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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
赤い雪
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赤い雪

亡霊(ポルターガイスト)×少年少女」過去編第十四話になります。

どうぞお楽しみください!

亡霊×少年少女 第十四話『赤い雪』


二〇〇九年七月十日、深夜。神奈川県横浜市旭区。児童養護施設『ひなぎく園』。

河本一覇は夢を見た。

自分が青年となって、義理の姉と妹と暮らしている夢。親友もいて、毎日が幸せで、でもどこかに淋しさがあって。

そんな、夢を見た。


一九七二年五月五日、五月晴れの気持ちのいい日だった。

神奈川県横浜市中区にある、矢倉邸の中庭。

「どうしたの、遥佳……最近ご機嫌だね」

妹の様子を不審に思った東雲基は、義理の妹……矢倉遥佳に問いかけた。すると遥佳はぎくりっと肩を震わせて、ぎこちなく答えた。

「そ、そーお?気のせいじゃなーい?」

友人となった防空壕跡に住んでいる少女、松野リンは基の秘密の友人であり、リン自身に、秘密に付き合いでいてくれと頼まれた。基に秘密を作るのはどうも心苦しいし、友人ができたことは嬉しくて話したいけれど、リンとの約束を守ることに決めた。

怪しい、なにかある。基は確信したけれど、遥佳が自分に隠し事をするなんて初めてのことで、暴いていいのかそっとしておくべきなのか迷っている。

わずかな兄心としては、その隠し事で困っていなければそれでいいと思うのだけれど……。

「どう思います?時雨様」

時雨の部屋まで入ることはできないので、部屋の近くで待機して、出てきたところを捕まえた。

「基……こんなところでする話ですか?」

「だって時雨様、全然出てこないんですもん。具合悪いんですか?」

「参考までにききます……何分待っていたのですか?」

「二時間」

時雨は盛大にため息をついた。

「貴方……馬鹿なんですか?」

「中学高校で六年間学年一位ですけど……」

「馬鹿なんですね」

学業的な意味ではなく、心の問題で。

意味がわかっていない基は、首をぎゅぎゅーっと捻っている。

それは置いておいてと、時雨は話を戻した。

「遥佳がなにかを隠していることは、わかっています。あの子が隠し事をする性格ではないことも……」

「じゃあ」

問いただしますか、と訊こうとしたら、意外な答えが返って来た。

「あの子が話してくれるまで、待ちましょう」

意外すぎて、もしかしたら目玉が飛び出していたのかもしれない。それだけ驚いていた。すると基の気持ちに気づいたのか、時雨が不機嫌に顔を歪める。

「なんですか、わたくしだってそのくらいの気配りはします」

「あー……いや、まぁ驚いたんですけど……でもいいんですか?なんか嫌な予感がするんですけど」

確かに時雨も、あまりいい予感はしない。なにかありそうだと思った。だけどあえて、基には言わなかった。

「あの子も今年で十六歳です。自分の行動に責任を持つくらい、できるでしょう」

「だといいんですけど……ところで時雨様」

「なんですか」

「今からオレとデートに……すいません嘘ですジョークです。だからそのものすごく蔑んだ顔はやめてください」

大丈夫かなぁ……。もし何かあったときのために、いつでも動けるようにしておいた方がいいかなぁ。

と思っていたら、時雨が基の気持ちを切り替えさせるようにせき払いをひとつして言い出した。

「まぁ、今日はいい天気ですから、公園にお出かけくらいはお付き合いして差し上げても……」

「マジですか!?行きましょう、すぐ行きましょう!」

とたんに元気になった基に手を引かれて、顔が赤く染まるのを感じた。

「ちょ、ちょっと……基!?」

まぁ、こんな日があってもいいだろう。時雨はそっと微笑んだ。

そんな二人の様子を遠くから見て、遥佳はため息をついた。

基と姉さんが仲良くなって、嬉しい。嬉しいはずなのだけど……心がもやもやする。ざわざわする。チクチクする。

「それって恋だよ、遥佳ちゃん」

遊びに行って相談して、リンの口から出た結論だった。

「こ、恋!?だって兄さんだよ!?」

「義理のお兄さんだったら、問題ないと思うけど……あ、でも」

お茶菓子を頬張りながら、リンは人差し指を立てて言った。

「お姉さんと取り合いになっちゃうのが、遥佳ちゃんとしては嫌なんだね?」

「あー……そうかも」

もし自分が基のことが好きなのだとして、ゆくゆくは時雨と取り合いになりそうな雰囲気だから、怖い。

お茶をすすりながら、遥佳は思いっきり不安そうに眉根を寄せて呟いた。

「もしそうなったら……あたしはどうすればいいかな……?」

「遥佳ちゃんは、どうしたいの?」

「うーん……基のことも、姉さんのことも、二人とも好きで、大事にしたい。でも、あたしは……三人で一緒にいたい。……子供かなぁ?」

リンは首を横に振った。

「その気持ち、大事だと思う。でもそうなると、お姉さんも基さんも、遥佳ちゃんも自分の気持ちを打ち明けないっていう選択肢を選ばないといけないよ」

遥佳とリンは、同時に腕を組んで頭を捻る。

「むつかしいわね……二人にあたしの気持ちを打ち明けないで、あたしの思い通りに動いてもらう、なんて」

「いっそのこと遥佳ちゃんが気持ち伝えて、付き合わないでいつまでも三人で過ごす……ってパターンもあるよ」

「あたしの性格上、いくとこまでいく可能性が……」

遥佳は元来、考えるより体を動かす方が向いているたちだ。なにごともコントロールするのが苦手なのだ。

「じゃあ、遥佳ちゃん、ずーっと基さんに想いを伝えないの?」

「それを言われると……うーん……」

リンはお茶を飲み干して、ヤカンを取りに行きながら遥佳の後押しをした。

「でもわたし、どうしても遥佳ちゃんを応援するなぁ」

「どーして!?」

「だって親友だもん、当たり前だよ」

「お、おぅふ……」

嬉しくて、こそばゆい。

遥佳には今まで、こういう『なんでも言える友達』がいなかった。もちろん、友人と呼べる人たちはいたが、こんなに深い話をするような仲にはなれない。

それはきっと、その人たちが遥佳を《矢倉家の次女》として見るから、遥佳がそれに応えようとするからだと思う。別に人のせいにしようとは思わないし、その人たちが悪いわけではないとわかっている。でも、そういう意識が生まれてしまっていることは事実で、お互いにそのことが邪魔して腹をわって話せない。

「親友って……こういうことなのね……」

「あ、いやだった?」

「ううん、嬉しいの!あたしもリンのこと、親友だと思ってる!誰よりも話せる人だもん!」

遥佳はリンの手を握った。リンは一瞬微笑んだが、すぐに手を引っ込めた。

「どうしたの、リン?」

「ごめんね、なんでもない!」

「…………」

リンは時々、よそよそしいときがある。彼女はなにか、秘密を持っている。まぁそれは、リンに限らず遥佳にも言えることだけれど。だけどそれを話せる日がきたら……本当に彼女と親友になれるのかもしれない。

でも……この秘密を彼女に話していいものか、わからない。

「ところでさ、例のお兄さんはどうしてるの?」

「あ、うん……なんかわたしのために仕事を探してて、最近は夜遅くに帰ってくるんだ……」

「そっか……あ、だったらさ、リンはうちに来ない?」

人が来ないとはいえ……いや、来ないからこそ、少女一人でこんなところにいては危ない。放っておくことはできない。変質者や霊子体になにかされるかもしれない。しかしリンは両手と首を横に振って、答えた。

「いいよ!悪いし!それに……それにお兄ちゃんに怒られるし!」

「そーいやあたしたちの関係は秘密だったわね。まぁ無理にとは言わないわ。でも、なにかあったらうちに来て!これ、電車代置いていくわ。うちまで地図と電話番号も」

鞄から財布とメモ用紙、ボールペンを出して、メモ用紙に地図と電話番号をサラサラと書いていく遥佳。

「そ、そこまでしてもらわなくても……」

「いいから受け取る!最近は物騒なんだから!」

と、半ば強引に手渡した。それをおそるおそる受け取り、

「いいのかなぁ……お兄ちゃんにバレたら怒られそう……」

「あたしのせいにすればいいわよ!とにかく、なにかあったら連絡すること!」

「はーい」

というやり取りをして、遥佳は帰った。

横浜市中区の矢倉邸。

「ただいまー」

「おかえりなさいませ、お嬢様」と旅館の中居のような女性がわらわらと出てきて、お出迎えしてくれた。それらに「ただいま」をいい、広い玄関を右に曲がる。一番奥にある自室を目指していると

「おかえり、遥佳」

基が部屋着の深緑の着流し姿で迎えてくれた。

「兄さん、ただいま」

「もうすぐ夕飯だよ、着替えておいで」

「ん?兄さんがそんなこと言うの、珍しいわね。なにかあるの?」

「う、うん……時繁様に、たまには夕飯を一緒にーってお誘いを受けてね」

「おじいちゃんが?」

矢倉家現当主の矢倉時繁は厳格な性格で、矢倉家の血が入っていない者をよく思っていない。特に時雨と遥佳の父である草介と、基のことを。基に関して言えば草介が連れてきた孤児だ、時繁が認めるはずがない。

「おじいちゃん……なにを考えているんだろ……?」

遥佳が深刻な顔をしていると、基が頭を軽く叩いて微笑んだ。

「僕は大丈夫だよ。それよりほら、準備しよう」

「そうね」

遥佳が部屋までの道を進むと同時に、基も自分の部屋へと向かった。祖父は食事のときでもきちんとした格好でないと、気が済まない質だ。遥佳は黄色い花柄の着物に紫の帯を合わせて、髪を丁寧に結わえて紫色の簪を差した。

中庭を挟んだ正面の食堂に着くと、既に正面に時繁と右手に母のトキ、左手に時雨と橙色の着物に着替えた基が揃っていた。

「遅いわよ、遥佳」

母の叱責する声。

「ごめんなさい」

やや尖った声で素直に謝って、空いているトキの隣に座る。ほどなくして食事が届いて、五人は揃って箸を付ける。無言、無言、無言。その無言を突き破ったのは、時繁だった。

「基……ここのところ、ずいぶん活躍しているそうではないか」

「ありがとうございます」

「貴様もそろそろ、陸軍大尉の座が欲しいのか?」

この頃の霊障士は、戦前の名残で軍属だった。軍と完全に引き離されたのは、一九九〇年頃のことだ。

基は現在、陸軍少尉。二十三歳という若さでは異例のスピード出世だが、矢倉家の養子ということを考えると、実に不名誉である。

「いえ、出世には興味はございません」

基は食べる手を止めて、努めて和やかに否定した。

「ほう、ならばなにを求める?名誉ではないとすれば、富か?」

「時繁様は、私めになにをお望みなのですか?」

時繁は笑った。

「貴様ごときが、私の企みに気づくとはな……なに、ちょいと頼みごとよ」

「頼み……?」

時繁は右隣の基のお猪口に酒をついで、じぶんのお猪口にもつぐと一気にあおる。基はそれに倣って酒を少し含み、時繁が話しはじめるのを待った。時繁は少し溜めて、話をはじめた。

「今、軍が《災厄の悪魔》を追っていること、知っているな?」

「はい……」

《災厄の悪魔》こと松野雪片はここのところ、リンに精がつくものを食べさせたくて、日払いの仕事をしている。危ないからやめろといってもきかないので、最近では基が仕事を用意している。もちろん、軍関係のところは避けている。

「近々その《災厄の悪魔》を炙り出して、殺そうという動きがあってな……貴様もこの作戦に参加しないか、打診された」

その瞬間、遥佳は立ち上がりそうになる体を、必死に押さえつけた。

「はは……私ごときがですか?お戯れが過ぎます」

「戯れ……か。貴様こそ、いい加減にふらふらせんで、腰を落ち着かせたらどうだ?」

「今年でようやく二十四歳ですよ。まだまだ所帯を持つなんて、早いです」

基は笑みを崩さず、時繁のお猪口に透明な日本酒を注いだ。時繁はそれを受けて、お猪口に口をつける。時繁はいささか気持ちよさそうに首を傾けて、基の青い瞳に語りかけた。

「ふむ……まぁいい。なれば単刀直入に言おう、《災厄の悪魔》を狩れ」

やはりそういうことか。と内心で嘆息した。だが、これはチャンスだ。

「……成功したら、私は陸軍大尉以上の地位を望めますか?」

時繁は笑った。

「なんだ、やはり地位が欲しいか、京都の孤児よ」

基は微笑んだ。

「もらえるものはもらっておく……が自論ですから」

これはチャンスだ。自分に言い聞かせて、基は酒をあおった。


「頭いたーい……」

基はいつものように、中庭でごろんと転がっていた。

二日酔いだ。昨晩は酒を飲みすぎた。元々酒には弱い、つい調子に乗ってしまった。

「だらしないですね」

気持ちのいい木陰に、時雨が入ってきた。時雨は水の入った瓶を取り出し、基の額に乗せる。

「ありがとうございまーす……まぁ、男には飲まなきゃやってられないことがあるんですよ」

「昇進の話でしょう?よいことではないですか」

「オレとしてはすっごい複雑です。なーんせ、親友を殺して昇進ですからね」

「親友!?えっ……だって《災厄の悪魔》は……えっ!?」

「彼はオレの親友です。誰にも……秘密の」

時雨は急に声を絞り、口元に手を当てる。

「このこと、おじいさまは……」

「察してるから、ああいう命令をされたのでしょう。あーあやだやだ。……とすみません、時雨様のおじいさまなのに」

「そんなことを言っている場合ですか!?親友を……殺すなんて!貴方はよいのですか!?」

「…………」

さわ……。

風が頬を撫でる。髪が舞い上がる。初夏の陽光に基の金髪がきらきらと輝き、木の葉っぱが生み出す陰でコントラストを作り出す。

「綺麗だな……」

ぽつりと呟く基に、隣に座る時雨は首をかしげた。

「なにがです?」

「時雨様の髪。真っ黒で、艶があって、さらさらで……触っても、いいですか?」

途端に時雨の顔がかぁっと熱くなった。時雨はぷいっと顔をそむけて、顔に火照りを必死にごまかす。

「よいと言うと思いますか!?貴方って人は、どうしてそう不埒な考えばかり……っ!?」

基は起き上がる。さら……と時雨の黒髪が、基の骨っぽい指に梳かされる。風に髪が舞い踊る。

「うん、綺麗だ」

微笑む基の顔を見て、時雨はさらに顔を上気させる。手を上げようとしたが、しかしなにも言うことができない。上げかけた手を下げて、基の肩に頭をもたれさせる。

「……どうするのですか?」

「なにが?」

「親友の方を……殺すのですか、と訊いているのです」

風がさぁっと音を立てた。基は目をつむり、耳を澄ませる。隣の時雨の心音さえ聴こえそうだ。

「オレは……矢倉家所属の国家第一種霊障士、東雲基日本国陸軍少尉です」

「知っています」

「オレの生きる意味は……この家に尽くすこと」

「違います!!それは違います!!貴方は、ご自分のために生きなさい!!」

基は時雨に口づけをしていた。たった数秒間の沈黙。風の音さえ届かない、二人の時間。唇が離れた途端、基は悲しいような嬉しいような、曖昧な笑みを浮かべていた。

「あなたは……変わった。心が自由になった気がする。オレとは違って」

「それは、貴方が与えてくれた自由です!わたくしは……貴方と関わらなければ、おそらくずっと、縛られたままです……!」

基と関わらなければ知らなかった気持ち、自由。愛情。それらは大切なもので、なくてはならないもの。ぜんぶ基が教えてくれたんだ。

「わたくしは……貴方が好きです、基」

あふれる涙は、止まらない愛情。こんなにも好き。こんなにも愛している。

基は時雨の涙を手で拭うが、涙はあとからあとから溢れ出てくる。やがて貪るように口づけをした。互いが互いを求め合うように、深く何度も口づけをした。

それは許されない恋だった。主君の娘と、使用人の孤児の恋。誰もが認めない、認められない恋。

それでも二人は、どうしようもない磁力のように強く惹きつけられた。

————あぁ、あたしは兄さんに……基に恋をしていたんだ。

木陰で愛し合う姉と兄を見て、遥佳は気付かされた。叶わないかもしれない恋は、叶わない恋になって現れた。

二人のあいだに、自分が入る隙は一ミリもない。時雨は基が好きで、基は時雨が好き。簡単な数式のように、シンプルな回答。締め付けられる心。遥佳は繰り返した。

姉さんは兄さんが好きで、兄さんは姉さんが好き。だからあたしは邪魔者だ。

いっそのこと、誰かほかに、基以上に好きになれる人が現れたらよかったのに。そうしたら、自分だって諦めて、新しい恋に踏み出せたのに。どうしてだろう……こんなときばかり気持ち、変わらない。

涙が溢れて止まらない。止めてくれる人は、誰もいない。


「じゃあ……遥佳ちゃん……」

「うん……失恋」

気持ちが苦しくて、家に居づらくて、遥佳はリンのところに遊びに来ていた。気持ちを吐き出す場所が欲しかった。

出してもらったお茶を今更飲み始めて、遥佳はため息をつきながら内心を吐露しはじめた。

「結局……あたしは姉さんには敵わないんだ……姉さんはいつも、あたしよりなにをするのも上手くて、注目されていた」

「遥佳ちゃん……」

「美人だし……そりゃあ兄さんも、美人でできる人の方がいいよね」

「遥佳ちゃん!!」

テーブル代わりにしている岩を挟んだ、真正面のリンが遥佳の手に手を伸ばす。

「恋愛って、そういうことじゃないよ!その人と合うか合わないか……っていうのかな?魅力も大事だけど、それ以上に大事なことがあるんだよ!」

「それ以上に……大事なこと……?」

「うん……運命っていうの。それは誰にでもあるもの。だからきっと、遥佳ちゃんにもいるんだよ、運命の人」

運命の人……か。

ドラマや漫画、小説でしかみたことないけれど、今だけは信じたい気持ちが強かった。信じてみたかった。


「本当に……わたくしでいいのですか?」

木陰に寄り添う基と時雨。時雨はぽつり、と訊いてみた。

「なにが……?」

「こっこっ……」

「コケコッコー?」

「馬鹿にしています!?……ってそうじゃなくて!本当にわたくしを恋人にしていいのでしょうかということです!!」

「いいんです!」

基は右に体を倒して、時雨に膝枕をさせた。

「オレ、女の子大好きですから!!」

めきょ。

時雨の右拳が、基の頭にクリーンヒットした。

「というのは冗談で……!」

「当たり前です!!」

「オレにもわからないけど、惹かれるんです。時雨様に。おかしいですよね、使用人の大いなる勘違いでもいいですよ。でも……ずっとお慕いしていました」

時雨の膝枕で、時雨の顔を見上げる基の青い瞳を、時雨はじっと見つめた。

二ヶ月前、時雨は基に恋をした。それからずっと、基のことばかり考えて、どうしたら彼は自分のものになるのだろう、とそればかり考えてきた。

自分は欠陥品だから。妹とは違って、出来損ないの《矢倉家》だから。不器用だし可愛くないし、なにも目立ったことはない。妹とは違うから。

そう思って諦めた日もあった。みんながみんな、妹と比べたがり、『矢倉家の息女』としてみたがる。

だけどそんななかでも、基だけは違っていた。彼だけは『時雨』をみてくれた。

膝の上の頭に、そっと囁く。

「ありがとう……基」

大好き。と素直に言えないのは許して。いつかわたしが本当の自信を持ってあなたと向き合えたら、そのときに言うから。わたしとわたしの約束よ。


「遥佳!」

一九七二年五月十日、午後三時。

矢倉邸東の廊下で、時雨は遥佳を呼び止めた。

「どうしたの、姉さん?」

「おはぎ食べない?作りすぎてしまったのよ」

「基兄さんに食べてもらえば?兄さん、甘いもの大好きでしょ」

まだ心の傷は癒えないけれど、姉のことを想わない妹ではない。時雨は矢倉家息女として、我慢してきたことがたくさんあったはずだ。せめて恋愛くらい、自由にさせてあげたい。

「どうして基なのです?わたくしは遥佳に食べてほしくて、声をかけたのですよ」

「姉さん知ってる?第一種と矢倉家息女がデキてるって噂」

「わっわたくしと基はっ!!その……そういう関係では……」

「おかしいなぁ?『矢倉家の息女』は二人いるよねぇ?」

「は……!?嵌めたのね!?遥佳!!」

背の高い姉は腕も長く、やすやすと遥佳に手を伸ばすが腕力がない、簡単に阻まれた。

「ねぇどこまで?どこまで進んでるの二人の仲は!?」

ノリが完全におっさんだ。

「どこでもありません!!」

「あっれぇ、おかしいな?この前キスしてんの見たんだけど?」

「きゃーきゃーきゃー!!!!!!!」

可愛いなぁ姉さん。だからかな、応援したくなるのは。

「あたしは応援してるからさ、頑張んなよ、姉さん!」

そう言って、時雨が抱える三段のお重箱のうち一段をかっさらって小走りで去っていった。

「ど、どこ行くのです、遥佳?」

「友達んとこ!おはぎありがと!」

お幸せにー、なんて手を振った。

そんな遥佳の後ろ姿を見て、時雨は疑問に思う。

「あの子……お友達なんていたのですね……」

これまで一度も、友達という存在を口にすることはなかった遥佳が、友達のところへ遊びに行くと言って出ていった。それが嬉しかった。

「そうですよね……あの子ももうすぐ十七歳、お友達の一人くらいいますよね」

「なに独り言言ってるんですか?」

背後から声がかかった。振り向くと

「基!」

珍しく、黒の軍服姿でピシッと決めていた。

「会議ですか?」

「はい、お呼び出しがかかりまして」

基は手袋を外して、お重箱からおはぎを取って口にする。おはぎでもさもさしながら、愚痴をこぼしていた。

「まったくさー、お偉い連中もめんどくさい言い回しで辞令回してくるからめんどくさいんだよねー……あーここ居心地いー」

ゴンッ。

「どさくさに紛れてどこを触っているのですかっ!」

正解、胸。

殴られた頬をさすりながら、基はおはぎ二個目を口にした。

「では《災厄の悪魔》討伐の辞令が下されたのですか?」

「はい……それに伴ってオレに第一小隊の指揮権と、大尉の地位を与えてくれるって」

「……よいのですか?」

「言ってもいいですか?」

「どうぞ」

「めんどくせー……」

ぎゅうっと時雨を抱きしめる。時雨の肩に頭を置く。

「面倒、面倒じゃないの問題ではないでしょう!どうするのですか!?このままでは、親友を殺すことになるでしょう!?」

「だからそれがめんどくさいって……」

「貴方がなんとかしないで……誰がやるの!?」

「…………大丈夫、考えはあるから」

基は時雨の頭をくしゃっと撫でた。少し疲れたような微笑みを浮かべて、時雨の立った気を落ち着かせようとしている。そこまでされてしまうと、時雨もなにも言えない。ただ黙って、基の腕を掴んだ。

「落ち着きました?」

「……誰のせいだと思っているのですか、誰の」

「あはは、時雨様の早とちりさん!」

「だ•れ•の•せ•い?」

ぎりぎりぎり、と基の腕をつねる。

「すみませんオレのせいです、すみません」

「わかればよろしい」

時雨は基の腕からすり抜けて、くるりと振り返った。

「基、お茶をいれてください」

「えー、時雨様がいれてくださいじゃないですよねオレがいれます、すぐにでも!」

基の返事に満足して、時雨は廊下から見える景色を眺めた。青々とした樹木が小さな森になり、さんさんと輝く太陽の光を受けて、濃い陰を作っている。中庭にあるいつもの小さな丘の上には大きな木が一本、やはり木陰を作っている。地面は柔らかな芝生。じつに気持ちいい場所だ。

「時雨様、お茶の用意ができました」

「では参りましょう、いつもの場所に!」

いつもの場所で、いつものように基は横になって、時雨はお茶を飲みつつおはぎを食べながら持ってきた本を読んで。たまに基が起きておはぎをつまむ。

穏やかな午後、幸せの絶頂だった。


「美味しい!おはぎなんて初めて!」

「そう、よかった。姉さんの手作りなのよ、どんどん食べて」

いつものように防空壕へ遊びに来ていた遥佳。リンと一緒におはぎをつまみながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。

しかしリンは、時折外の様子を気にしている。

「どうかしたの、リン?」

「あっ……ごめんね、なんでも……」

遥佳は真剣に尋ねた。

「なにかあるんでしょ?」

「えっ……」

「あたし、力になるよ。なんでも言って」

リンは大事な親友だ。自分にできることは、なんだってしてあげたい。するとリンは迷った様子を見せて、やや緊張した声で答えた。

「ありがとう……遥佳ちゃん。でも大丈夫!大丈夫だから……」

「ただいま」

ふいに男の声が聴こえた。

「お、お兄ちゃん!!」

リンがお兄ちゃんと呼んだ男に視線を向ける。

痩せた男だった。リンと似て背は高く、真っ白の髪は長い。そしてもっとも特徴的なのは、切れ長の赤い瞳。

赤い瞳……

「鬼魔……?」

遥佳のその言葉を聴いて、男は不愉快そうに眉をひそめる。

「リン、なんだ、この女は」

「お兄ちゃん!!あの……この子はわたしの親友の矢倉遥佳ちゃん。遥佳ちゃん、こっちはわたしのお兄ちゃん、松野雪片」

リンが慌ててあいだに割って入るが、雪片は遥佳の名前を聴いて更に顔を歪めた。

「基の妹か……なにをしにきた?」

「いえ……遊びに来ただけです、失礼しました。リン……ごめん、もう帰るね」

「あ、遥佳ちゃん……もう、お兄ちゃん!!」

防空壕を出て、遥佳はようやく息ができた気分だった。

松野雪片。あの男を見た瞬間、なにかが自分に叫んできた。

『あいつを殺せ』と。止まらない声、止まらない感情に流されて、あの男を殺してしまうところだった。

どうして……どうして?わからない、この感情はなに?

いや、これは感情じゃない。埋め込まれた命令。なにから命令されているのか、そこまではわからない。だけど、どうしてそう思ったのか。わからない。

「しりたいですか……?」

「誰!?」

女の子の声が聴こえた。思わず霊障武具基盤を構えて振り返る。

「わたしは敵ではありませんよ、矢倉家の次女さん……いえ、酒呑童子」

その子は布を被っていて、顔まではわからない。声と背丈から推測して、おそらく年齢は十歳前後。見え隠れする服の裾は赤、巫女装束のようだ。

「酒呑童子……ってどういうこと?」

警戒は緩めない。質問に答えてくれるかどうか、目的が見えたら斬る。

「お姉さんはドッペルゲンガーってご存知ですか?」

「ドッペルゲンガー……って、自分と同一人物が三人いたら、三人目に殺されるって都市伝説でしょ?それと酒呑童子、なんの関係があるのよ?」

「正しくは三人揃ったら殺し合う、んですよ。そして貴女は酒呑童子の三人目。ふふふ……殺し合いが始まる!祭りよ祭り!」

話が見えない。

「酒呑童子が三人……ってどういうこと?」

「その昔、酒呑童子の御霊は三つに分かれました。分けられたのです。そのひとつは貴女、残りふたつは……ふふ、教えて欲しいですか?」

「お、教えて……!」

彼女の言う通りならば、自分はその二人と殺し合うことになる。もし、知っている人だったらと思うと、怖い。

「男ふたりです。名は……」


「じゃ、行ってきます」

五月十一日深夜。基は軍服に袖を通して、《災厄の悪魔》討伐作戦の会議室がある元老院へと向かう。作戦会議をしたのち、すぐに作戦は始まる。

「気をつけてください……」

「……そんな顔しないでくださいよ、もう!」

基は見送りに来てくれた時雨を、ぎゅうっと抱きしめる。

「大丈夫です、オレは平気ですから」

「わたくし……貴方に言ったこと、訂正します。親友を殺してでも、生き残ってください」

「……行ってきます」

————時雨様は残酷だ。雪を……無二の親友を殺してでも生きろという。そんなことをしたらオレは、心が死んでしまうんだ。だから

基は黒と白の軍帽を被り直して、会議室のある元老院に入った。

————だから、雪にはどんな形でも生き残ってもらう。

それから一時間後、第一小隊東雲基大尉班と第二小隊忍野喜助軍曹班は瀬谷へと出発した。

横浜市瀬谷区。

『目標発見、突撃しますか?』

『待て、まずは東雲大尉の指示に』

『オレひとりで行く』

『大尉!?しかしっ……』

『オレが五分経っても帰らなかったら、突撃しろ。いいな、五分だ』

『……了解しました』

「大尉はなにを考えてるんだ?そりゃあ大尉の実力なら……」

「まぁなにかお考えがあるんだろ。それにしても、自分より十も年下を上官と呼ぶとはね……」

「あぁ、キツイな」

「だったらお前、第一種取ってみろよ」

「絶対に無理だな」

「はは、同感」

防空壕内部。

「どうした、基。ただごとではないな、お前がそんな顔してるときは」

リンと寝床の準備を終えた雪片は、基の突然の訪問にさして驚きもしなかった。突然はいつものことだし、慣れていた。だが、軍服で来るのは初めてだ。

「《災厄の悪魔》討伐作戦が始まった。すぐに逃げろ」

「はっ、お前がその姿でここに来てるんだ、外は敵だらけだろ」

ぱさっと軍服が落とされた。基のものだ。

「それに着替えて、走るんだ。リンちゃんを連れて、遠くへ!」

「おい……お前はどうなる?こんなことが知られたら……」

「いいから行けよ!早くしろ!」

雪片は基の軍服に着替えて、リンを連れて出ようとした。そのときだった。

入口に人影が現れた。小柄だ。

「遥佳……!?」

「遥佳ちゃん!?」

遥佳は霊障武具を構えて、雪片をひたと睨んでいた。虚ろなようで、なにかの意思を感じさせる瞳。ゆらりと揺れたと思ったら、遥佳は突然走り、雪片に向かって斬りかかった。

ギィン!!

遥佳の霊障武具太刀《霞》を、基の霊障武具大剣《花月》が押さえる。

「遥佳様……その剣をお引きください!!」

「いやよ!この男がいなければ、あたしたちは……!!」

「なにを言ってるんだ!?それに遥佳がどうしてここに……!?」

遥佳は霞で花月を弾いて、後ろへ飛んだ。火花が散って、薄暗い防空壕を照らした。

「遥佳……訳を教えてほしい。でないとオレは、遥佳と戦えない!」

遥佳は強くかぶりを振った。

「基と戦うつもりはない!!あたしはその男を殺すの!それが運命……それが使命!」

「運命なんてものはない!使命も……人は、生きている限り自由だ!」

「人は運命に翻弄されて生きるのよ!!あたしには……あたしにはそれがわかる……」

太刀を持ち上げて、遥佳は強く前を睨みつけた。運命を恨むように、憎むように。それはさながら鬼のような瞳だった。思わず震える基。初めて、彼女を怖いと思った。

「どいて、基……」

「できない……」

「どかないと、基のことも殺す」

「それでも……。親友を殺すよりマシだ」

刀を持つ手が震える。基は本気だ。本気でどく気がない。

「どいてよっっ!!!!!!!!!!」

太刀を構えてとびかかる。

ぐしゃ。

湿ったような嫌な音が響いた。遥佳の目の前に広がるのは、茶色い髪の毛だった。リンだ。

リンは基を庇って飛び出して、遥佳の太刀を胸で受け止めた。リンの胸から、赤い雫がたれた。赤いシミがじわっと広がる。

「リンっっっ!!!!!!」

雪片の悲鳴が響いたと同時に、リンの体が崩れた。リンの体を基が支える。

「リン……なんで……?なんでオレを……」

「遥佳ちゃん……には……基さんを殺して欲しくなかった……です……」

「どうして……?」

リンはふふふ、と笑って答えた。

「遥佳ちゃんに……きいてください……」

「リン……なんで……?なんでアンタ……」

遥佳の掠れた声に、リンは微笑んだ。

「だって遥佳ちゃん……ずーっと、自分の気持ち隠したまんまで……辛いでしょ?いつもの……おやつの、お礼……」

こんなんじゃお礼にならないけど、と付け加えて笑った。

「遥佳ちゃん……自分を責めないでね……これは……私が決めたこと……だから……」

カシャーン!

音を立てて、遥佳の手から《霞》が落ちた。基の腕の中で落ちてゆくリンの手を、遥佳は強く握る。

「リン……あたしは……アンタが死んだら……ずっと後悔する!!淋しくて……苦しいよ……」

リンはまた笑った。まるで死地の最中にいるようには思えない、鮮やかな笑顔。

「遥佳ちゃん……笑って。たくさん笑って、幸せになって……」

————お兄ちゃんが、自分の分まで笑ってくれって、よく言ってくれたから。

「基さんも……笑って……お兄ちゃん……も……」

基は涙を流しながら笑った。精一杯、リンの希望通りに笑った。でも、雪片は笑うことができなかった。たくさん涙を流して、リンの顔を見ることもできなかった。リンはそれが淋しかったけれど、兄の気持ちも理解できた。

リンはゆっくり、目を閉じた。

一九七二年五月十一日、午前四時十一分。松野リンは十五年の生涯を終えた。

基はリンの遺体を地面に横たえて、指と指を組ませた。

「お前のせいだ……」

雪片は遥佳を糾弾した。

「お前のせいでリンは死んだ!!この女が全部……っ」

「やめろ、雪」

遥佳に掴みかかる雪片を、基は腕で制した。

「離せ基!!この女をリンと同じ目にあわせてやる!!」

遥佳に伸びた雪片の腕は、届くことはなかった。

ストン。

基の大剣《花月》が、鮮やかに雪片の腕を斬り落とした。痛みに呻く雪片。戸惑う遥佳。基は飛んでいった雪片の腕を取って、雪片に言った。

「雪……じきに軍の部隊が二個も攻めいる。今のうちに逃げろ」

痛みに呻きながら、雪片は確固とした意思で唸る。

「その女をリンへの手土産に……おれは逝く」

「リンちゃんはそんなこと、望んでいない。ここにいる誰も死んで欲しくないから、自分を犠牲にしたん」

バッ。

雪片は基の右手に収まる大剣を奪い、遥佳を襲う。その勢いは、もはや鬼神のごとき力だった。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

遥佳はとっさに《霞》を盾にしたが、大剣と比べたら小枝のように細い太刀では相手にならない。もうだめだ、そう思って目を閉じる。

————死ぬのは……あたしだったんだ……。

ぐしゃ……。

確かに斬られる音はしたのに痛くない。そっと目を開けると、目の前に基の背中があった。斬られていたのは、基だった。

「基っ……!!!」

基は左肩から右腰にかけて斬られていた。血があふれる。じわじわと、あふれていく。

「基……っ!!」

————これは罰だ。あたしが背負うべき、罪のいばら。

「基…………」

雪片はうろたえていた。人を斬ること、殺すことに慣れている人間にはない、行動。彼は人類が思うほどの、あの《災厄の悪魔》なのだろうか。遥佳は疑問に思った。

少女は言った。

『酒呑童子のドッペルゲンガー……残る二人の名は……【東雲基】、【松野雪片】』

ドッペルゲンガーは《殺し合う》のではなく、《殺し合わされる》のではないか。

それは神か仏か、あるいはこの世界の創造者によって。自分の生命と存在意義をベットに、戦わされるのだろう。魂の続く限り、永遠に。

「雪……逃げろ……」

斬られた胸を押さえて、基は雪片に向かって言った。基は胸を押さえたまま這いずって、ズボンのポケットからライターを取り出して、転がっていた木の枝に火をつける。兄妹の生活用品に火が回り、防空壕は一気に窯のように蒸されていく。

雪片は躊躇いがちに走り出し、やがて覚悟を決めて走った。

————どうしてあの時、基はおれを生かしたのか、今でもわからない。おれたちはどうしようもなく仲が悪くて、リンがいなければバラバラだったかもしれない。でもきっと……おれたちはなにかで繋がれていたのかもしれない。今はそう信じたいよ。

火が燃え広がった防空壕の中で、基と遥佳は避難しようとしていた。遥佳が基を支えて、出口まで歩く。しかし、炎の速さが一枚上手だったようだ。煙がどんどん立ち上る。そんなとき、軍の第一小隊の隊員が来てくれた。

「大丈夫ですか、東雲大尉!!って矢倉曹長まで……!?」

「話はあとで!基をお願いします!」

基を預けて、遥佳はリンの遺体を探した。だが、煙が邪魔をして見つからない。

「曹長、なにを探しているのか知らないが、今は退くことだ!命を優先させろ」

遥佳は舌打ちをして、隊員に腕を引かれるままに走った。

翌朝。《災厄の悪魔》討伐作戦は成功と報じられて、基は大尉から少佐に昇進した。

横浜総合病院の、三〇九号室。

「回復してきてよかったです。りんご食べます?」

胸の傷は結構な深手だったために、二週間の入院を余儀なくされた基の元へ、時雨がお見舞いに来ていた。

「時雨様が膝枕してあーんしてくれるなら痛い痛い!胸を肘でグリグリするのはやめて!」

「元気ではありませんか……まったく」

時雨は器用にりんごの皮を剥いて、芯から切り離して、食べやすい大きさに切っていく。それを横からつまむ基。

「言い忘れていましたが、昇進……おめでとうございます」

基は鼻で笑った。

「嫌味ですか?」

「素直に感心しています。親友の方は……?」

「さてね……今はどこへやら。あ、お茶ください」

「はいはい」

少し、この空間が息苦しく感じられた。なにを話せばいいのかわからない、お互いになにを言えばお互いを傷つけないで済むかとか、そんなことばかり考えている。

コンコンコン。

ドアのノック音。ここの部屋は個室なので、お客さんで用があるの基だろう。

「どーぞ」

基が軽い感じで応答すると、そこには軍服を着た時繁が立っていた。時繁が基をじろりと睨みつけると、基は右手を挙げて素早く敬礼をした。

時繁は特に気にする様子もなく、厳しい面持ちで基に向き直った。

「《災厄の悪魔》はどこだ」

基の作戦はとっくに読まれていた。殺した証拠として見せた雪片の左腕だけでは、十分な証拠として認められなかったか。基は内心で舌打ちする。

「さぁ、天国じゃないですかね?」

「しらばっくれるな、貴様が逃がしたことはお見通しだ」

なんとしてもごまかさなくてはいけない。基は身構えた。だが

「……まぁいい。いずれわかることだ。今はせいぜい、のうのうとしているがいい」

そう言い残して、時繁は病室から出ていった。

ほっと静まる病室。わずかな沈黙を破ったのは、基だった。

「遥佳……どうしてます?」

時雨は止まった時が戻ったかのように体をぎこちなく動かして、基の問いかけに答えた。

「え、えぇ……表面上は元気にしていますよ」

「表面上は、か……」

無理もない。親友だと思っていた少女を殺してしまい、更には兄まで傷ついてしまったのだ。きっと自分のせいで、と思って傷ついていることだろう。

早く退院して、なにか言ってやりたいが、いかんせん自分の体がガタガタだ。起き上がるだけで胸の傷がずくんずくんと脈打つように痛む。

「ちょっと基……起き上がってはいけませんよ!傷が開きます!」

「時雨様」

「なんです?」

「東雲時雨に、なってくれませんか?」

「……………は?」

「いえ、こんなときになに言ってんの!?というお怒りは受けます。でも……オレ……時雨様とけ、結婚したくて……」

我ながら、唐突でなんと自分らしくないプロポーズだろうと思った。でも今言いたかった。今結婚したかった。時雨を自分のそばに繋ぎとめていたかった。

怖かった。雪片のように突然、大切な人がいなくなる恐怖を、感じたくなかった。

「貴方ねぇ」

怒られるんだ、と思った。だけど意外にも、時雨は基の頬に優しく触れた。

「貴方が望むのなら、わたくしはどこへだって行く覚悟を持っております。それをお忘れなきよう」

「はい……」

「それから、おじいさまを説得することですね」

「はい……」

「わたくしを……幸せにしてください」

顔を赤らめる時雨は強烈に可愛くて、基はベッドから飛び上がりそうになっていた。実際、飛び上がっていたかもしれない。飛び上がる代わりに、基は時雨の体を思い切り抱きしめた。

ゴンッ。

「抱きつくのはやめなさい!!」

「ぶー……いいじゃないですか。個室ですから、あんなことやこんなことも出来ますよ?個室ですから」

「繰り返すな!!まったく……いい加減になさい!貴方が今することは発情ではありません、傷を癒すことです」

「それと職を探すことね」

「…………」

これには時雨も口をあんぐりと開けてしまった。

「軍を……やめるのですか?」

「霊障士もね。オレはもう……戦えない」

「やめて、どうするのです?」

「適当にガッツリ稼げる職に就いて、時雨様と子供十一人を養える程度にはなりますよ」

「サッカーチームかっ!……ってそうではなく!」

時雨はこの気持ちを的確に表現する言葉を知らない。だから、説明することができない。それでも言葉に変えようと、必死にもがいた。

「ま、なんにせよ、全ては退院してからかな?よろしく、奥さん」

————なにも、言うことができなかった。なにかいうことができていたら、彼を引き止めることができたかもしれないのに。

悔しくて、時雨は歯噛みした。

一九七二年六月二日、基は正式に日本軍を退役した。

————そしてオレは、戦うことをやめた。

自分が戦ったって、なにも変わらないことを知ったのだった。

それから一年後の、一九七三年八月十八日、午前十時三十分過ぎ。

矢倉家北西にある、第一書庫室。

「ここにいたのですか、基」

開いている書庫室の入口から、時雨がひょいと覗きこんだ。

「時雨様、今お仕事中ですよ」

「前は年がら年中さぼっていましたよね?」

「言うようになりましたね、時雨」

顔を見合わせてふふふ、と笑う。

「お茶にしましょう。今日はあんみつを作ってきたのです」

そう言われて基は、書庫を簡単に片付けて鍵を締めた。いつもの中庭に向かう。

基は時雨の強い誘いで、矢倉家の書記となっていた。元々が国家第一種霊障士、しかも陸軍少佐とあって、反対する者は誰もいなかった。

この一年、それ以外に特に変わったことはなかった。変わったことがあるとすれば……

「遥佳様は?」

「道場に篭もりっぱなしです……あの子の好きなあんみつだから、誘ったんですけど……」

遥佳はあの日以来、基と顔を合わせようとしなくなった。それから

「そういえば、また起こったのですって?連続猟奇殺人」

中庭であんみつとお茶をいただきながら、時雨は基に話しかけた。

横浜市では、ここ数週間で狂気ともいえる殺され方をされた死体が多く発見され、それらは同一犯だと言われている。

警察や、軍まで動いているというのに、犯人は未だに見つからない。わずかな痕跡から、犯人は日本刀型の霊障武具を使って殺人を犯しているということだけはわかった。

「どっちにしろ、オレはもう軍の人間じゃありませんからねー、事件に怯えて部屋にこもる以外にできませんよ」

「そんなことありません!貴方は戦える、守る力があるのです!」

「オレは……戦えない」

基は俯いた。

————あの日、剣を捨てたオレには、無理なんだ……。

時雨はそれ以上なにも言わなかった。言えなかった。

ころっと変わって、基は笑顔で尋ねる。

「そうだ、時雨様、明日って空いていますか?」

「え?えぇ、明日なら……」

唐突に言われて、なんだろうと首を傾げる時雨。

「新宿に行きませんか?可愛い宝石屋さんを見つけたんです」

「なにか買うのですか?」

「もう!婚約指輪ですよ!オレから、時雨様に……」

————婚約指輪。

まだ二人の仲は、祖父公認ではない。これからも、もしかしたら認めてもらえることはないのかもしれない。だけど、二人は強く結ばれていた。

なにがあっても、二人で……

「はい……!」

時雨の笑顔は、大輪の花のごとき輝かしさだった。

一九七三年、それがはじまりの年で、終わりの年だった。

このときの彼らは、まだ知らない。


二〇〇九年七月十二日、午前七時。

神奈川県横浜市中区、私立久木学園高等部第一校舎の屋上テラス。

「なんだよ千歳、話って」

河本一覇は久我原千歳に、メールでここまで呼び出されていた。

千歳は長い黒髪を風に揺らして、澄んだ金の瞳をまっすぐ一覇に向けた。

「あのね……本当は言っちゃいけないって言われてるんだけど……アンタに話す」

「なにを……?」

「四季がああなっちゃったのは、あたしのせいだと思うから……」

千歳はどこか、遠くを見ていた。その姿は、夢に見た『遥佳』のようだと、一覇は思った。

「おばあちゃん……四季のお母さん、記憶がないの。正確には『記憶退行』って言ってね、おばあちゃんは今、二十五、六歳頃の記憶で生きているの」

そんなこと、四季の口からは聞いたこともなかった。一覇は驚きつつ、千歳の話を聴いていた。

「母さんが生まれてかららしいから、もう三十年以上。四季が生まれたとき、おばあちゃんの病状は悪化しちゃって……それで、『遥佳は生きている』なんて馬鹿げた《制度》を作ったの」

「『遥佳は生きている』……?」

千歳は頷いた。

「要は遥佳のニセモノを仕立て上げて、おばあちゃんを安心、安定させようって話。大おじいちゃんが始めたことなんだけど……それにあたしが選ばれたの。あたし、遥佳に似てるらしくてね。でも」

風がざわざわとする。

「五年前、突然四季が『僕がやる』って言い出してきかなくて……あたしは解放された」

「四季は……自分から?」

千歳は頷いた。ここからは推測なんだけど、と注釈して、千歳は続ける。

「もしかして四季は……遥佳なんじゃないかって」

風がざわざわとする。まるで予兆のように。

第十四話 完


辛い回がきましたね。主人公にはトラウマを植え付けるのが好きな、ひどい作者です。

実はこの「亡霊(ポルターガイスト)×少年少女」の密かなテーマは、「静かに舞い降りる雪」だったりします。第一話然り。勝手にテーマソングにしている曲もあります。中川翔子さんの『snow tears』です。ピッタリだと思うので、読みながら聴いてみてください。とくに一話なんてもうすごくピッタリ!この話のためにあるんじゃないかというすごく失礼なことを思いました!

そんなわけで、次回もお楽しみに!

2015.8.27 ひじきたん

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