簾(みす)を透かして広い部屋をわずかに照らしている。月光虫(げっこうちゅう)の光だ。

街のそこかしこにいて、この(くに)の人々の生活には欠かせないエネルギー体……この國唯一の自然な生き物である。この國が人間から見たら銀色に見える理由のひとつでもある。

しかし繁殖中の月光虫は異性を寄せ付けるために金に光り、それが女王一族の代々続く金髪と重なることから、月光虫の繁殖期に入るとやれ創国祭だなんだと騒がしい。どうせこの國には一年、二年という年月の概念がないくせに、と女は内心でせせら笑っている。

その都市の中央、天高くそびえるクリスタルのような城、月宮殿(げっきゅうでん)の一角。薄暗い『蒼穹の間』。

この國の主人の部屋で、女が尋ねた。女は銀色の長い髪を紐でゆったり束ね、紅白の巫女装束を纏っている。

赤い瞳を(あるじ)が見ている方へ向ける。いつもと同じ、ひとりの人間の青年を金の縁取りが輝かしい月面鏡で眺めている。楽しそうに笑い、悲しそうに涙を拭い、愛おしそうに微笑む。

はっきり言って、主は不感症な女だ。人間のいろいろな面を見ている毎日で、少しでも表情が揺らいだ瞬間を、女は一番長く仕えているというのに見たことがない。

それでも最近はずっと、同じ青年を見ているのは彼女なりになにか思うところがあるのか。あるいは……。

女はくすりと笑った。

「まるで恋をしているようですわ、我が君」

人間は恋をして、繁殖している生き物に進化している。フラスコで生まれる月の住人にはとうてい理解出来ない話だが、相手を愛おしいと思う気持ちで結ばれ、子孫を生むという。

主の手元にある月面鏡に映るくせ毛の青年。何度も箱庭に生まれながら、消去を繰り返している人間(にんぎょう)のひとり。

彼の運命はいつも同じ。家族を失い、なおも戦いを繰り返し、最後はあっけなく死ぬ。それでもいつも彼は『諦めない』。主はずっと見てきた。

なにがそんなに楽しいのか、悲しいのか、苦しいのか、嬉しいのか。主にわかるはずもない。

「我が君、そろそろお休みになる時間ですよ」

女はそう言って、主から月面鏡をひったくる。主は主なりに大いに不満そうな表情で女を見るが、女は知らんぷり。

寝所へ向かい、主が布団に潜るのを確認すると

「それではおやすみなさいませ————カグヤさま」

背の低い小洒落た円卓に置かれた蝋燭(ろうそく)を吹き消して、蒼穹の間を出ていった。

主……カグヤは、女が出ていったことを確認してから、布団から出た。

ひたひたと裸足で長い木の廊下を辿り、月面鏡が置いてある『神祇(じんぎ)の間』に着いた。木製の置物に立て掛けてある月面鏡を手に取って覗くと、ふっと再び例の青年が映った。

何度も、何度も何度も何度も。彼を見てきた。

それこそ彼が生まれたときから、カグヤは彼を見守り続けた。

今となっては彼のために作った世界だというのに、当の本人はまったく知らないまま。

彼を見ていて、ふと昔の記憶に思い馳せる。

————そなたとの約束……果たすときはいつになる。

あの世界では白蛇(はくだ)、ウロボロスとも呼ばれている————その真名(まな)をヨルムンガンド。

彼がここ月宮殿を自ら出ていってから、もう何千年経っているのか。数えるのもとうに忘れた。

幼い頃の記憶がよみがえる。ヨルムンガンドが笑い、カグヤの手を握る。

『約束だよカグヤ。僕たちはいつか、世界の美しさを知るんだ』

カグヤにしては珍しく、顔をくしゃりと大きく歪める。

————幼い頃、あれだけ強く約束したではないか。

荒廃した月の土地で、なにをくだらない幻想か。

争いに争い、奪い合いを繰り返し、その挙句に破綻しかけたこの月で、そんなものを望んでなにになる。馬鹿馬鹿しい。

それでもカグヤには、その約束がいまなお胸中でひときわ輝いているような気がしている。

すべては彼のために用意した箱庭。しかし彼がいないのなら、ひとつの世界すら無意味とさえ感じた。

思えば彼はあの頃から異端な存在だった。

誰よりも優れた《最上の御子》でありながら、誰よりも不真面目だった。寝坊はするし、居眠りはするし、すぐサボろうとするし、台所から食べ物はくすねるし。付き合わされる妾の身にもなってもらいたい、とカグヤがいくら愚痴をこぼしても、彼は毎度のこと軽い謝罪で済ませていた。

彼女は支配者の頂点に君臨する女王の身で、彼は創造者の鍵のひとつに過ぎない。それでもお互いに惹かれ合い、そして別れた。

彼は美しい地上を好み、人を愛したのだ。

ふと、彼の最後の言葉がよみがえる。

『見ているだけじゃ、死んでいるのと同じだ。飛び込んで、もがかないと』

笑顔でそう言う彼がどうしてそう思うようになったのか、カグヤには想像もつかない。

「…………」

永遠の命をもち、美しい銀の髪と赤い瞳をたたえる月の住人。その最高位であるカグヤは、最高に美しい金の髪と碧眼、この世のものとは思えない美貌をもっている。

彼女と同じく永遠の命をもつヨルムンガンドだが、その命ははからずも人智を超える能力を得た人間に魂を<分解>され、箱庭に散って風となった。残されたのは、彼とうり二つの息子。

それからカグヤはその魂をずっと見守っている。

仇敵にして愛おしい、ヨルムンガンドの忘れ形見を。

————世界の美しさ……いまも(わらわ)にはわからぬ。でも。

淋しい。

その想いだけが、カグヤを突き動かす。

「————」

そしてヨルムンガンドが唯一遺した歌を、優しい声で口ずさんだ。

彼との約束をいま果たすべく、カグヤは謳った。

凄絶の美しさ。

《最上の巫女》にその力を分け与えてもなお輝く月の女王は、まさに人外の美しさとしか表現のしようがない。

ゆらり、ゆらりと、雅楽のような舞を踊る。しなやかな腕が空気をかき、ゆるやかな脚が歩む。

それは、小さな箱庭(せかい)に大きく響いた。

世界のはじまり、そして終わりへのメロディーが風に乗って流れていく。




「…………?」

夕飯を食べて、風呂から上がってぼんやりと月見をしていたときだった。

基の耳に、歌が聴こえた気がした。空耳かと思ってちゃぶ台の上の湯呑みに手を伸ばしたとき、今度こそはっきり聴こえた。

今夜の金色の月にぴったりの、美しい夜想曲(ノクターン)の調べ。それでいて、日本語のひとつひとつが、転がるように並べられる。まるで、月そのものが謳っているような幻想を抱く。美しいの一言に尽きる。

なんとなく一緒に呟いた。知らないはずのメロディーが、手廻しのオルゴールのようにゆっくりと回り出す。

その瞬間、基の世界が激しく揺れた。

「————!?」

眼前で激しく明滅する光の渦。音と音の嵐が両耳を襲う。月の輝きがいっそうに増して、基の全身をあっという間に包み込む。

重い扉が軋み、開く音がした。そんな気がしたのは、きっと気のせいじゃない。




ゆらゆら、ゆらゆら。ゆらゆらと。

木の葉のように宙を漂っているようだ。

これは夢の中だろうか。

ゆりかごに優しく揺られているような淡く懐かしい感覚。温かく柔らかいものに包まれているようだ……母親の胎内とは、もしかしてこういうものなのか。気持ちいい。などとぼんやり考えていると。

「————」

誰かの声が聴こえる。歌だ。

澄んだ鈴の音を思わせる、しかし神風のように大きく優しい声。甘くとろける旋律。口内で転がすような言葉たち。それはどこか聞き覚えのあるような、そう、まるで母の子守唄ような懐かしさを感じた。

一覇(いちは)も追いかけて一緒に、ささやくように歌う。


————ここは箱庭。

————我らその小さき天地(あめつち)を生み出し、かの地を七日にて創造す。

————全能の創造者たる我らは月詠(つくよみ)夢現(ゆめうつつ)を以て、かの地に汝らを残す。

————いざ()かん、我らが生地(せいち)

————流れ落つれば、(すなわ)ち『解放』。


瞬間。

世界は一気に煌めき、光の激流が一覇を襲う。いつも当たり前に視ている、霊子体(れいしたい)のような神秘的な七色の光たち。

眩しくて思わず、まぶたをきつく閉じた。縦に横に斜めに、身体が縦横無尽に移動する不思議な感覚。やがて曖昧だった重力が、わずかに戻ってくる。

すとん、と両足が自然にどこかに降りた。柔らかい絨毯の感触。おそるおそる、ゆっくり目を開ける。

どこかにある屋敷のひと部屋のようだ。窓から漏れる不思議な銀の輝き以外に光源のない、薄暗い部屋。かなり広い。

すぐそばで毛足の長い絨毯を踏むかすかな音がした。どうやら他に人がいるようだ。このわけのわからない状況をなんとか打開しようと、一覇は音の方角に振り向いた。

「————!!」

すぐ目の前に、自分と驚くほどそっくりな青年が、一覇と同じく目をぱちくりさせて立っていた。

まるで鏡を見ているようだ。しかし微妙な違い……ほくろの位置や黒い髪と瞳が、自分と青年がどういうわけか切り離された存在であることを証明している。

「…………君は」

青年が、一覇のものとは違う深いテノールで、独り言のように一覇の存在を問うた。

一覇にも青年にも、この状況はどういうことか、なぜこうなったのか、ここがどこなのか、まるで説明しようがない。ただ言えることは、おそらくあの歌がきっかけでここに誘われたのだということ。何者が、どういった理屈で、とはさっぱりわからない。

一覇の夢の中の出来事ではない、という現実感が、青年の存在でなんとなく感じられる。すると、この人はもしや、という予感が胸に去来した。

本当は最初に見たとき、わかっていたのかもしれない。でも自分がここに存在している以上あり得ないと、どこかで否定する気持ちがあったから、口にすることを拒否していた。

ひび割れた声で、その名を口にする。

「基…………東雲基……?」

「なんで、オレの名前を……君はいったい……?」

一覇の答えに、青年は確かな反応を見せた。

過去の、前世の自分。大きな伝説となったその人がいま、自分の目の前にいる。なぜ。いくら考えてみてもわからない。それに最初に気づいた、髪と瞳の色の違いも、うまく納得いかない。

一覇はなにも知らない様子の彼にどう説明しようかと迷い、必死に言葉を探す。だが、うまい言葉がなかなか見つからない。

結局ストレートに伝えることが一番だと、開き直ることにした。

「信じられないと思うけど……オレはあんたの生まれ変わり、という存在だ。ここがどこかとか、なんでここに来たのかとかの質問には、悪いがオレは知らないから答えられない」

一覇の答えをきいて、基はしばし考える仕草をとり、たっぷり一分を要して尋ねてきた。

「……君はつまり、僕とは違う世界の、パラレルワールドの住人ということ、なのかな?」

「パラ……なんだそれ?違う世界?」

彼の言っている意味がまるでわからなかった。基は首をひねり、さらに熟考してから『世界の仕組み』について語り始めた。平行世界————パラレルワールドが実在すること、月の住人、十三人の創造者、【ドッペルゲンガー】が生まれた原因、ミルカが自分を訪ねてきたことと、自分の夢の話。そして、そちらの世界の存続危機。

「たぶん君は、正確にはそちらの世界の僕の生まれ変わり……なのだろうね」

基は話の締めくくりに、そう結論づける。

目の前の少年の、金の髪と碧眼。彼こそが<英雄>の生まれ変わりなのだと、基はそう確信した。

一覇もまた、目の前の彼はかの<英雄>ではないと、彼自身の話から、そして一覇の目に視える霊子の量からも理解する。彼の霊子量は、自分が知る『東雲基』のそれには遠く及ばない、一般人のそれだからだ。

しかしそれでも一覇は疑問に思う。

確かに彼と一覇は違う世界の人間だが、本質的には同一の存在であるのが自然である。

彼の世界には霊子科学が存在しないと言うが、それでも『霊子』が微量にも存在している以上、同一人物のその霊子量に変化は見られないはずだ。少なくとも幽霊が視える体質であるはず。

「まだ……なにかあるんだ。オレたちが見逃している、世界のカラクリが……」

一覇はおとがいに手を添え、死ぬほど脳を回転させる。

だが考えれば考えるほどわからなくなり、ただ時間だけが過ぎていく。

この第一関門と表現していい謎を突破しなくては、自分たちの世界は救えない。月の住人たちは、気分次第で今すぐにも消去するかもしれないのだ。

「……ん?」

待てよ。

一覇たちの世界に存在した霊子科学技術という名の『データ』は、いったいどこにやったというのだろうか。データ……霊子であろうがポリゴンであろうが、物質というものは0か1。わずかでもあるなら、『存在する』ということ。

現世界の彼が一ノ瀬ミルカにきいた話では、霊子科学に関するデータはすべて取り除かれたはずだ。なのに一覇には、彼にまとわりつくわずかな霊子がはっきりと視える。

————いや。そうか。

「この世界にはまだ、力の片鱗が存在する……取り戻す方法があるはずだ」

思考が徐々にクリアになる。答えがだんだん見えてきた。

力がないはずがない、同じ人間なのだから。データがどこかに存在し、凍結されているだけだというなら。

一覇は基と向き合った。一覇の晴天のような碧眼が、輝いた。

解のない公式は存在しない。それと同じことだ。

「あんたたちの能力は、月の住人によってどこかに隠されている。絶対に取り戻せる。オレたちで取り戻すんだ」

戦うんだ。————己の存在を是とするのなら。

守るんだ。————大切な想いを、その命を賭けて。

ふたつの世界がこうして繋がったのは、きっと意味があることだ。なら利用せずしてなんになる。利用しない手はない。

己の世界の存続を賭けた戦い。利害は一致しているはずだ。手を取りあって戦う以外に道はない。

一覇は右手を伸ばした。その手のひらを、基が握る。

お互いに、不思議な光景だと思った。自分の前世、あるいは生まれ変わりと、一緒に手をとって世界の存亡をかけて悪と戦う、だなんて。誰も体験したことのないものだろう。

しかしこの一覇という少年と出会ったことで、タイムパラドックスは生じているはずだ。ここで少年と殺し合うことになってもおかしくないのではないか……と、基は今さらながらミルカの忠告を思い出した。

————厳密には『生まれ変わり』だからかなぁ?

一覇もこちらを殺そうと襲いかかる様子は見られない。基の心にも変化はない。

ふわ、と身体が浮く感覚がした。この部屋にいられる時間が、終わったということか。どういう原理なのかはわからないが、また彼とこうして会えると思いたい。自発的に会えるのなら、話は簡単なのだが。

不思議な七色の光に包まれて、基の身体は消えていった。しかし、一覇の身体はいつまでも『移動』する気配がない。

どこか異界のように感じるここは、実はひょっとして一覇が知る世界だったのだろうか。大きな全面の窓から、そっと外の様子を伺う。

不思議な銀色の煌めきが、磨きあげられた巨大なクリスタルでできた街並みを彩っている。この建物がこの街で一番高いらしく、どこまでも広がる常闇の空が近く見える。夜なのに、月が見えない。街が明る過ぎるせいではない、本当に月がないのだ。衛星や飛行機の光も無いように思える。

改めて部屋の様子を眺めた。生活感のない豪奢な部屋だった。ダークブラウンのフローリング、そこに敷かれている毛足の長い真紅の絨毯。鮮やかな朱色の柱、クリーム色の漆喰壁。御簾に囲まれた一角には、高価そうな金の細やかな縁取りが印象的な円形の手鏡が、いかにも大事そうに飾られている。

照明の類を探すと、天井は空っぽ。代わりに観音開きの出入口付近に部屋の色合いとマッチしたダークブラウンの小机があり、その上に蝋燭と金の受け皿が置いてある。そのせいで、街並みは一見して近未来的だというのに、あべこべにどこか古風な印象を併せ持っている。

こんな街が、一覇の知る世界にあるだろうか。いくら考えても、まったくそれらしい都市は思い至らない。性急かもしれないが、ここが異次元もしくは異世界であると、判断して動いてもいいかもしれない。ここの人にとって一覇がどういう存在なのかわからないが、敵対勢力として見られるなら、隠密に行動して損はない。

いつも腰に巻いている特製ホルスターに収まっている、ふたつの霊障武具基盤が手元にないのは不安だ。だがなるべく足音がしないように————と言っても裸足だったので杞憂のような気がする————、一覇はそろそろと扉に近づいた。

壁のそこかしこに設置してある蝋燭に照らされた薄暗い廊下へ出ると、わずかに人の声が聴こえた。ひたひたそろそろと、ひと気に注意して進む。

広く、長い廊下だ。部屋の数も、無限ではないかと思うほど存在する。どうも部屋ひとつひとつに名前が付いているらしく、観音開きの扉にでかでかと、一覇には読めない文字が書かれている。文字列が違うとわかるおかげで、延々と同じ道を進んでいるわけではないとわかる。それが不幸中の幸いだ。それがなければ、とっくに諦めて立ち止まっていたかもしれない。

と、声がこちらに近づいてくる。隠れられる掩蔽物はない……無数にある部屋しか。

とっさにそばにあった扉を軽く押し開き、隙間にするりと身体を滑らせるように侵入する。

ほっとしたのも、つかの間のことだった。

「……!!」

衣擦れの音がした。先ほどまでいた部屋と同じ、外からくる銀色の光に照らされた、薄暗い室内。見回して、すぐに気がついた。

豪華な天幕付きの紅白で彩られた、キングサイズのベッド。そこに真っ白な着物を着た、長い金髪の女性がいた。一覇と同じ澄んだ空のような碧眼で、こちらを見ている。

————やばい、どうしよう。

悲鳴でもあげられれば、絶対に捕まる自信がある。かといってテンプレートに『騒ぐんじゃねぇ』とあくどい姿勢でか弱い女性を脅してここに留まるのも、 長続きしない安全だと思われる。

どうしよう、どうする。

迷っていたら、女性が立ち上がってこちらに向かってきた。

息を呑むほどに、美しい女性だった。

女神のようなすさまじい神々しさが具現化したような、絶園のイヴ。絹のようになめらかで長い金髪は煌めき、新雪のように白い肌は薄暗い室内で浮き上がる。女性らしい細さながら、ほどほどに肉がついた艶めかしい肢体。歩くたびに着物の隙間から覗く太ももが、はだける豊かな胸が、蠱惑的に誘ってくる。

白魚のような手の指が、一覇の頬にそっとのびる。ひやりとしたシルクのような肌触りが、じわりじわりと広がった。

「————っ!」

初めて柔肌を触られる処女のような細い悲鳴を、一覇は必死に押し殺した。

女性の手は一覇の頬から、少しずつ焦らすように顎、首、鎖骨、そして胸に移動する。指先でつ、と胸を撫でられ、身体が跳ねる。

「っんな……、なんなんだよあんたは……っ!」

ようやっとの思いであとじさり、女性を振り払う。女性はとくに嫌な顔はせず、不思議な深い双眸で一覇を見つめている。

金の長いまつ毛に縁取られた碧眼は、真っ直ぐに一覇を見ながらも、どこか遠くを見ているような、それでいて強い意志を感じる瞳だった。

「…………た」

「……なに?」

形がいい桜色の小さな唇が、わずかに動いたのがわかった。しかし、声が小さくて聴き取れなかった。耳をすませて、もう一度。

「…………ようやく、あえた……」

女性はぽろり、ぽろりと涙を流す。

言葉の真意はわからない。だが声を聴いて間違いないのは、彼女があの歌を謳って、一覇と基を呼び出したのだ。

どういう理由なのか、どういった原理なのか、わからないことだらけだ。だけど彼女の流す涙の美しさが、一覇に荘厳で雄大な優しさをうったえる。

「……あんたは……誰なんだ?」

一覇の口から、自然と彼女の正体を求める。

女性は涙を赤い指先でそっと拭い、一覇の問いにその聖女のごとき鈴やかな声で答えた。

「妾はカグヤ————この月の女王なる者だ」




このときまでは、まだかろうじて信じていた。自分たちの世界は、自分たちのものであると。

だけど絶対なる支配者を前にして、ちっぽけな人間ごときの一覇はただ戦慄するしかなかった。

真実というものは、美しく惹かれる響きだが、『真実』は残酷でしかない。

宙はうず高くそびえ、風が亡霊のようにゆらぐ。

この世界の美しき支配者の涙が与えるものは、果たして一覇たちにとって歓喜なのか、それとも絶望なのか。




亡霊×少年少女 第二十一話 了


今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

最新話だけ読んだそこのアナタ、一話からチャレンジしてみよう!

今回のお話は、私自身も考えていてこんがらがりました。ループものって、難しいなぁ。

いざ説明するってなると、言葉を選びますね。とくに基は1970年代の青年だから、今普通に使っているコンピュータ用語は知らない。だから日本語で……って私も説明できねぇ!ウィキ!!……大変お世話になりました。

この『亡霊×少年少女』は多くのキャラクターが亡くなっています。しかし書くたびに、「これでいいのか?」と迷うこともあります。

もちろん私たちからしたら架空の人物なのですが、『ひとりの人間の死』を目の当たりにしたようで、私が殺したようなものだ、と思ってしまいます。

それでも世界は回っている。ひとりの人の死は、特別なことではない。かといって、かろんじられていいものではない。

だったら大切に書いていこうじゃないか!

開き直りのような気もしますが、私なりの結論です。

読んでくださった方々の心に少しでも生きていてくれるなら、それでいいじゃないか!

この出会いを大切にしてくださると、嬉しいです。

それではまた、お会いできることを願います。

2016.9 ひなた

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